柔らかい殻
一人じゃないよ、と貴方は言った。
「ひめのん、帰ろう」
ニッと笑って手招きをする。
私は目の前に居るこの不思議な人が、自分の帰る場所にいつも居てくれるのかもしれない期待を持って、少しだけ、少しだけ泣きそうになった。
そんな期待をすればするほど、後で後悔することになるだろう自分の事はよくわかっているのに。わかっていても、尚。
強くなろうと必死で塗り固めた殻を脆いモノに変えてしまう貴方。
*
命の恩人となれば、それだけでこの人に対して私は一生頭が上がらないんじゃないかと思ってしまう。管理人であることは勿論重要項目ではあるけれど。
共同リビングでTVのチャンネル取り合戦をやっているエージ君と明神さんを横目に、取っ組み合いの2人から放り出されたコントローラを拾って、アズミちゃんと動物のドキュメンタリー番組を見る。もはや単なるプロレスと化してしまっている様子に、微笑ましささえ感じながらも、そうして明神さんと交流を持てるエージを羨ましく思う。
「ねぇ、ヒメノンはぞうさんみたことある?」
「え?あー、えっと、小さい頃に一度だけ見たことあるよ」
朧気な記憶を引き出してそう答えると、アズミちゃんは「いいなぁー」と呟いてまたTVに向き直った。見たことがあるといっても、それは相当小さい頃…まだ母親が元気だったころの話で、正確な記憶が無いので羨ましがれる程ではないのだが。
それっきり、連れて行ってくれる人なんて、居なかったのだから。
「ミョージン!アズミぞうさん見たい!!」
唐突にそんなことを言ったアズミちゃんに、当の明神さんの方を見てみて吹き出した。エージ君と明神さん、お互いの頬を引っ張ってとんでもない顔をしながら、ギリギリとにらめっこを続けている。案の定アズミちゃんの声は聞こえてないようだが。
「ミョージンってば!!!」
「アズミちゃん、ちょっと待ってて」
私はとりあえず膠着状態を続けている2人に近づいていって、(エージ君には触れないので)明神さんの膝を後から蹴り飛ばす。
「ぬお!?!」
所謂“膝かっくん”というものを食らって明神さんが体勢を崩した。すかさずエージ君がそこへ飛びかかると、その衝撃に耐えきれず目の前の体が重力に従って倒れ込んできた。
…つまり私の方へ。
「キャアアアアッ」
「どわっ!?ひめのん?!?!」
下敷きにしたことで初めてその存在に気付いたのか、明神さんは慌てて起きあがると頭をしたたかぶつけてクラクラしている私をのぞき込んだ。
「ひめのん…うわ大丈夫か…怪我してねぇだろうな…!?」
おろおろと頭を抱えてそんな心配をしているのがわかったけど、未だに目の前がチカチカしていてうまく返事が出来ない。大の大人の男が遠慮無しに倒れてくれば、それも当然だと思う。
「だーーーっいつのまにかもう野球終わってるし!!?」
どれだけ長い間取っ組み合いをしていたのか問いたくなるような事を叫びつつ、項垂れるエージ君にアズミちゃんが慰めをかけているのがわかった。
とりあえず視界が回復してきたので瞬きをすると、明神さんが顔をのぞき込んでくる。
「お、大丈夫かひめのん?どこぶつけた?頭か?背中か?」
「…え、と」
思ったよりも顔が近くにあって、またもうまく返事が出来ない。顔に血液が集まったせいか、打ちつけた後頭部のあたりが突然ジンジンと痛み出した。
「あ、頭…っ打った…かなっ」
「頭か…!ああぁ…ごめんなひめのん…」
不器用に後頭部を撫でる仕草が、とても恥ずかしくて、嬉しい。ぶつけた場所は痛いけれど、そのおかげで頭を撫でて貰えるなら何度ぶつけてもいいと思ってしまう。さすがに形が変わるほどは遠慮したいけれど。
「あと、他に痛いところは無いか?」
「他…うーん、肩と、お尻ぶつけたかなぁ…」
「…頭と肩はともかく、お尻撫でたら怒られるだろうな」
「あっ当たり前でしょ!?」
真剣な顔をしてそんな事をいう明神さんに、私は痛みも忘れて立ち上がった。これ以上近くにいたら、蒸発してしまいそうだ。
「うおっ撫でてないのに怒られた…」
「明神さんが変なこと言うからだよっ」
顔が赤いのをあまり見られたくなくて顔を反らす。それが余計に怒っているような態度に見えたのか、困り果てた明神が肩を落としてアズミちゃんの方へ行くのが見えた。
こんな可愛くない態度を取る自分は不可抗力なのだけど、やっぱりああして背を向けられると、少し、いや、凄く寂しい。
「で、アズミさっき呼んだか?」
「うん!ねぇミョージン、動物園行きたい」
「動物園???ああ、本物みたいのか」
「そう、ぞうさんときりんさん見たい!」
「ふむ…」
顎に手を当てたまま考え込む明神さん。
ぶつぶつと呟く中に、「今は家賃という収入が」とか「今月の生活費は」とかいう言葉が聞こえて心配になってきた。けれどアズミちゃんがじっと明神さんを見ていることに気付いて、彼は意を決したように頷く。
「よし、じゃあ次の休みにでも行ってみるか?」
「ほんと!?」
嬉しそうに明神さんに抱き付くアズミちゃん。それを抱きとめて撫でる明神さんを見ていると、また羨ましいと思う。
「日曜なら、ひめのんも行けるよな」
「え」
突然話題を振られたことよりも、同行することが当たり前であるかのような言い方に、自分が頭数に入っていたことを知って驚く。この人は、自分達が周りにどう見られてもきっと気にしないのだろうけど、私はそうはいかなかった。
「い、いいよ。別に私の事は気にしないで、行ってきなよ」
「あれ、なんか用事あるのか?」
「…うん、そんな感じ」
嘘をついた私に、残念そうに「そっか」と行って明神さんはアズミちゃんを床に降ろした。どの動物園に行こうか、とかそういう話を始めたので、私はもう居ても仕方ないと思って部屋に戻る廊下へ歩き出した。
「あ、ひめのん!」
「…?」
呼ばれて振り向けば、笑っている明神さん。
「さっきはホント、ごめんな。痛いトコ冷やしとけよ」
「うん、わかった」
心配してくれることは、本当に嬉しい。笑って答えた私に安心したのか、彼はまたアズミちゃんと会話を再開する。その楽しそうな声が聞こえなくなるまで、黙って私は歩いた。
部屋に戻って扉をしめて、ずるずるとその場にしゃがみ込む。
「…痛い」
座ったらぶつけたお尻の部分がヒリヒリと痛かった。後頭部はそれほどでもなくなったけれど、やはり痛いものは痛い。
「痛いよ…」
頭を撫でる、あの優しくて無骨な手の平の感触が、まだ残っている。
「…明神さん…っ」
痛みのせいじゃなく、ぼやけた視界に私は膝を抱えた。
こんな、こんな情けない姿を見られたらどうしようと思う反面、見つけて欲しくて嗚咽していた。泣いていたらきっと、あの人はまた心配そうに私の顔をのぞき込んで、一生懸命慰めてくれるだろう。
他の人たちにそうするのと、同じように。
私はあの人にとって、特別ではない。アズミちゃんやエージ君と同じ、このうたかた荘の住人で、お世話になっている一人に過ぎない。あの人の言う「おかえり」も「ただいま」も、私だけに言っている訳じゃない。
こんな、こんなボロボロのままじゃ、私は私を包む殻さえ作れない。
「………おい」
「!!」
扉の方向とはまったく関係ない方から突然声がかかって、びくりと体を震わせる。恐る恐る顔を上げてみれば、壁から顔を出したエージ君が居た。
「何、泣いてんだお前」
「なんでも…ないよ」
慌てて顔を擦る。そういえば彼らは、別に扉からでなくてもこの部屋に入れるのだと思い出して、改めてプライバシーの無さを思い知った。
「なんでもないのに、泣くような奴じゃないだろお前。さっきこけたのがそんなに痛いのかよ?」
ぶっきらぼうだけど、エージ君は心配してくれていた。
その事がわかって思わず苦笑しそうになる。ああ、嫌な子だな今わたし。
「そんなところかな…でも大丈夫だよ。明日になれば治るよきっと」
適当に答えて立ち上がる。エージ君の居る壁の方を向かないように押し入れから布団を出して、寝るための準備を始めると、はぐらかされたと思ったのかエージ君が近づいてきて私の正面に立った。
「お前、おかしいぞ」
「な…にが?」
「さっきだって、明神が動物園行こうって誘ったの断るし、今は今で泣いてるし。…なんだよ、何があったんだよ?お前がそんなだと、俺…なんか落ち着かねぇ」
眉根を寄せて睨んでくる視線が、あまりに真っ直ぐで苦しい。私だって、これほど情けなくなっている要因をどうにか出来るならしたいのだけど。
「…ごめんね。でも、自分の事だから、自分でどうにかするよ」
ムリヤリ作った笑顔が、いびつだったのかもしれない。
エージ君は私の顔を見て戸惑ったように表情を変えると、しばらくして何も言わずにまた壁の向こうへ消えていった。
私は布団を敷いて、学校の準備をして、寝る用意を済ませるとまた壁に背を預けて座り込む。お風呂は入ったからすぐにでも寝られるけど、今布団に入って電気を消したら、もう涙を止める方法が無くなってしまいそうだった。明日泣きはらした顔で明神さんの前に立つわけにもいかない。
心配してくれたエージ君には申し訳ないけれど、こればかりは離しても無駄だと思う。
自分だって、たかだか人一人、好きになったことでこれほどバランスがおかしくなるなんてこと、初めて知ったのだから。
*
「ひめのん…ひめのん風邪ひくよ」
「ん…?」
柔らかく頭を撫でられる感触に、ぼんやりと眠気の中で目を開ける。目の前に明神さんが居て、また私をのぞき込んでいた。どうしたんだろう、別にどこも痛くないのに。
私は夢でも見ているのだろうかと考えたけれど、余りに眠くてまた目を閉じた。頭を撫でていた手が今度は頬に触れ、また優しく撫でる。
「ひめのん?あー…ダメだなこりゃ。起きないよエージ」
「…とりあえず布団に放り込んどけば?そいつに風邪引かれて困るの、お前だろ」
「ったく、心配だって素直に言えばいいだろがー」
「な!?そんなんじゃねぇよ!!」
うるさいなぁ…もう眠いんだよー…。
そんな風に思って、私は自分を包んでいる暖かいものにぎゅうっとしがみついた。少しだけ硬かったけれど、私の好きな匂いがする。
「わっ…ひめのんっ…おいおい寝惚けるなよ…」
「と、とにかく俺はもう知らねぇからな!」
「あ!エージ!!こら逃げるなお前っ?!っと…うるさくしちゃ悪いか」
そうだよ、眠いんだよ…私。
暖かいものに包まれたまま、不意に体が浮いたような感覚がして柔らかいものの上に寝かされた。ああ、多分お布団だと思う。私は離れようとしたぬくもりを手放さないように、掴んでいた手をぎゅうっと握る。
「…ひめのん…この手は何…?」
困ったような声。私の好きな声だ。
「参ったなぁ…どうしろっていうんだ…」
離れかけた温度が、また近くまできて私を包む。そのことに安心して、少しだけ手を緩めた。
「…あれ?泣いてたのか…ひめのん」
目元の涙を拭って、大きな手が離れていく。もっと撫でて欲しいけど、もうそれを訴える声も出ないし、指先も動かない。意識は遠くなる一方で、私は順調に眠りに落ちていっていた。
「俺にはわかんないことだらけだよ…ひめのん。どうしたら君をずっと笑顔にしてあげられるんだろうな?」
そんな呟きのあとに、頬に落ちるかさついた感触。
「おやすみ、ひめのん」
寝息をたてている私にそう言って、そっと明神さんは布団を離れた。なんて幸せな夢なんだろう、と夢に対して感謝する。たとえ眠りの中でみた幻でも、私は嬉しくて、思わず顔を綻ばせてしまった。
いつか、いつか本当にこんな日が訪れればいいと、心から思いながら。
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