ガードレール
通学路の途中、車通りの多い通りから住宅街に入る曲がり角を数メートル先にして、姫乃はそこに見覚えのある後ろ姿を見つけた。
「エージ君?何やってるのこんなとこで」
びくっと背筋を硬直させて、バットを持った少年が振り向く。
「んだ…ヒメノか」
「なんだとなんだ!」
小走りに近づいてくる姫乃が、明らかに自分を視線の先に捉えて向かってくる事を、エージは途轍もなく懐かしく感じた。誰かが自分に向かって、足音をたてて駆けてくる瞬間。その先にいる自分に、笑顔を向けてくれる瞬間。その一つ一つが、ものすごく昔のことのように思えて。
「帰り道?それとも何処か行く所だった?」
「別に…」
ふいっと顔をそらして、エージは走らないまでもすたすたと姫乃より先を歩く。それを早足で追いかけながら、隣に並ぼうとする姫乃。
「なんでそんな早足なのよう」
「馬鹿かお前。はたから見たら一人なんだぞ」
「へ?」
ふと周囲を見ると、数名しか居ない通行人が代わる代わる視線を送ってくるのがわかった。独り言を言いながら歩く女子高生としか一般人の目には映らない事を思い出して、なるほどそういうことか、と姫乃は苦笑する。
「でも明神さんも全然気にしてないじゃない?」
「あのなぁ…あいつは別だろうが。仕事にしてんだからさ」
「うーん、仕事ではないけど、私だって立派に『みえるひと』だよ?」
触れることは、出来ないけれど。
そう言って今度は鼻歌を歌い出した姫乃に、少しだけエージは呆れる。確かに世の中には霊感というものや、特殊な力を持った人間が居て、それらの人々も普通の人と変わらない生活を送っているものだが、姫乃の場合は少し勝手が違う。
姫乃の場合、生活事態が普通そのもので有り得ない。
日常霊が見える人にとって、普通の人とそうでない人の区別というのは難しいと聞くが、彼女にとっては生活の場そのものがほぼそうでない人の中に
あるのだ。霊と馴れ合って生きている人間なんて、明神のような例外を除いてそれほど多く居るとは思えない。まして、彼女は“案内屋”の側に居ることで絶対
的な安全を保証されていると共に、それだけ何事かに巻き込まれるかもしれない確率も備えてしまっている。
その事を本当にわかっているのだろうか?
「お前なぁ…何度も危ない目にあっといて、あまりに楽観的すぎじゃねぇの」
「そうかな?確かによくわかんないことは色々起きるけど…」
でも、と言って足を速め、エージの前に出て振り向くと姫乃は大きく手を広げた。
「でもエージ君やアズミちゃんと一緒に騒いだりするの、楽しいもん」
それは嘘偽りない笑顔。
エージは眩しそうに目を細めると、そのまま曲がり角に差し掛かろうとした姫乃を見つめていた。
姫乃は楽観的かもしれないけど、その分愚かしいほど素直だ。単純と言ってしまえばそれまでだけど、自分にとっては好ましい人種だと思う。明神もそうだ。彼はお調子者だし時々意地の悪い所もあるけど、優しいし真っ直ぐだ。
こんな自分の側に居てくれる。
ただそれだけで、充分だというのに。
「ちっ…わけわかんねぇ奴」
少しでも、その距離を縮めたいと思ってしまう、最も愚かな自分がいる。
「エージ君、おいてっちゃうよー」
軽く振り返った姫乃が、暢気に手を振っているのを見て気が抜けたエージは、アズミに引き続き目の離せない住人が増えたことに悪態をつきつつも、それでも嬉しくてばれないように下向いて笑った。
ブロック塀の上に上り姫乃を追い越してやろうと駆けだした時、ふと丁度自分達の方へ向かって走ってくる車が目に入る。
事もあろうに、斜体をガードレールにぶつけそうな勢いで。
「ヒ…メノ!!」
「え、わっ」
思わず名前を呼んだ事が幸いして、道路に近い所を歩いていた姫乃が大きく塀の側まで離れた。その直後数秒前姫乃がいた場所に、車がとうとうガードレールにぶつかって止まった。
「すいませんっ大丈夫ですかーっ」
そんな事を言いながら出てきた若い運転手が、自分の車の惨状に携帯を取り出してアタフタとしはじめる数分間。ぽかんと口をあけて状況を理解せずにいる姫乃の側にしゃがみ込んで、エージは触れられないとわかっていてもその顔に触れるようにひらひらと手を動かして見せた。
「ヒメノッ…大丈夫か?怪我ねぇか?」
「うん…びっくりしたー」
ガードレールの向こうでバタバタと流れる状況がまるで人事のように片付いていく間、ずっとエージはヒメノの手の上に自分の手を――感触がないので姫乃は気付いていないようだったが――置いていた。
あのまま姫乃に何かあったら。
想像したくないけれど、想定していた自分に嫌気が差した。
自分たちにもっと近い場所に来て欲しいと生者に願うことが何を意味するのか、そのくらい考えなくてもわかることなのに。
彼女があまりに屈託がないから、少しだけ、期待して。
期待した自分が情けなくて、恥ずかしかった。
決して温度を感じることのない姫乃の手を握りしめ、エージは心の中で謝る。きっと姫乃は気にしないと笑うけど、それでもやっぱり、謝りたかった。
「さて、なんか帰っていいみたいだから、帰ろうかエージ君」
「…おう」
ひしゃげたガードレールを後にして、住宅街への道を2人並んで歩く。無言のまま下を見つめていたエージに、不意に姫乃が何か思いついたように声をあげた。
「ねぇ、私とエージ君って向こう側とこっち側ってことだよね?」
「は?なんだ突然」
「だから、一般的にはそういうことだよねって言ってるの!さっきのガードレールみたいにさ、ここは通れませんよーていう線があるわけでしょ?」
「ああ…そういうことか」
何を今更言い出すのだろう、と思いつつも黙って先を促す。姫乃はエージが聞いてくれそうな事を確認すると、先を続けた。
「でも交通ルール守れる人と守れない人がいるのと同じでさ、関われる人と関われない人が居るわけで…」
いやそれは全然違わないか?という突っ込みを入れないのはエージなりの優しさだ。
「乗り越えて向こう側へ関わろうとしても出来ない人だって、やっぱりいるよね。私の場合見えるだけだから、きっと直接は関われない人なんだけど…」
「関わるなっていうか来なくていい」
「まだ途中だよ!!」
思わず茶々入れをしたら怒られた。怒っている姫乃の顔は、実は嫌いではない。でも話の途中なことに変わりはないので、先を続けてクダサイ、としたでに出ておく。
「でも、ガードレールって乗り越えられない人もいるけど、上から手を出すだけなら誰にだって出来るよね」
「はぁ」
言いたいことをいまいち掴めないけれど、歩調はどんどん軽快になっていく。
「だからさ、私がエージ君達とこうやってお喋りしてることだって、別に大したことじゃないんだよきっと」
その理屈は、ちょっと理解しがたいものだったけれど。
「なんだそれ、明神じゃあるまいし…アホだなお前」
「アホって言ったな!?ようし…あとで明神さんにデコピンして貰おう…」
「待て!なんでそうなる!?」
けれど、彼女にとって自分といる日常が、それほど自然に受け入れられているのだということだけは実によくわかって。
「そうと決まったら早く帰ろーっと」
「なっ…このやろ…!」
走り出した姫乃を慌てて追いかけながら、うたかた荘へと続く道を駆ける。
響く足音は姫乃のものだけだけれど、自分も後から一歩一歩地面を蹴って。
こんなちっぽけな、あやふやな存在の自分でも、そこに居ることを認めて、包んでくれる存在がいるということに感謝しながら、エージはまた一つ、今度は別の人間に向かって心の中で謝った。
「ただいまー」
「…ただいま」
息を切らせて玄関に飛び込むと、何事かと管理人室から明神が顔を出した。
「おかえりーって2人一緒だったのか?」
「うん、途中で会った」
「ふぅん…?」
珍しいなーといいつつ2人を迎え入れ、階段の方へ歩いていこうとした姫乃のスカートが砂埃で白くなっていることに気付く。
「ひめのん、転んだりしたの?」
「へ?ああっ汚れてる!?」
バシバシとスカートを払う仕草がなんだか可笑しくて、エージと明神は顔を見合わせて笑ってしまった。だけどすぐに、エージは笑っていられる事でもないと思い出して、明神の足を軽く蹴った。
「いてっなんだよエージ」
「笑ってる場合じゃねぇよ。さっきヒメノの奴車にぶつけられそうになったんだぞ」
「な、なに!?!」
「エージ君別に明神さんに言わなくても…っ」
「ひめのん!!!!」
だっと姫乃に飛びついて、明神が「怪我はないか!?怪我は?!」と大あわてで確認する。何やらくるくると回されたり揺さぶられたりしている姫乃にエージは笑い出した。
「ハッ…ざまーみろ」
「ちょっエージ君っ!ていうか…明神さっ…大丈夫!大丈夫だってば!!」
「ホントか!?ホントに大丈夫か?!」
泣き出すんじゃないかという勢いで心配している明神を無下にすることも出来ず、姫乃何度も大丈夫といって彼を宥める。微笑ましささえ覚えてエージは見ていられないとその光景から背を向けた。
ごめん、明神。
先ほど心の中で謝ったのとまったく同じく、小さく、小さくエージは呟く。
せっかく彼が見つけた大事な光を、自分のエゴでどうにかしたいなんて論外だ。今の自分があるのは全てにおいて他でもない明神のおかげなのだから。
幸せになってほしい。あの2人にはずっと、ずっと。
エージは遠巻きに明神と姫乃を眺めていたアズミを見つけると、珍しく自分から「…遊ぶか?」と声をかけた。
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