はさみ
ある日明神は、姫乃に向かってこんなことを言った。
「ひめのんひめのん、もし今日暇なら髪の毛切ってくれない?」
「へ?髪の毛?」
「うん」
散髪をしろという頼みに、姫乃はきょとんとする。確かに彼の髪の毛は目にかかるほど若干長く伸びてはいるけれど、出逢った頃からそれはあまり変わっていないように思えるし、何より姫乃は他人の髪の毛を切るなどという経験が過去に一度も無い。
「私そんなのやったことないけど、いいの?」
「うん、だって他に頼める人居ないし」
今までは自分で切ってたんだけどね、という言葉に軽く首を傾げながらも、下手でもいいならと不安げに呟くと、明神は構わないといった風に笑った。
幸い今日は天気も良く、風もほとんど無い穏やかな天候だった。絶好の散髪日よりといえなくもない空を見上げながら、はさみを片手に姫乃は緊張した面持ちで生唾を飲み込む。
「ほ、ホントに知らないからねっ」
「まぁ切りすぎちゃったらその時はその時だよ」
何がそんなに楽しいのか、上機嫌の明神。
姫乃は震える手で櫛を明神の髪の毛に当て、最初のはさみを入れる決心がつかないままたたずんでいた。天気がいいといってもまだ冬なので、気温は決して高くない。早く終わらせて早くこの庭に置いた椅子と共に中へ入りたかった。簡易シートとしてつぎはぎにした新聞紙がカサカサと鳴る度に、早くしなければと思う。
「ひーめのん?」
「は、話しかけないでっね!」
振り向こうとした明神にびくっと体が揺れる。その拍子に力の入った右手が、握っていたハサミを動かした。
シャキンッという軽快な音。あーとうとう切ってしまった…という表情のまま、観念した姫乃は恐る恐る毛先を僅かずつ切っていく。ハサミの鳴る小気味良い音に目を閉じながら、明神は自分の頭を撫でる姫乃の手を気持ち良いと思った。
「自分で髪の毛切れるなら、自分でやればいいのに…」
ブツブツと文句を言いながら櫛を通す姫乃に、小さく笑いながら明神が僅かに首を上げる。
「自分でやるのも大変なんだよ?」
「うごかないでっっっ」
「ああはいはい」
大人しく前を向いた明神は、今度は鼻歌を歌い始めた。何の曲かはわからないし、それがどんな旋律なのかも実際不明瞭だったけれど、これほど機嫌の良い明神も珍しいと思う。姫乃は自分に髪の毛を切らせる事に対して、明神が何の不安も感じていないという事にひどく疑問を持った。
仮に明神が自分の髪の毛を切ってくれると申し出ても、恐らく自分は断るだろう。
「ねぇ、ホントにどうなってもしらないよ?」
「………」
「床屋さんでも美容院でも、行けばいいのに」
「………」
「ちょっと聞いてる?明神さん」
反応が無いので思わず毛先をピンと引っ張ると、小さく呻いて明神が眉をひそめた。
「ひめのんが話しかけるな、動くなって言ったんだろー?」
「私から話しかけてる時はいいの!」
「うわ無茶苦茶だなぁ」
でも、そういう顔はやっぱり嬉しそう。
「…明神さん、なんでそんなに機嫌がいいの?」
「え?俺機嫌いい?」
「うん。髪の毛切って貰うのがそんなに嬉しいの?」
自覚がないのか、明神は首を傾げて考え込んでしまった。返事がないなら続きをどうにかしようと、また刃先を髪の毛に差し込んだとき突然明神が大きく頷いた。
「ああ、そっか。確かにそうかもなぁ」
「あああああぶないでしょー!?」
危うくハサミで白い綺麗な髪の毛を赤く染め上げるところだった。姫乃は、何のこと?とでも言いたげに丸い目をして振り向いた明神に、なんと言って怒ったらいいのかもわからず頬をふくらませる。
「ああ、ごめんごめん。理由が思い当たったから、つい」
「っ…もう、ホントに怖いんだからね…!」
やっとの思いでそれだけを言うと、明神は少しだけ申し訳なさそうに笑って前を向いた。もう動かないから大丈夫だよ、とつけたして。
控えめなはさみの音に耳を傾けながら、また鼻歌を歌い始める明神に姫乃も段々と落ち着いていった。くせっ毛に見えて、少し柔らかい髪の毛は櫛に素直に従うし、ハサミの使い方にも慣れてきた。女性ではないから真っ直ぐに切りそろえてはいけないだろうけれど、綺麗な銀色にも見える髪の毛にハサミが入る音は心地よい。
「俺、昔は他人に触れるのとか大っ嫌いだったんだよ」
「え?」
突然ぽつりと言う。
手を止めて前を向いたままの明神をうかがうが、振り向くそぶりも見せないので恐らく動くつもりはないのだろう。姫乃はいったん止めた手を再び動かしながら、耳だけはそちらに向けた。
「相手が誰でも…陰魄でも、陽魂でも、生きた人間でも。俺に関わろうとするものが全部怖かったんだな。まぁ、前にも言ったけど明神がそれをアッサリぶちこわしてくれたわけだが」
「はちゃめちゃな人みたいだもんねぇ」
「その頃も髪の毛は自分で切ってた。ただ、一回ハサミで自分の耳切っちまった事があってさぁ…」
「い、痛いよ…」
「ははっ…痛かったけど、その後明神に叩かれた方が痛かったなぁ。器用でも無いくせに何やってんだーってな」
「うんゴメン私でもきっとそう言う」
自分も器用とは言えないけれど、さすがに耳を切るのはどうかと思う。姫乃は短くなった髪を軽く撫でて、明神の肩にかけた新聞紙の上に切った毛を払う。はらはらと積もっていく白いそれは、まるで雪みたいだ。
「それから、こうやってさ、あいつが…髪の毛切ってくれるようになったんだ」
「…そう、なんだ」
声が、急に細く、でも柔らかくなった。
師のことを話す時の明神は、少しだけ寂しそうな様子にも見えるけれど、ひどく幸せそうな表情もする。それだけ二人の思い出は暖かい物なのだと、少しもその頃を知らない姫乃にさえ伝わるくらいに。
会ったこともない、『明神』という男。今目の前にいる人を形成させたと言っても過言ではないそのヒトも、こうして彼の髪の毛を撫でて、櫛を通したのだろうか。そして彼はそれを思い出して上機嫌になるほど、嬉しい思い出受け入れていたのだろうか。
「俺よりは器用だったからさ、あいつ。それに、基本的に頭に触るのとかはあいつ以外ダメだったから」
「…ええと、動物の本能としてあるんだよね。信頼出来る相手以外、他人に頭を洗わせたり、預けたりするのって抵抗があるって本で読んだことある」
「うん、今もそれは変わってないしね」
ふうん…と軽い返事をして、長さの違うところが無いか左右を見比べる。後からは特に問題なさそうなので、あとは前髪だけだと告げて明神の前に回る。
「目閉じててね。あと口も閉じててね。鼻で息もしないで」
「いやそれかなりムリあるひめのん」
「じゃあ息はしてもいいよ」
「じゃあって…っぷ!髪の毛食った!」
「口開けるからだよう」
実はちょっとわざとだった。思わず顔を綻ばせてしまったけれど、きっと目を閉じているから彼は気付かないだろう。
「前髪は切りすぎたら怖いから、少しにしとくよ」
さらさらと、細かい髪の毛が流れていく。少しだけ出てきた風にのって、太陽の光でキラキラ光って見えるそれはやっぱり雪みたいだと思った。
目を閉じた明神の顔を、間近でじっと眺めるのは初めてだろうか。
よくみると小さな傷のある頬や額、長い睫、綺麗な二重の瞼。触りたくなる衝動を抑えながら、ここぞとばかりに観察する。こんなに近くで顔を見るなんて、普段では有り得ないことだから。
「…ひめのん、あんまり近づくと息がくすぐったい」
「え?!」
気付けば鼻先が触れそうになるほど、姫乃は顔を近づけていたらしい。慌てて離れると、目を閉じたままの明神が少しだけ肩を竦ませるような仕草をして、小さく呟いた。
「まぁ、いいんだけどね別に」
ひめのんは、平気だから。
多分、そう言った。かなり小さな呟きだったので聞き取りにくかったが、多分、そう言った。
何が平気なのか聞きたかったが、先ほどまで上機嫌だった明神が、拗ねたように口を尖らせているのに気付いて止める。機嫌を損ねてしまっただろうかと、心配になった。
「…ごめんね?」
「だから、いいんだって」
それ以上話す気もないのか、また黙る。少しだけ寂しい気持ちになりながら、姫乃はチョキチョキとはさみを通して、ほんの少し短くなった前髪を左右おかしくないように揃え、顔に落ちた髪の毛を払う。手で払ってもなかなか落ちない目元の髪の毛をどうしようか考えて、姫乃は仕方なくホコリでも払うようにふっと息を吹いた。
「わっ」
「あ、ごめ…。終わった、よ?」
「ああ…ありがとう」
ふるふると頭をふる様子はまるで犬みたいだと思いながら、明神から距離をとって櫛についた髪をゆっくり払う。あんなに異性と距離を縮めたのが初めてだからだろうか。知らず知らずそれをしてしまった自分が少し恥ずかしくて、俯いたまま姫乃は片付けを始めた。
「…ひめのん」
「へ?」
呼ばれて顔を上げると、屈み込んだ明神の顔が、目の前にあって。
「お返し」
「ぇわぁ!?」
言葉を返す間もなく、突然目元に息を吹きかけられる。くすぐったいようなぞくぞくするようなその感覚にごしごしと顔を擦ると、可笑しそうに明神が笑っていた。
「…明神だってここまで近づいてきやしなかったんだからな」
「え?何?」
「なーんでもありません。ちくちくすっからちょっとシャワー浴びてくるわー」
また鼻歌なんて歌って、うたかた荘の中へ入っていく背中。
「か、片付けも私…?」
風に吹かれて新聞紙から、白い髪の毛が風花のように散った。
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