のどあめ
秋がたから冬になるにつれ、空気の乾燥する日が増えてきた。うたかた荘は見た目に違わぬ吹き抜けの良さで、今日も姫乃を明け方のまどろみから引き戻される。
「お布団…もう一枚足そうかな」
まだ冬も本格的ではないというのに、そんな言葉が朝一番の台詞となる。
「おはよー…」
「おはようひめのん。あれ?なんか顔赤いね」
「んん?そう?」
「風邪ひいた?昨日寒かったもんなぁ」
そんな風に言って、明神はひんやりとした手の平を姫乃のおでこにあてた。心なしその温度が心地よいと思いながら、姫乃は目を閉じる。
「うーん、熱はなさそうだけど。頭痛いとかはない?」
「全然、だいじょうぶ」
そう言ってから、ケホッと軽く咳払いをしてしまった。そういえば喉がやけに渇いていたっけと思い出す。
「ひめのん?」
「んん、明神さん、のど飴とか持ってない?」
「のどあめー?うーん持ってないなぁ…」
「そっか。じゃあ買ってこようっと」
幸い今日は休日なので、時間はたっぷりある。課題も特に出ていないし、友達と約束をしているわけでもない。あまりに朝の寒さに耐えられずしばらく布団から出られなかったので、残念ながらもう昼過ぎ近くあるのだけど。
「じゃあ買い物行くけど、明神さん何かある?」
「あ、俺も行くよ買い物。ちょうどカップ麺切れそうだったから」
「………」
「ん?何その顔」
「…何でもないよ」
不健康という意味では、自分より余程この管理人のほうが食事や健康管理を適当にやっている気がする。それでもこの男が風邪をひくことなど想像もつかないし、怪我の治りの早さも――怪我そのものはまったくしないわけでは無いとわかっている…隠していても――常人に比べたら余程早い。身体の丈夫さを姫乃この案内屋という特殊な職業の男とで比べるのは無意味だろう。
「うし、んじゃ留守番頼むぜエージ」
「おう」
「いってくるねー…ッケホ」
まただ。小さく咳をしてしまってから、口を押さえても遅かった。案の定明神が怪訝そうな顔をして、玄関を降りようとした姫乃を制止する。
「…ひめのん、やっぱり買い物俺が行くから」
「え、大丈夫だよ」
「妙な咳して大丈夫も何もないだろ?良い子だから留守番してなさい」
言われて言葉を返そうとしたところで、ふっと明神の手によって影が出来た。あっと思うまもなく、軽いデコピンが額を遅う。
「留守番、してなさい?」
「………はーい」
額を撫でながら不承不承頷くと、明神は手を振ってからさっさと出て行ってしまった。
(一緒に出かけられると思って、ちょっと嬉しかったのに)
そんな風に理不尽な事を思って、しばらく玄関を睨み付けていると後でエージがため息をついたのが聞こえた。
「明神も過保護だよな」
「そ、そんなことないでしょ」
心配して貰えるのは嬉しいけれど、そうやってお客さん扱いされる事はあまり嬉しくない。大事にするにしても、色々と意味があるのだから。
姫乃はリビングのソファーに腰かけると、特に見るモノもないのにテレビをつけ、チャンネルを回し始めた。
「過保護だよ。今まで何人か来た生きてる方の住人の中でも、一際オマエは」
「…そうなの?」
思わず視線をエージにうつす。彼はつまらなそうにバットで素振りをしながら、ちらりと姫乃の方へ視線を向けた。
「…オマエの部屋、俺の居た3号室。あそこ何が一番良いか知ってるか?」
「え?ううん。階段に一番近いこと?」
「全然違う。なんだオマエ、気付いてなかったのか?」
「…他の部屋入ったこと無いんだからわからないよ」
少しムッとして言い返すと、エージは玄関の方へ視線を戻すした。顔は見えないけれど、相変わらずつまらなそうな顔はしているのだろうな、と姫乃が思うのと、エージが言葉を発するのは同時だった。
「一番暖かいんだ。3号室は」
「…へ」
意外な答えに、思わず呆気にとられた。
暖かい?ああ、そういえば部屋はすべて南を向いているから、確かに日当たりはいいと気付いてはいたけれど。他の部屋もそれは同じではないのだろうか。
「しかも、角部屋で、隣階段だろ。逆側の壁の向こうがすぐ外の角部屋なんかより、よっぽど暖かい筈だぜ」
「…そう、なんだ」
考えたこともなかった。
確かに夜は冷え込んでとても快適とは言えないけれど、日中はこれでもかというほど室内の温度は暖かいし、洗濯物もよく乾く。真冬になればそうもいかないだろうが、今はまだ暖房が無くてもなんとかしのげるし、日が暮れない限り電気を点ける必要を感じたこともない。
「あれ?でもそれって別に、私だからじゃないよね。だって引っ越してくる前からもう部屋は3号室って決まってたんでしょ?」
「それは俺も思った」
「だったら…」
「でも、あいつ…明神が言ったんだ」
素振りをやめ、肩の力を抜いたエージが管理人室の扉の方を見やった。
「お前が引っ越してきた日、『なんとなく話が来た時から、あの子ならきっと、暫くここに居てくれる気がしたんだ』って」
よく意味の掴めなかった姫乃は、何度か脳裏でエージの言葉を反芻した。その間にエージは玄関を抜けて、外に出て行ってしまった。
「…どういう意味?」
出逢う前から、予感でもあったというのなら、明神という男は何処までもただ者ではないということになりはしないか。
姫乃は首を傾げたまましばらく玄関の方を眺めていたが、あまり考えても自分の頭では答えなど出ないと思ったのか、また特に目的も無くテレビのチャンネルを回し始めた。
「ただいまー」
「あ、明神さんお帰りなさい」
近所のスーパーの袋を下げて帰ってきた姿が、やけに似合っていていつもながら笑えると姫乃は思った。二つあるうちの一つの袋を受け取って、明神が靴を脱ぐのを待つ。
「ひめのんひめのん、目閉じて?」
「へ?何?」
「良いから、目閉じて」
特に疑いもせず言われた通りに目を閉じると、次に口を開けるよう促された。
「はい、留守番ご苦労様」
「む?」
ぽいっと投げ込まれた甘いかたまりに目を開くと、明神が頭を撫でてきた。
「のど飴、これでよかった?」
「んん?はちみつレモンだ…私好きだよこれ」
「あ、よかった。なんとなくひめのん好きなんじゃないかと思って」
ガサガサと袋をあさり、のど飴の袋を丸ごと一袋姫乃の手に渡す。そうして自分の主食が大量に入ったビニール袋を持ったまま管理人室に行こうとしたので、姫乃はなんとなくその服の裾を掴んだ。
「?どした」
「え、えと。明神さんって、勘とかよくあたるヒト?」
「どうだろうなぁ。でも外れたコトはあんまり無いよ」
「へぇ…」
それ以上会話が続かないと思ったのか、姫乃はあっさりと服を掴んでいた手を離す。明神は少しだけ不思議そうな顔をしたが、そのまま背を向けて部屋へ戻ってしまった。
「…明日は天気良かったらお布団干そうっと」
午後になって、随分大陽が移動してしまった今からでは布団を干すにはもう遅いけれど。
自分の部屋にそんな特別な良いところがあるなら目一杯活かしきって、そのうち明神に唐突にお礼でも言ってやろうと思った。お礼自体に意味はないかもしれないけど。
きっと彼は笑顔で首を傾げてくれるだろう。
終
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