The world
 
 


 幼い頃の世界は、とてもとても狭い物だ。
 小さな頃、まだ世界が自分の物だった頃。

 そんな頃例えば貴方に出逢っていたとしたら。
 
 
 
 

「きゃーーーっっ」

 ドタドタドスーンッ

 二階から聞こえた物音に、明神は食べかけだったカップラーメンの器を危うく取り落としそうになった。
「な、なんだぁ?」
 上の階に居るのは姫乃だけだけれど、彼女がこんな音を出すのはとても珍しい。何事かと取りあえず安全な場所にカップを置き、障害物が無い事を確認してから一気に階段を駆け上って部屋の前まで来る。
「ひめのん!どした?!」
「みょーじんさーーーんたすけてー」
 間の抜けたヘルプに拍子抜けしながらも、とりあえず扉を開けて部屋の中を確認する。正面に見える窓に特に変化はなく、対角線上にある机も特に異常はない。ただ、入ってすぐ右側にある、押入の前に何やら正体不明の山が出来ていた。
「…えーと」
「見てないでたすけて」
「や、なんかこれはこれで面白い」
 サングラスをわざとらしく指で上げながらそう言うと、案の定姫乃は睨み付けてきた。とはいえ、その姿も段ボールに埋もれた状態では迫力の欠片もないのだが…。
「押入の上から段ボールが落ちた訳か」
「ひっぱり出そうと思った箱の、上がぜーんぶ落ちてきたの」
「…なんか、何処から突っ込んだらいいかわかんねぇよ…ひめのん」
 箱から散らばった写真や手紙や、色々な私物の海の中から姫乃の体を引きずり出す。元から軽いので持ち上げてしまえばそれはすぐ救出出来た。
「ありがとう明神さん」
「いいえ、どういたしまして」
 ふわりと床に降ろしてやると、姫乃はホッとため息を吐いた。余程身動きとれないことが不安だったらしい。ムリヤリ抜け出ようと思えば出来たのではないかと、少し思ったりもするわけだが。
「で、何を探してたんだい?」
「小さい頃の友達から手紙がきたの。でも住所が書いて無くて…返事に困っちゃって」
「ああ、それで連絡先が書いてあるものを探してた…と」
「そうそう、小学校の卒業アルバムね」
 ごそごそと段ボールの下を探りながら、狭い部屋を右往左往する後ろ姿を見て思わず頬を緩める。小動物のようでもあり、猫や犬のような親しみさえ感じ、思わず手伝ってあげたくなるような、可愛いうたかた住人。
「ひめのん、ひめのん、下ばっかり探してるけど、まだ押入の中に色々あるよ」
「え?あ、ホント?」
「小学校…アレ?これじゃないのか」
 プリントの間に隠れていた厚手の冊子を慎重にひっぱりだす。ここでまた雪崩でも起こせば、巻き込まれるのは足下に居る姫乃だけだ。そんなことに気づきもしないのか、真下で自分の挙動を見つめる少女が動物的でどうにも可愛い。
 さほどホコリのついていない表紙に、くっきりと『卒業アルバム』の文字。床の様々な物を踏まないように畳の見える場所まで行ってから、明神はやっと姫乃にそれを渡した。
「懐かしいなぁ…」
 姫乃の顔が、自分の知らないそれに変わる。
 卒業アルバムを見つめる少女の心は、たった今まで自分を見ていたのが不思議なくらいに写真の中の思い出の中にあった。明神が知ることのない、姫乃の幼い日々がそこにはある。
 のぞき見るつもりは無くとも目に入る、クラス写真、行事の記録、友達からのメッセージ。
 それらを、少しだけ寂しそうに眺める彼女。
「…戻りたい?」
 不意に、そんなことを聞いてしまった。
「え?何が?」
「いや…懐かしそうだからさ、その頃楽しかっただろうなって」
「うん、楽しかったよー。この頃はまだ、難しいことよくわからなかったし」
 パラリとめくったページには、クラス写真の中で笑う無邪気な笑顔。
「でも…もっと小さな頃、小学校にさえ入っていない頃はもっと楽しかったな」
 何も知らなくてよかった頃。何も教えて貰う必要のなかった頃。幼い頃自身が把握出来る世界というものは、とても小さくて狭くて、限りなく自分だけのものだった。
 けれど明神は―――
「そういうもんなんだ…?」
 と、小さく呟く。
 姫乃が大きな目を更に大きくして見ているのがわかった。恐らく、自分の零した台詞は意外というより、異常なものだったのだろう。

 幼い頃の方がむしろ、自分の世界を“自分では無い何かに”支配されて恐怖していただなんて。

 彼女の家庭がどんなものだったか、今どんな状態かという事は表面上でしか把握していない。だけれど確実に自分には無いものが彼女にはあって、自分にそれは恐らく一生理解出来ないものだと思う。
「明神さん…?あ、そうか。小さい頃…は…」
 以前話した昔話を思い出したのだろう。姫乃は疑問符を浮かべていた表情から一転して、眉尻を下げた情けない顔になった。そんな顔、することは無いのに。
「ひめのん、別に気にすることないよ」
「う、うーん…わかった」
 気にするなと言われてまで、気にする顔を続ける程根暗な子ではない所が、明神が彼女を好いている理由の一つかもしれない。小首を傾げて思案気な顔をしたかと思うと、また普段の顔に戻って自分の顔を見つめ返してきた。
「…明神さんは、ええと、明神さんと一緒に居た頃が一番楽しかった?」
「へ?あぁ、ええと、そうだな…どうだろう」
 予想外のところに質問が来て少し戸惑う。話題を転換するなり慰めの言葉を発するなり、当たり障り無い流ればかりを想定していた自分より、姫乃の方が数段上手だったようだ。本来なら聞きづらいかもしれない事でも、彼女は自分に対して気丈に…というよりも他意無く訊ねてくる。
 それが不快では無いのだから、凄い。
「確かに…明神と居た2年半。俺にとってはそれまでの人生に匹敵する時間だったなぁ…」
 語るべきことは、殆ど語ってしまった。小さなエピソードで姫乃がおもしろがりそうなものも幾つか有ったが、今特にそれを話す必要性は感じない。ただ、姫乃が聞きたがっているのは言葉の通り、あの頃が一番楽しかったか否かであって。
「楽しかったよ。毎日新鮮で。…でも、それは今も同じさ。同じ毎日は来ないんだから。ひめのんが段ボールの下敷きになるなんて今後暫く無いだろうし、卒業アルバムを俺が探してあげるなんて事、あるほうが珍しいだろ?俺はいつだって、今が一番楽しいと思ってるよ」
「…ちょっとだけ例えが気に入らないけど、そういうことにしておく」
 納得したのか、彼女はまた卒業アルバムに目を落とした。どうやらお目当ての住所録の部分に辿り着いたらしい。
 明神はとくにすることも無くなってしまって、ぼんやりと部屋の中を眺めていた。姫乃が引っ越してきたから少し経つけれど、相変わらず物が増える気配は無い。試しに今度ぬいぐるみでも送ってみようかなんて、自分でもおかしなことを思いついてしまったりする。こんな管理人の好意はさすがに迷惑だろうが。
「そういえば」
 唐突に口を開いた姫乃に視線を戻すが、彼女の顔は相変わらず下を向いて住所を目で追っているままだ。
「明神さん明神さんって、呼びにくいね」
「ん?ああ、そうだなぁ…けど、明神は明神だし、俺も今は明神で通ってるし、今更明神やめるにも明神って呼ばれる方が多いくらいだから…」
「…やっぱり紛らわしいかも」
「そうか?ならひめのん別の呼び方考えてくれてもいいよ」
「えー私が?」
 思い切り嫌そうな顔をしているのは何故だろう。そんな顔しなくても、というくらいに姫乃は眉根を寄せている。
「…なんでそんな顔するかな」
「明神さん、私に勝手にあだな付けたでしょ。もう慣れたけど、勝手にあだ名付けるの良くないと思うな私」
「その節は申し訳ありませんでした」
 ひめのんって、可愛いと思うのに。
 かといって、今更「姫乃」なんて呼べないけど。引っ越してきたばかりの頃、まだ「ひめのん」と呼ぶことを許して貰えなかった頃に彼女を「ヒメノ」と呼んでいた事が不思議な位、それは特別になっている気がする。
「まぁ、でもなんて呼んでもいいよ。俺は」
「…明神さんでいい」
「なんでー?自分で紛らわしいって言っておいて」
「…なんか、今更呼べない…」
 少し、頬が赤いのは気のせいかもしれないけど。
 彼女が思い出したであろう自分の“名前”の事に気付いて、明神はサングラス越しではあったけれど、思わず瞬きを繰り返した。
 呼べない?今更?
 あの、“川崎冬悟”という名を?
「ひーめのん」
「な、何よ」
「いや、なんでもないよひめのん」
「…なんか気に入らないなぁ」
 唇を尖らせても、可愛いだけだよ。
 そんな風に笑う明神に、姫乃は複雑そうな顔をしていた。

 両親に呼ばれる事が無くなってから、冬悟という名前は、明神に呼ばれて初めて好きだと思えた。川崎の姓は結局最後まで好きに―――というか慣れずに今に至ってしまったけれど、例えばまだ明神と出逢う前、もっとずっと前に、名前を呼んでくれる人が他に居たとしたら…自分はどうしただろう。

 『川崎君』

 なんて、仮に姫乃が同級生だったとして、呼ばれていたら。

 ナンセンスだ。考えるだけ無駄というもの。
 でも、でも確かに自分はそれを思っただけで自分の名前を少しだけ、記憶にあるそれよりもマトモに思える事が出来るし、同じ目線で話す彼女を、今と同じようにきっと可愛らしいと思う事も間違いないだろう。
 相変わらず少し照れた顔をアルバムの向こうに隠しながら、彼女はこれからも自分の事を「明神」と呼ぶ。

 そんな世界も悪くない。
 
 


オワリ



 
 

つまり何を言いたかったかというと、
姫乃が今の明神の世界の全てだったらいいのにってことです(…
きっと名前呼ぶの慣れなくて大変だろうね。
結婚でもすれば嫌でも呼ぶだろうけどw
ところで戸籍どうなってるんだろう…明神冬悟って変えてあるのかな。
川崎さんちから、明神さんちに養子縁組?

微妙に同級生ネタを添えてみましたw
自分でいつかかけるかは不明ですが、
素敵だと思うのですよ同級生ラブ。
年の差は思い切り離れているか、全く離れていないかが好きな奏二です。

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