菜の花
「ひめのん?あれ、珍しいなこんな時間に家に居るの」
「もう試験終わったから、短縮授業なんだよ」
買い物から帰ると、昼下がりにも関わらず生きている住人がリビングに居る事に明神は驚いた。そういえば最近夜遅くまで勉強していた様子だったと思い出して、買い物してきた袋の中をゴソゴソと漁ると、4個で一割引になったアイスクリームを一つ取り出した。
「はい、じゃあ試験お疲れ様ってことで、ご褒美」
「わ!ありがとうー!…まだちょっと寒いんだけどね」
「はははっ陽の当たる所にいないきゃ、そりゃ寒いよ」
そう言って、ソファーではなく陽の当たる床の部分まで歩いていって、明神はそこに座り込んだ。
「ここ、あったかいよ?」
「…あったかいのはいいけど、アイス溶けるよ明神さん」
「うおっと、冷凍庫冷凍庫」
慌てて共同キッチンに向かう背後で、姫乃がソファーから床へと座る位置を変えるのが見えた。素直に言うことを聞く彼女は、本当に可愛らしい。というか彼女の場合何をしても可愛いのだけれど。
(平常心、平常心、…だめだむり)
ここ最近、季節のせいだろうか、やたらと彼女の周りが華やいで見える。季節性感情障害とでも言うのか。むしろ病気か?改めてこんなことを考えると、とてつもなく独りよがりで恥ずかしくなる。
「そういや、珍しく今日はエージもアズミも居ないな…」
二人で遊びにでも行っているのか。いや正確にはエージがアズミの子守をしてくれているのかもしれない。最近すっかりアズミの扱いに手慣れてきたエージをみていると、兄弟がいたことの無い自分でも、どこか兄のような気分を味わえる。アズミともなると、もはや娘と言っても差し支えない年齢なのだがそこはそれ。ああいう妹が居たら、とても自分は世話焼きな兄になれた。…かもしれない。
「もう春だねぇ」
リビングに戻ると、ぺたりと床に座り込んだ姫乃がアイスを片手に窓から見える空を見上げていた。狭いこのうたかた荘の敷地の中に茂る緑も、塀の向こうに除く隣家の木々も、段々と芽吹く様子を見せている。
彼女がここへ初めて来た季節が、また巡ってくるのだ。
「春だねぇ…。もうそろそろ花や虫なんかの出番だな」
「東京でも蝶々見られる?」
「そりゃ、公園とか行けばね。咲良山って結構自然残ってる方だし」
「そっかぁ…花とかもたくさん咲くかなぁ」
「咲いたら、花見にでも行こうか」
「行こうか!」
うきうきと、アイスを頬張る彼女。春の日差しのように暖かいその笑顔を見ているだけで自分は、まるで土の下でむずがる種のようにワクワクする。早く、早く青い空の下で、一杯に太陽の光を浴びて、知らなかった世界で葉を広げるのだという期待に、胸を膨らませるみたいに。
「…ひめのん」
「へ?」
手を伸ばして、姫乃の顎に触れる。ビックリしたように目を見開いた顔も、なんとも言えず可愛らしい。少し紅く染まった頬は、独りよがりでなく二人の間にある空気が明るい色へと変化している証拠だった。この、ドキドキさえ心地よいと思ってしまうのは、もう救いようのない病気なのだろう。
「みょ…明神さっ」
「アイスついてる」
「へ?」
親指の腹で顎についたアイスを拭う。アッサリと離れた手に、まだ状況が読めないのか姫乃は目をぱちくりとさせていた。だがさすがにアイスを拭った指を口に含むと、ほんのりだった紅潮が、かっと赤面に変わった。
「明神さん!!」
「なっなんだよ!?とってあげただけじゃん!…甘い」
「甘いのは当たり前でしょ!アイスだもん!!」
既に棒だけになったアイス(だったもの)をブンブンと振り回し、何がそんなに恥ずかしかったのか姫乃は明神の袖を叩き始めた。
(ああもうなんだこの娘可愛いな)
「もー!明神さんなんか知らない!」
「えーーーっなんでそうなるんだよ!?」
立ち上がろうとした姫乃を反射的に捕まえて、眉根に皺を寄せて睨んでくる顔に苦笑する。いや、苦笑したつもりだが、恐らくだらしなく笑ったようにしか他人には見えないだろう。
だって、この緩む頬はどうしようもない。
「悪かった悪かったっ!なんかよくわかんないけど悪かった!」
「むぅ…」
恥ずかしいのは、今も昔も変わらないけれど。
でもそれでも自分が伸ばした手を、拒絶せず許す彼女に、自分のこの情けないほど高鳴る鼓動を、理解して笑う彼女に、躊躇や遠慮をしている方が余程男として恥ずかしいと思った。受け入れてくれるものに対してまで、いつまでも保身を優先していたらそれこそ単なる独りよがりだ。
「俺が悪かった…ので、まだ…居て」
「………ん」
納得いかないというように、まだ睨む顔はやめないけれど、そう小さく頷く。姫乃はのろのろと床に座り直すと、明神のすぐ側まで近寄って目を伏せた。きっと、さっきの今だから予感はしているだろうけれど。
「目、開けないでね…頼むから。ホント頼むから」
「わざわざ断り入れないで…っ」
わかってるよ!とまた怒り出す前に、開きかけた唇に触れる。とてもとても軽く、正真正銘触れるだけなのに、どうしてこんなに脳髄まで感動が駆けめぐるのだろう。
「…もう目開けていい?」
「どうぞ…」
至近距離で見つめ合うと、それはそれでキス以上に恥ずかしいのですぐに顔を離す。そしてそれ以上にこの紅く染まった顔を見られたくないので、誤魔化す意味もこめて姫乃の頭を肩口に閉じ込めた。
「明神さん、なんだかいつもより…」
「あーあーあー言わなくていい。自分でわかってる。おかしいのはわかってる」
「…春だから?」
「そういうことにしといて…」
花が咲くように、緑が芽吹くように、人が恋をするように、春はもうすぐ訪れる。
小さくても可愛らしい花をつけるあの花のように、穏やかでも体中を駆けめぐる感動やときめきは確かにそこにあると、存在を誇張する。
その度に言いようのない愛しさと、年甲斐もない気恥ずかしさを入り交じらせて彼女を抱きしめたい衝動に駆られるのだ。
春とは多分、そんな季節。
end
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