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鍵穴
その日は日直で、外掃除で、遅刻の罰にと言いつけられた、教材運びの残りがあった。 自分にも読めるか読めないかの文字の羅列。こういう面倒な仕事が入っている時に限って、ヒロもサカも用事があるとかぬかして帰ってしまっている。(別に 疑っているわけじゃないが)大体どうして自分が日誌を書く羽目になっているのだろうかと、同じ日直であるもう一人を思い浮かべて眉根を寄せた。こう言うの もなんだが、字を書くスピードも、綺麗さも、比べるまでもなくあちらの方が上だ。断然上位だ。その当の本人は、これまた何故か面倒な施錠確認に行ってい る。(どうでもいいが、ウチの学校は各日直が持ち回りで学年フロアの施錠確認を行うのだ)そういう足を使った作業はむしろ自分の方が適任だろうと、既にそ の役割分担が課せられてから数十分した今、ふつふつと不満の言葉が脳裏に浮かんできた。 現在時刻は17時5分前。通常、部活以外の生徒はこの時間になると帰宅を迫られる。教室棟への出入りは出来なくなり、教師が管理棟に居る間だけは、特別 に図書館などのみが開いている。まぁ、自分にはほぼ関係の無い話だ。 「クソ…終わったぞ…もう今日は一文字たりとも字なんて書かねぇぞぉ…」 ようやっと最後の欄を埋め、乱暴に日誌を閉じ、それを担任の所へ届けにいこうと席を立つ。と、ちょうどそのタイミングで教室の扉が開いた。 「…確認、終わった」 「あぁ、こっちも終わった。日誌は俺が持って行くから帰って良いぞ」 チラッと俺の手元を見やって、特に何も言わずに彼女は己の鞄の置いてある座席へと近寄ると、帰る準備を始めた。せめて労いの言葉でも、と思わないことも 無いが、やっている仕事の量は大して変わらないので黙っておく。こちらも残る教材運びさえ終えれば帰れるのだ。 「夜科…」 「は、へあ?なんだよ」 突然話かけられた事よりも、彼女が自分に話しかけてきたことそのものに驚いた。話しかけた当人が何故か驚いているのは、さておいて置こう。 「…どうした、雨宮」 たっぷりの間が開いてしまってから、邪険にならないように問いかけると、また彼女の視線だけが僅かに動いた。その先にあるのは、積み上げられた教材の 山。これから夜科アゲハが運ばなければいけないそれらである。 「北の渡り廊下、もう鍵閉まってる。日誌は私が出してくるから」 「?ああ、別に気つかわんでも…。いや、うむ、んじゃ頼むわ」 「ん」 必要が無ければ話しかけてこない雨宮の事だ。恐らく声をかけてしまったこと事態が本人の中でも例外だったのだろうと思った。それなら好意を無下にするこ ともないと思った。言葉は少ないが、つまり日誌は置いてきてやるから、とっとと教材運びを終えてしまえということだ。 その後特に会話することもなく、雨宮は職員室へ、そして自分は教材を抱えて図書室横の資料室へ向かった。南側の渡り廊下には屋根が無く、すっかり暗く なってしまった空を見上げる事が出来た。職員室から雨宮が出て来るのが見えたので、渡り廊下から中へと戻ると、それに気づいた雨宮もこちらを見た。並んで 扉をくぐり、電気の消えた教室棟へと踏み出した。その時。 「雨み…」 話しかけた声が、突然頭上から聞こえた轟音にかき消される。 うん、紛れもない雷だけれど、それにしてもこの音量は、なんだ。 「…雷」 「わぁってるよ。それにしても…、突然す…」 更に突然に、雨音がその言葉をもかき消す。これはさすがにあり得ない。同時に走り出して同時に扉に飛び込む。数秒にも関わらずずぶ濡れになったお互いを 見て、笑うに笑えなかった。そして、呆然としている間にも背後の雨音は小さくなっていく。 「なんつータイミング…」 「教室…タオルあるから」 「おお、風邪ひいたらシャレになんねぇな」 「着替えは無い…」 「…今日体育無かったしな」 明かりの消えた教室に戻り、雨宮は鞄から取り出したタオルをこちらの投げてよこした。 「お前の分は?」 「………」 「無いなら、お前が使えよ」 「………」 「おい、大丈夫か?」 言葉を選んでいるのだろうか。それとも単に発したくないだけなのか。黙ってしまった雨宮に、仕方なく近寄ると有無を言わさずにタオルをかぶせる。 「?!ちょっ…夜科…」 「俺はすぐ乾くからいい。お前は髪長い分、大変だろ。ちゃんと拭け」 「アンタはどうすんのよ…」 「俺?俺はー…」 きょろきょろと周囲を見渡すと、自分のロッカーからはみ出ている体操着が見えた。どうやら昨日の体育の時使ってそのままだったようだ。(そういえば持っ て帰れとサカに言われたような)何故そこにあるのかという真理には触れず、薄汚れた体操着で制服の雨粒をぬぐう。どちらにせよ汚れている物だから、構いは しない。 「…っくしゅん」 控えめに響いたくしゃみに振り返ると、そこにはカーディガンを脱いだ雨宮が居た。校庭の照明に照らされて、白いブラウスが反射する。色素の薄い髪の毛 が、濡れたことでいつもよりも色を濃くして見えた。 「?」 ふと違和感を感じて、まじまじと彼女の後ろ姿を見やる。少しだけ覗いた横顔に、その違和感がハッキリとした。眼鏡をしていないのだ。濡れてしまったのだ から驚くことでも無いが、彼女が眼鏡を外している所を見たのは、小学生の頃の体育の授業以来だ。学校に居るときは勿論、地元で見かけた時すら素顔を晒して いることは無い。 普段彼女を覆っている、どこか緊張した雰囲気が、今はない。 無防備に背中を向け、髪の毛をタオルで拭く作業に没頭している。肩からパラパラと落ちた長い髪を目で追いながら、その細い肩に制服が張り付いて、余計に 細く見えている様に見とれた。 いやらしい意味ではなく、その透けた肌の色や、伝う水滴や、照明に浮かぶ横顔を、綺麗だと思った。 「…夜科?」 「あ?あぁ、なんでもない。それよりお前、これ着て帰れよ」 「え?何…ジャージ?」 「言っとくが、それは着てないから汚くねぇぞ」 体操着のさらに奥にしまわれていたので、汚くないという保証は無いが、それは内緒だ。一瞬戸惑った雨宮だったが、すぐにごそごそとジャージを着こみはじ める。恐らく寒いのだろう。 「おいおい、濡れた服の上からジャージ着たって…」 「脱ぐから平気」 おっしゃる通り、着こんだジャージの下でもぞもぞと何度か動いたと思ったら、その裾からブラウスが出てきた。これを見る度思うが、女子はこの非常につま らない着替え方法を止めた方が良いと思う。夢が無いだろう。無さ過ぎだ。(別に今目の前で生着替えを期待した訳では誓って無いが)きちんと袖まで通し、自 分の身なりを一通り確認すると、雨宮はこちらを振り向いて小さく言った。 「ありがと…」 「…おう」 伏し目がちに、だけどちゃんとした声で。 「んじゃ、帰るか。また振ってきたら厄介だから、走るぞ!雨宮」 「え、ちょっと…」 荷物をひっつかみ、慌てる雨宮に笑いながら教室を出る。これ以上遅くなると教師に何か言われる可能性もある。自分が注意を言われるのには慣れているが、 雨宮はそうでもないだろう。あたふたと追ってきた雨宮が隣に並ぶ。その距離が、さっきより少しだけ近いのは気のせいだろうか。 以前は、もっと近かったように思うけれど。 過去の思い出に浸るほどロマンチストではない。ともかく今は、少しだけその固い鍵穴を晒すことを許してくれた彼女の気持ちを踏みにじらないようにしよう と思った。不用意に踏み込んでは、またそれは塗り固められてしまうだろうから。 もし、明日またこの距離が、元に戻ってしまったとしても。 end
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