| 海へ行こう、と彼女が言った。 shoaling beach 「冬悟、先日お前が選んだ水着を、是非姫乃が着て海に行きたいとご所望だ」 「…は?」 蝉の鳴き声が耳をつんざく真っ昼間。 エアコンなどという文明の利器どころか、扇風機でさえ頼りなくかつささやかに回る共同リビング。 この暑さにも涼しげな顔を保ったまま、水の妖精さんはそんなことをのたまわった。 「聞こえなかったか?海へ行こう、と言ったのだ」 「えーとですね、湟神サン。それを言うのがなんでお前なんだとかいう愚問はとりあえずとして、ナンデ居るんだココに」 「ご挨拶なやつだ。折角残暑見舞いを持ってきてやったというのに」 がさりと後ろ手に持っていた袋を掲げる。そこには夏の風物詩である丸い物体が一つ。 「しょ、食料か」 「…その言い方にはエライ情緒が無くて賛同しかねるが…まぁ食べ物だ」 澪曰く、時折様子見がてら電話をするようになった姫乃と、『夏も終わりだねぇ』なんていう一言からふと始まったのだという海の話。そういえば今年の夏も 何処へも行っていないし(行く金もないし)、夏らしい事は何一つしていないし(娯楽に割く程の気力もないし)、姫乃が友達と何処かへ行ったという話も聞か ない。 考えてみるとそんな名残惜しさにおそわれるのも不思議ではない。 「ん?待て、お前さっきなんか変なこと言わなかったか?」 「何が」 「オレが水着を選んだとかなんとか、覚えの無いことを言われたんだが」 「お前が選んだだろう。あの青いやつ」 しれっと言い放つ澪だが、当の明神には心当たりが無い。思い切り顔をしかめていると、「ははぁ」と意地の悪い表情を浮かべて目の前のお姉様は再びのたま わっ た。 「私と買い出しに行ったことがあっただろう。あの時青が綺麗だとお前が言った。あの水着だ」 「はぁ?!」 「『姫乃に似合いそうだな』と言ったら、お前も『そうだな』と言っただろう?忘れたのかお前、ひどいやつだな。姫乃はそりゃあもう喜んでたっていうの に」 「ちょっまっっっ…!!?お前!あれ買ったのか!?買ったのか姫乃に?!」 「ああ、買った」 無駄に偉そうに胸を張り、だが実際明神よりエライのであろう彼女にがくりと頭を垂れる。 言われてみれば覚えがあるし、確かにあの水着の色は綺麗だと思った。だがそれを姫乃が実際に着るところなど、想像すらしていなかったというのに。 「…だいたい、あの金どっから出したんだよ。ああいう…女物の水着って高いんじゃないのか?」 「ふっ…いちいち金の心配などしていたら、あの子もうかつに着飾る機会すら持てないな」 ごもっともだが、仕方有るまい。 こちとらガスが先か電気が先かという瀬戸際で常に生活をしている身なのだ。彼女の住む場所が無くなってしまう事を考えれば、それくらいは大目に見て欲し いと思う。 …言い訳にすぎないけれど。 「とにかくだ、残暑も厳しいこの季節に部屋に閉じこもっていても勿体ないだろう?まだまだ若いんだからな。お前の師匠が居たら泣いて説教しそうだぞ。『あ んな可愛い子と海へ行く機会を逃す気か』とな」 「…リアルに言いそうだだからやめてくれっていうかアンタが言うとすげぇ信憑性増すから何かイヤ」 ともあれ、海へ行くことになった。 「明神さん!私ね、実は海って初めてなんだ!!」 青い空に、砂浜はよく映えた。 それと同じと言ったら、どちらかに失礼になるのだろうか。 美しいと思った鮮やかな青に、姫乃の白い肌がよく映えている。 「へ〜、奇遇だね実はオレもだよ」 あまりに嬉しそうなその姿に、出発前の陰鬱な気持ちが少しだけ晴れたような気がした。あんな姫乃の笑顔が観られるなら、たまにはこういう行事も良いのだ と思う。 メンツにもよるのだと、心底思うのも事実だが。 「…嘘をつけ。泳いだことが無いだけだろう」 片目を細めて澪が笑う。 彼女は普段着と大差ないような黒いセパレートの水着。予想よりいくらか派手ではなかったが、周囲の男共の視線を一挙に集めている自覚が彼女にはあるのだ ろうか。 …ここで姫乃に寄りつく雑兵が減ることをオレは喜んでいいと思う。 「湟神、お前少しはオレのこと放っておいてやろうとか思わない…?」 「別に?浮き輪を手放す事すら出来ない情けない大の男を、波打ち際まで引きずり込んで無様な姿をいたいけな少女に見せてやろうなんて、そんな事考えてもい ないぞ?」 「みょーじん、泳げないの?」 「頼むからアズミを連れて何処かへ遊びにいってください…(しくしく」 悪気の無いアズミの一言が何よりも痛い。 そう、明神は海で泳いだことが無かった。 「水に入ったことが無いわけじゃないんだろ?」 エージがアズミと戯れる澪から目を離さないまま、そんな事を訪ねる。 「水の中に入る事くらいあるさ。けど、その、なんだ…泳ぐっつーのはさ、ちょっと違うんだろ」 「しかも海だしなー。波って結構、びびるよな最初」 「浮き輪手放せない自分にもびびるけどな…」 とはいえ、浮き輪を持っているからといって海に入るわけでもない。なんとはなしに掴んでしまってから、はなせないでいるだけだ。姫乃はあんなに元気に泳 いでいるというのに、まったくもって情けない。 「ひめのん…上手だなぁ」 「明神だって運動神経良いんだから、練習すりゃすぐだろ。なんならヒメノに教えて貰えばどうだぁ?」 「…エージ、お前おもしろがってるだろ実は」 「うんにゃ別に」 とうとうエージは一度も明神の方を向かないまま会話を終了させた。 ませているのは発言だけではなかったようだと、今更ながら明神はそんな事を思った。 「ひめのん…あんな遠くまで行って平気なのかな」 ぼんやりとそんな事を考えながら見ていると、こちらに気づいた姫乃が手を振ってきた。お互い視力は無駄に良いのだと思い出して、なんとなく嬉しくなって 手を振る。 はしゃぎまわる妹を見守る兄の気分というのは、こんな感じだろうかと苦笑を浮かべた時、不意に波間に姫乃の頭が沈んだ。 「…あれ?」 見失った。 その事が異常に頬を伝う汗の感触を感じさせる。 「姫…」 考えるより先に、飛び込んだ。 「明神!?」 「姫乃が見えなくなった…っ」 「ってバカ!お前泳げねぇんじゃねぇのかよ!?」 エージの声を無視してザブザブと海へ入る。途中で邪魔になって浮き輪を放り投げた。足がつく間は走ればいいと、もがくように水をかき分ける。 姫乃がいた場所まであと少しな筈なのに、何処までいっても彼女の姿が見えない。 「っ…!姫乃!」 叫んだところに、一際大きな波。 思い切りそれを食らい、塩辛さに思わずむせる。涙目になりながら周囲を見渡すけれど、彼女の姿は無い。 「姫乃…姫………っ?!」 足下をすくわれる感覚。まるで足払いでも貰ったかのように、明神は体勢を崩して海の中へ沈んだ。息苦しさに耐えながらしみるのを我慢して目を開けると、 そこには。 (…姫乃?) 悪戯を見つかった子供が、申し訳なさそうに笑っていた。 「っぷはぁ!!」 「ごめんね明神さん、悪ふざけが過ぎちゃった…」 「っげほっ…いや、無事なら…いい…っぜぇ…ぜぇ…」 喉がひりひりするのは海水のせいか、それとも叫びすぎたからか。後者はないだろうと考えて、忌々しいこの塩水の固まりを眼下に睨み付けた。 「でも明神さん、ここって遠浅だから全然溺れる心配はないよ」 「ん?…おお、ホントだ。まだ足がつく」 「もうちょっといくとねー、大陸棚?でガクーっと下が無くなるの。そしたら危ないから、浮き輪がいるね」 「んなトコまでいかないよ…あークソ喉いてぇ…戻ろうぜいったん」 「えーもう?」 不満そうな姫乃ではあったが、心配をかけた負い目か素直に従う。再びざぶりざぶりと水をかき分けて歩き始めた明神の背中に、まるで浮き輪にでも捕まるよ うにして姫乃は手を置いた。 「えへへ、らくちん」 「わっ…ちょっ、あんまりそんな…」 「あははは!きーもちいー!」 それはこっちの台詞かもしれないんだけど、とやましい気持ちでいっぱいになりながら顔半分を海水に沈める。顔が熱いのは日差しのせいじゃないと、自分が 一番よくわかっていたから。 肩や背中に時折触れる布地の感触。それがどの部位にあたるかは、柔らかさでもって一目(?)瞭然。先ほどの澪のボリュームを見た後だとなんともコメント しずらいが、普段の服装からは想像もつかない程の膨らみがそこにはあって。 (…妹が女だったって気づく兄の気分?) あくまでその思考から離れないように、明神は砂浜でバットを振り回すエージに手を振り替えした。 余計な事を考えないように、余計なことをしないように心がけていたところに、背後から鈴のような声。 「明神さん」 「ん?」 「私、こんな楽しいのはじめて」 きゅっと華奢な双腕が一瞬だけ強く頭を抱いた。 すっと軽くなった肩に、彼女がまた水面下を魚のように泳いでいってしまったと気づく。 「ああ、もう…」 後ろ向きに傾く。 もう知るものか。沈みゆく中でそんな風に悪態をついた。 水面の向こうに見える太陽は、まるで自分を笑うかのようにゆらゆらと揺れている。 また行こうね、とあの子が言った。 ひりひりと痛む背中が辛かったけれど、それもまた良いかななんて、頷いた自分がいた。 終
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