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Kanon








このゲームはひょっとしたら「超名作」なんて評価には収まらないゲームかもしれない。
「ゲーム」というもののストーリーのスタイルをひっくり返す可能性を含んでいるからだ。



 簡単に言うとゲーム内の主人公と、あまりにもハイレベルなシンクロが、ある種強制的にされるということ。
それも、音楽、シナリオ、演出。その全てが一体となって融合を生ませようとしている。

 むろん、想像ではある。もともとKanonは人によってEDの解釈が全く異なる。

しかし、そのシンクロ云々の解釈にいきつくまでのキーワードが作品中にいくつも転がっている。

 さらに、その解釈は無理がない…残念ながら。
そう、この解釈はKanonをやった人なら、Kanonが好きなら、あゆか名雪か真琴か栞か舞が好きならば、
彼女等に感動や切なさをおぼえたのであれば、

とてつもなく怖く、悔しく、悲しい。それが自分の弱さからきたものであろうとも。

 しかも当然、こちらから能動的に「向こう」にアクセスすることは出来ない。CD-ROMに入っている情報以上は望めない。リード・オンリー・メモリー。


 それに、もし仮にこれが現実のものであったとしても、やはり対抗のしようがないのだ。何せ、無自覚に、向こう見ずに、そしてきれいに事は進んでいる。



 …「この事」に気付くためには、Kanonをモニタの中のものとしてはっきりと認識する必要があった。
感情移入して「中」に入りすぎたら、近づきすぎたら決して分からない。

 それらのびっしりと敷き詰められたタイルは、近づいて1枚を見ると感動を呼ぶ絵画の描かれたタイルで、
遠くから見ると、それは悲しさと恐ろしさまでをも含んだ天使の名画として認識できるのだ。




 話を少し戻そう。
つまり、このゲームは「外」から、つまり主人公と自分の区別をつけなくして真実は見えてこないのだ。
容姿は今の「俺」と変わらない、この「彼」と。

こんなゲーム、ないだろう?女の子と仲良くなった主人公に自己を投影する。
それがギャルゲーのスタイルではなかったか。



違うんだ、Kanonは。



途中まではもちろん、主人公=自分(プレイヤー)だ。だからこそ選択肢がある。
しかし、途中で別離をする。
しなければならない。
そこから先はプレイヤーが、自分で考えるんだ。合わせ鏡を叩き割るために。


モニタの外に、心の中に持ちこめる、「Kanon」。
忘れていたものを思い出すために、もう1度目を輝かせるために、このゲームに触れてみるのも悪くはないんじゃないか?



だって、あんたはプレイヤーなんだろう?





THIS text was written by kami

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