BRUCKNER 
 
 
 死より強いものがあるか、それは死に臨んでほほ笑む人である。
フリードリヒ・リュッケルト
 
 

 今年もあと僅かという冬の日の早朝
「これでいいんじゃないかしら?」
「どうも有り難うございます。いろいろ迷惑をかけてすみません。朝っぱらからお恥ずかしい限りで…」
 そして、溜め息を諾々と吐きながら閂に向かって巽は再度、礼を述べた。
「いいのいいの。こんな綺麗な人にお化粧できて私、楽しかったわ。お洋服だって凄く似合うしね。でも、……いつになったら元に戻るのかしら……?」
 元に戻る――それは即ち、昨夜、亘理の薬のせいで女性になってしまった巽の身体が本来の姿を取り戻すことである。亘理は、巽の許可なくとある業者から、梟の求愛ホルモンの成分を用いて新薬を開発する為に要する新型装置を取り入れたことで巽を怒らせてしまったのである。また、無駄な研究と強く罵られ、おまけに罰として百年以上に及ぶ庁舎の清掃を無情にも命じられたせいか、激昂した亘理がその夜、帰宅途中の巽に幾許かの――あくまで本人にとってはちょっとした筈の――悪戯を行動に移したおかげでこの有り様に至る。もうひとつ、当然の如く要領の悪い都筑も強引に亘理に巻き込まれて怒られ、同様の処分を受けている。
 昨夜は体調に異変を感じ早くに床についた巽だったが、目覚めたら見たこともない自分が鏡に写っていた。出勤しようにも、この姿では身につけることのできる婦人用の衣類など当然持ち合わせてもいないし、見繕うにも難を極める。そこで、今日だけ有給を取っている閂を思い出し朝早くからこうして衣類のことで世話になったのだ。
「ケッ、あいつら碌なことしねぇな。くだらなねえ事ばっかしやがって」
「もう、始ちゃん。そんな所でいつまでもつったってないで荷物の確認してよ。それにもうすぐ行かなきゃ遅刻でしょう?」
「へいへい…」
 巽は閂の自宅の玄関先で寺杣と居合わせた。古くなった部屋を引き払う閂の引越しの手伝いを昼休みにしに来るため、ダンボール箱の数を確認しに来たらしい。
――電話すりゃぁ早いのに…朝から顔でも見に来てあげてたんでしょうかねぇ、この人
 と、巽はその歯がゆさに苦笑したものである。
「兎に角、お世話をかけました。このお礼はまた後ほど……」
「ええ、気をつけて。お洋服とか足りなくなったらいつでも言ってくださいね」

 密が、鬼の撹乱だと思った巽の体調不良による遅刻は召喚課の周囲を大きく騒がせた。言うまでもなく、巽はしばらく欠勤するであろうと予想していた亘理と都筑は度肝を抜かれた。約一ヶ月は持続するであろう薬だったのだ。よもや、開き直って出勤してくるとは思わなかったのであるから…。事情を汲んで、課長が表立って巽の姿を晒すことのないよう周囲に取り計らったが、それも大して効果をなさない。五日経ち、女性も板について来た頃には既に召喚課の巽のデスクにはいつも色とりどりの花束が届けられていた。さほど事情を知らぬ外部の男性職員や時折、庁舎内で彼(彼女)を見掛けた者達が新しく加わった職員だと思い込んで、「この花をあの人に届けて下さい」とか「なんていう方なんですか?」などという問い合わせが贈り物と共に殺到してきたのだ。男性職員ばかりでなく、女子職員まで昼休みになると何かと都合をつけては眺めにやってくるという全く落ち着かない事態が始まった。
「うわぁ、凄いお花だね。これなんてマリアカラスだよ。巽モテモテじゃん」
 唯一、異常なまでの巽の美貌に動じることのない都筑だけがあっけらかんと花に囲まれはしゃいでいる。
「呑気なこと言ってないで、花を生けるのを手伝って下さいな!」
「はいはい」
「全く、どうしてこんな余計な事までしなくてはならないんです。これじゃぁ花だらけで花瓶を置く場所も庁舎の何処を捜してもなくなってしまいますよ。持ち帰るにも限度があるのに」
「皆、巽が好きなんだよ。だってさ、お前に見とれていっつも固まってるし」
「さあ、どうでしょう……珍しがってるだけですよ」
「そんなことないさ、絶対あれは見惚れてるんだよ」
 眺めに来た者は皆、彼の息を呑むような神秘的な美貌にひきよせられてしまい、時を忘れて動けぬ者が殆どであった。本人は全く己惚れのひとつも抱かず黙々と仕事をこなしていくという素っ気無いものであるが…
「…おや、もう花瓶が足りませんね。残り、どうしましょう…・?」
「う…ん、足らないね。そうだ、俺、伯爵の所行って借りてくる。そこの観葉植物のためにもっと良いプランターとかいろいろ…肥料も少し分けてもらうよ」
「駄目ですよ。あんたあそこに行ったらなかなか帰ってこないじゃないですか!」
「…だけど、ワトソンさんがいつでも使っていいって言ってくれてる用具置き場に沢山便利なものもあるんだよ」
「この時間、昼休みにも清掃するべき所があるでしょう?サボろうったってそうはいきませんからね。取りに行くくらいだったら私が行ってきます」
「……ちぇ」

 さぼる理由を口実にすり替え塞がれて、都筑は観念した。
「じゃ、このメモにある肥料とかもあるかどうか聞いといてね。うちの庭にそろそろ欲しいと思ってたものなんだ。今日の仕事が終わったら取りに行くって伝えといて」
「わかりましたよ、さあ…そろそろやるべき事に取り掛かって下さい」
「はいはい…」
 お茶を飲み干し、都筑は清掃に赴き出した。だがその時、思い出したように踵を返し、
「そうだ、亘理がさ、今度お前を飲みに連れていってやってくれって俺に言ったんだ。日、あけといてよ」
と、慌てて言葉を足した。
「貴方と行くんですか?」
「うん、あいつ、巽の傍にくるの嫌がってるから俺に行けって言うんだよ。お前見る度に鼻血が止まらなくなるとかなんとか変な事言ってて絶対行けないってさ。で、あいつのおごりでね」
「そうですか、ではお言葉に甘えますよ」
「う、ん…迷惑被ったお詫びとして受け取っといてね」

 早々に、巽はワトソンの管理する庭園を訊ねた。着いた早々、ここの主にまず挨拶をしようと取り次いでもらったが、取り込み中とやらで伯爵は姿を現す事ができずにワトソンだけが応対してくれた。そして彼はこころよく、始めに見目の良い花瓶を持って来てくれた。
 しかし、数は四つ…それらはずっしりと、予想外に重かった。手持ちで四つくらいならケースに入れて持って歩けると思っていた巽は二度に分けて運ばざるを得ないと考えていた折にワトソンが、
「え?残りを後で直ぐに届て下さると?…ご丁寧にすみません。…じゃあこの2つだけ先にお借りします」
 と、人懐こい笑顔で伝えてくれた。
 ワトソンが早速手配しに行ったのを見送ってから、巽は元来た道へ足を踏み出しはじめた。午後の仕事が詰まっているため、二度手間になると時間を食われてしまう故、有り難い返事を貰って安心してしまった巽……
「おやおや、誰かと思えばこれはまた…奇特な客人ではないか」
 巽の背後から、高らかに声を奏でる初老の男が用事を済ませて歩いて来た。
「伯爵様……言っときますけど都筑さんにこれで借りを作ろうだなんて通用しませんよ」
「ああ、全くお前の口は相変わらず毒々しいねぇ。だが、その姿で皮肉を言われてもさほど迫力を感じないね。役不足だよ、今のお前は」
「好きでこんな姿になってんじゃありませんよ!」
「どうせなら都筑がお前みたいに生身で変身してくれてたら良かったのにねぇ」
 詩人のように、こちらからは見えぬ透明な目を細め、胸を押さえて自身の世界に心酔していく伯爵を横目に巽は、
「あのくだらない小説の結末が楽しみですねぇ」
 と、意地悪く呟いた。感慨深く浪漫にふけっていた蝋燭の館の主はむくれてしまう。
「あいも変わらず可愛くないねぇ。まったく、お前といいあやつといい…冷水を浴びせる輩の多いことよ!今日は面白くも何ともない日だね」
「……あやつ…?」
「隠棲している顔見知りの占者だよ。異形の者に出会ったら忠告を促しておやり、だなどと奇妙な事を口走っておったさ」
「……それは」
「今であれば、おそらくお前のことだろうねぇ。この頃、とみにあやつは訳のわからぬことを唐突に言い出す。周囲の者は震え上がっておるよ。はずれたことがないのだから」
「……悪い内容、ですか?」
 もしや、自分のみならず都筑に火の粉が降り掛かるのでは、と巽が不安の渦に駆られる。都筑に対する防衛本能は止まる事を知らない。
「いやいや、まったく意味の判らぬものさ。ただ一言、マグノリアに気を付けよ、とね」
「はあ?」
「うむ、寝言かもしれぬねぇ、なんでもマグノリアが萎れてるとかなんとか…それで」
「さて、帰ります。年寄り同志、心行くまで園芸の話題にゆっくり花を咲かせていてください」
「ああっ!お前、馬鹿にしているね?最後までお聞き!」
「今日の午後は特に忙しいんですよ。こんな所でいつまでも寝言に付き合ってられません。それでは失礼致しました」
 とんでもない肩すかしを食ったものだ、と内心の悪態を押さえて巽は颯爽と立ち去る。
「これ、……巽っ!…続きがあるんだぞ!」
「植物に水をやれというんでしょう?朝から、もう花にはうんざりするほど世話をやいて水をやってますよ!都筑さんのメモにある肥料も見つかったら、後刻、本人にも取りにこさせます。お世話をおかけしました」
 肩を落とし、蝋燭の館の主は忙しないものだ、と軽い愚痴を零す。そして、手入れをしていた昨日の薔薇の花びらを眺め、最後に美しさを確認した。
「まあ、良いか。…ワトソンに良い肥料が見つかったら、この薔薇も都筑の所へ届けておやりと後で言っておこうか」
――お気を付け…マグノリアに出会ったら、できる限り宥めてやるといい
 それはきっと、お前にしかできない何かを求めているよ
 

 それから間もなく経たある夜、仕事を終えて二人は飲みに行った。
「――………」
 入り口の前で、恐縮と疑問を背負って巽は問う。
「都筑さん…」
「何?早く行こうよ」
「ここ、超高級ホテルのクラブですよ。予算大丈夫なんですか?私はてっきり居酒屋かなんかだと思ってたんですけど…」
「あぁ、大丈夫。全部亘理のおごりだから。目一杯お小遣い貰ってきたよ」
「…あんまり飲み過ぎないで下さいよ。今の私じゃ貴方をかついで帰れません」
「大丈夫だって、さぁ、行こう」
 都筑が巽の手を取った。理由であれ口実であれ、巽と二人で過ごせる事自体、久しいからか…今日の都筑は一段と機嫌が良いのだ。
「なぁんか嬉しいな。こんな美人連れて入ったら俺めちゃくちゃ自慢できるもん」
 子供のように無邪気に喜んでいる様子に巽は無言で口元を綻ばせる。

 予想どおり…都筑がエスコートして店に入ると二人は客からも従業員からも注目の嵐を受けた。端麗な容姿を宿す都筑が注目されるのは勿論のことだが、こういう場ではむしろ巽のほうがより目を惹かせてしまう彩りを発しているようだ。美しく艶やかな、だがそれでいて決してそれだけの印象だけに捕らわれない装い…どこか昔のフランス女優のような雰囲気をも匂わせる淡紅色のクラシックな洋服をきていたのでより注目を浴びてしまった。黒い都筑のスーツに映える巽の姿と律動的な挙措はいっそう引き立つのだろうか…
 しかし、二人の美貌に魔の誘いでもあるかのような、危険な匂いを感じ取ることができる者はこの中にはいなかったのだが…
 比較的客の出入りの少ないであろう時期を見計らって訪れたのだが、どうやら二人には大して効果を齎さなかったようである。あちこちから投げられる視線の数々が不思議でたまらないといった奇妙な居心地を感じ取り、ウェイターの薦めも断り二人はカウンターの最たる隅のほうに座った。
 静かさもある程度、感じられた頃、二人はようやく楽しめることができた。
「美味しいね、これ」
 もう既に何杯目か、数え切れないほど呑んで、巽以上に上機嫌の都筑は頬を赤らめながら言った。
「そんなに飲んで、二日酔い確実ですね」
 口へ運んでいたグラスの手を止め、巽が視線を左方一面に見開かれた窓に視線を移した。最近の、多忙を極めた時間を離れ、こんなにゆっくりと楽しめる空間を浴びる事に懐かしさを感じていた。瞳の前のスクリーンに映るもの…ビルの最上階から見下ろす夜景は、その眺めの美しさが気持ちを不思議とそう導いた。無意識に見とれてしまう。
「この夜景、綺麗ですね…。東京ってこんなに綺麗だとはおもいませんでしたよ」
 人の営み…決して美しい物事ばかりが光る世界ではない皮肉を込めた感情を超える、率直な言葉だった。
「そうだね…いろんな魂がいるからかもしれないね…」
「魂…人間の、命の…ですか?」
「生身の身体でこの地上を歩いてた時の世界とは、違う意味で変わってしまったけど、昔は俺もこの魂の一つだったんだよね…それもずっとずっと昔のことだけどさ…」
 都筑が、ふっと昔のことを思い出して暗い表情を浮かべた。
「……」
 巽は、ばつの悪そうな想いを抱く。
「…すみません、こんな話はするつもりは…」
「なに言ってんの?巽は夜景が綺麗だって言ってただけじゃない、変な気回さなくていいって」
「…ええ」
 小一時間程、談笑に互いを弾ませた後、飲み過ぎたせいか都筑が顔を洗いに行くと言って立ち上がった。
 都筑の姿を端まで見送りながら、巽は自分も彼につられて飲み過ぎた事を省みた。酒気を冷ましてくれるよう、風に当たりたいのが本音だが、変わらぬ発色を見せる窓の外の街に浮かぶ光の洪水で気分を落ち着かせることにした。肩肘をつきながら、視線を泳がせ目を細めて明日の仕事の段取り等を考えていたら……右の席にマティーニを頼んだ男が声をかけてきた。
「失礼、お隣に座ってもかまいませんか?」
 左の都筑の席に座るわけでもないのでかまわないし、もう帰る時刻だったので、巽は適当に返事を返し見上げた。だが、それと同時に…一気に酔いが覚める瞬間を感じた。
――邑輝、一貴……こんな所で居合わせるとは…!
「お一人なんですか?」
「……いいえ、連れがいますから」
 巽は、ほろ酔い加減を正す為、水を頼んで一気に飲み干し、都筑がここへ戻るまでに連れ帰る算段を瞬時に練り上げた。そして椅子から少し腰を上げたが…非常に強い視線で絡め取られた。
――………?
 どうもこちらをじっと、不自然なまでに見つめてくる。
 ふと目が合った。下手に関わることを避けていたつもりの自分が困惑した様子を向こうは楽しんでいるかのように話を持ち掛けてくる。
「知ってます?貴女、すごく注目されてますよ。…ほら、私がここに座っただけでこの店中の男どもが嫉妬めいた目で私を見てますよ。」
――早く帰ろう…都筑さんのところへ行ったほうがいい…嫌な感じだ
「死神といえどこんな美しい女性がひとりでここにいることなどいけませんねえ。お連れの方が見えるまで側にいさせてくださいよ」
「……っ!」
「死神に貴女のようにこれほどお美しい方がいらっしゃったとは知りませんでしたよ。…まんざら悪いことばかりではないようだ」
――何故、判るんだ、こいつには…!
 内心の動揺をひた隠し、驚きの目を強く睨み付けるような視線に変え、ありったけの警戒心を張り巡らした巽の様子を見て邑輝が、
「そんな、驚かなくても…お名前はなんておっしゃるんですか?私は邑輝一貴と言います。貴女の名をおしえてくださいませんか?」
 と、音楽的な笑いを持って質問してくる。何も応えず巽は自分と、都筑の分の荷物を引き寄せ去ろうとした。だが巽は、
「私の情報網もまだまだですね…でもあの人以外の死神に興味を持ったのなんて初めてですよ」
 都筑の話が持ち掛けられ、一瞬聞き耳をたててしまった。
――あの人…都筑さんのことか…?
 それ以上は語ろうとしなかった邑輝の視線は真っ向から巽に向く。
「それにしても、貴女…誰かに似てるんですよね…誰だったか…」
――拙い、ばれる前に都筑さんを捜して帰ろう…
 しかし、巽が立ち上がると邑輝はすかさず、行く手を阻むように手を掴んで来た。それも威風堂々と…
「ちょっと…何ですか?失礼な!」
 鼻持ちならない不躾な振る舞いに気分を酷く害する巽…。
「すみません、貴女にとても興味がわきまして。お連れの方まだ見えませんね。もうすこし待ってあげたらどうですか?」
 と、言いながら大胆に掴んだ掌に力を込め、離すまいとしてくる。
――なんだ、こいつは…!
 手持ちのバックを、その忌々しい余裕の鼻に投げつけてやろうかという怒りをどうにか静め、
「離してください。こんな所で、非礼にも度が過ぎますよ」
 と、負けずと見下ろし言い捨てた。だが、相手は一向に離そうとはしない。巽が苛つくのを計算ずくめに甘く囁き、誘いをとことんかけてくる。挙げ句の果ては自分の髪を梳いて来るときたものだ。片手で振り払うが一向に止めようとはしない。軽く見られたものだ、と巽の中に、殺意じみた怒りの感情が腹の底から込み上げる。そして、それも最高潮に達したかという瞬間、
「邑輝、お前なんでこんな所に!」
 背後から都筑の叫ぶ声により一触即発の事態は避けられた。
「……おや、都筑さん、パートナー変わったんですか?」
「何やってんだよ、お前!」
「いえ何も、この人とお話していた所ですよ。二人で楽しく、ね」
――一方的に話しかけておいてよくもぬけぬけと!
「ちょっと、…あんた、いい加減人の髪に触るのやめてくださいよ!」
「長くて綺麗な髪ですね。見事な艶だ……」
 どこか懐かしむような瞳か、それとも半分面白がっているのか全く言うことを聞き入れそうにない邑輝…
――なんだ、こいつ…こんな調子の男だったか?
 巽は、妙に馴れ馴れしいこの男の様子がどこかしら引っかかった。幼く、何か欲しがるような悪戯気な顔をしてくる。都筑が見かねて、
「邑輝!人、からかうのもそれくらいにしとけよ!」
 そう言って、巽の手を離すよう邑輝を怒鳴りつけるが、くすくすと笑い続け、掴んだ掌を都筑の手でこじ開けられるまで邑輝は降参しなかった。
「まあ、座ってくださいよ、お二人とも…大きな声が聞こえた騒ぎでみんな注目してますよ…ほら」
「五月蝿い!だいたいお前がっ…!」
 巽が、都筑の口を塞いだ。
「都筑さん、もう大きな声出さないでください。これじゃ余計に…」
「…っ……!」
 都筑が我に返った頃。辺りは静まり返っていた。
 ただでさえ尋常ならざる視線をずっと向けられていたのだ。この騒ぎを周囲が気付かぬ筈がない。今となっては店中が何の何処に注目しているのは火を見るより明らかだった。
 大人しく巽と都筑が今一度、席についた。注目が消えて、ほとぼりのさめる機会に出て行こうと決めたのだ。
「まったく、せっかく良い気分で飲んでたのに、これじゃ台無しじゃんか」
 都筑が膨れて、悪態を目まぐるしく吐く。
「今夜はすごく幸運ですよ。貴方方にお会いできるなんて嬉しいものです。新しい方、以後お見知りお気を、ね…」
――鬱陶しい男だ、気分が悪い!
 巽が新しいカクテルをぐいっと飲んだ。
「…お前、何でこんなとこにいてるんだよ?さっさと帰れよ」
 会話を続けようにも巽という呼びかけのひとつもできない。都筑の機嫌はそれはもう最悪だった。しかし、女の巽が真ん中、左に都筑、右に邑輝という端から見れば異様な組み合わせだったが、三人の美男美女の華麗な世界が店に生まれた。
「おや、私さっき来たばっかりなんですよ。まだまだこれから飲むところなんです。俗世を忘れて夢に酔う…」
「じゃあ、他の席で飲めよ!なんでここにいてるんだよ!」
「いいじゃないですか。見知った者同士仲良く飲むほうが楽しいでしょう」
「馬鹿言うなよ、誰がお前なんかと!…そっちが帰らないなら俺らが帰るさ!」
 と、都筑が巽の腕を引き揚げて帰路につこうと立ち上がった時、巽がだるそうに凭れ掛かってきた。
(――え…巽、どうしたの?)
 小声で訊ね、顔を覗き込むと具合が悪いのが見て取れた。肩に凭れ掛かる手に段々と重みが加わってくる。
――拙い…本当に気分が悪くなってきた…底無しの都筑さんに合わせて飲みすぎたせいだ…それもこれもこの変態が来てからというもの…
 男だった以前よりも酒のまわりが早いのかどうかわからなかったが巽の体調は非常に悪かった。 口元を押さえて薄れ行く意識の中で、必死に目眩と闘う自身の神経は邑輝の白い手が己の頬に触れたのを感じ取る。これは都筑の手ではない、とても冷たい手だった…
「ああ、こちらの方、具合が悪そうだ。いけませんね、私が診てさしあげますよ。…こんな人の居る所じゃ気分も悪くなる一方です。私の部屋にいきましょう」
「邑輝、てめえ何言ってやがる!彼女は俺が連れて帰る、お前には関係ないから、もうほっといてくれ!」
 共に支える邑輝をとんと向うへ突き、都筑がよろめく巽を支えてひっそりと巽に訊いたが、もう彼には何も聞えなくなっていた。額に手を当てて、高熱を出していることに都筑が気付き無理に連れてきた自身を激しく悔やむ。また、それも判らず最もほろ酔い気分で楽しんでいたのは他でもない自分ではなかったのか、と反省しだす。途中から、巽は確かに口数が少なくなっていたのだ。
――どうしよう、凄い熱だ。具合悪そうなのに今まで俺、気付かなかったんだ!
 煙草を揉み消し、彼らの荷物を持って邑輝はウェイターに帰る合図をする。
「都筑さん、彼女、私の部屋に連れてきなさい。本当にこんな状態でほっとけませんよ、横になって休ませるだけでもいいでしょう…」
「そんなこと……」
 嘘か本当か、真面目で一分の隙もない真摯な顔が見えた。それにウェイターの強引な薦めと大勢の客の視線の手前、都筑は従わざるを得なかった。

 邑輝の部屋で巽が身体を休ませ、日付も変って二時間程経た。都筑は、巽の傍に座ってずっと彼を見護るように見つめていた。室内に備え付けの、手軽なコーヒーを全く味気の無いものだと思いながら飲んでいる邑輝は、淡々と話し始めた。
「彼女、体調が最近悪かったんじゃありません?急激な環境の変化とか、いろいろと…。新しく入った方なんですか?」
「…お前に関係ないだろ」
 図星をつかれた、とでもいうのか…殊更、都筑の声は低かった。実際、巽は邑輝の言う通りだったのだから…。職務を休まずこなしているとはいえ女性の体に適応するのにかなりの精神力を使っていたものである。疲労も相当なものであった筈…
――いっつも俺って抜けてるよな…しっかりしなきゃ
 胸の中に苦みが広がる…
――それに、拙いな…邑輝なんかに世話されたなんて巽のプライドずたずたじゃん。さっさと連れて帰らなきゃ…
 巽は女性に変化してから、死神ではあるものの一時的とはいえ全く術も能力も使えなくなってしまったのを都筑は知っている。それ故、邑輝と何らかのトラブルを起こす前にさっさと帰るべきだと思い行動に移したが、邑輝に強く制止された。熱がどんどん上がっていっている上、動かすのは良くないというのだ。親切心とは思えないほどのその説得ぶりを、都筑は奇異に感じるが決して警戒を緩めようとはしなかった
「そう憶測なさらずに、なにも企んではいませんから」
「お前のことだからどうだか…」
「私、もうひとつ部屋とりましたから、そこに行きますよ。この部屋、貴方達にお譲りします」
「何だって?」
「私も仕事で疲れてるんです。本当におとなしく休むつもりですから。貴方、彼女の看病してやりなさい。何かあったら知らせてください。信用できないならホテルドクターを呼んだらいいでしょう?」
「ちょっと待てよ…俺らただ、飲みに来ただけなのに」
「私に奢られるのが嫌なら後で清算してください…それでは…」
 部屋を出て、廊下を歩いていた時に邑輝は、窓に映る自身の姿に、意味深な翳りを己で発見した。都筑に悟られなかったのが幸いだったが…
――なんて顔だ……一体誰だ、この生き物は?
 遥か遠くを望む、渇望に色褪せた自身の影…
――心配するのに慣れてしまったとは、滑稽なものだ。いや、さっさと寝ればこれも治るか…いらぬ仕事を抱え過ぎた
と自嘲し、早々に眠りについた。
 

『―――…どうしたの?
何を泣いているの、恐い夢でも見たのかしら…
――もう、大丈夫よ』
 …そう言って、儚な気に微笑んで触れた母の手はとても柔らかくて暖かかった。
 熱をだした時、額に触れたあの手が今でも忘れられない…
「―――……!」
 額に手をあてた感触で巽が目を覚ました。
「あ、調子どう?」
「…都筑さん…」
「まだ寝てていいよ。熱、下がってないし」
「私達、どうしてここにいるんです…この部屋って…」
「心配しなくていいよ、大丈夫だから…ゆっくりお休み」
――大丈夫、か…やっぱり似てるな…この人は
 一瞬の思考も、やがては膨大な疲労の蓄積に埋もれてしまった。

 時刻もあれから正午になろうかという折、再び巽が目覚めた。とはいっても全身はまだまだ鉛のように重たかったが
「…すみません、迷惑かけて」
「もともと俺らのせいでこんなことになってんだからお前に謝られる筋合いないよ。いくら開き直って仕事してたとはいえ…なんか女になってから結構疲れさせてたんだし…体調だって悪かったんだろう?」
「…まあ、…正直な話そんなところですね…」
「ごめん…なさい」
 重苦しい沈黙に自身を委ね、都筑が自責の檻の中に入り込む所を見て、巽はにっこりと笑みを返してやる。もう気にしなくていいと、目でそれを伝えてやる。気落ちした都筑を見るのは自身の体調の苦痛よりもたまらないのだ。
「…邑輝は…あの男はどうしたんです?」
「え、と…仕事でここのホテルに泊まってるとか言ってたけど…昨日で終わったとか何とか言ってて、明後日まではここで休暇だって…」
――…あんな奴の近くにいるなんてろくなことない…都筑さんは何も言わないが、おそらくこの部屋はあいつの手配したものだろう
「…冥府にさっさともどりましょう」
「でも、お前、今、動けるのか?熱高いじゃないか…」
「…これくらい平気です」
 と言って、起き上がってベッドから立とうとしたら案の定、巽は目眩を覚えた。濁音に塗れた悪寒と共に脈が激しく波打つ。咽喉が、呼吸を拒むような苦しさと共に大きな波となって息を奪う。
――何だ…これ…身体が思うように動かない
「駄目だよ…やっぱりもうちょっと横になってろって。外、雪降っててめちゃくちゃ寒いんだよ。お前を抱えて俺が連れていってもいいけど、今はもうちょっと熱がひくまで様子みたほうがいいって」
「…どうして、こんなに回復遅いんでしょう…」
「亘理の薬のせいかもしれない…巽、今の状態になってから全然、術とか能力とか使えないだろう…今じゃ普通の人間とそう変わらないと思うよ…」
「…こんな苦しくて、気分悪いの…数十年ぶりですよ…」
 よもやここまで体調が崩れているとは…本人にとっても驚きだった。自由の効かぬ身体ではどうしようもないと、諦めて巽は再度、横になった。
「ホテルドクター呼ぶよ。あと食べられそうなものフロントに聞いてみる」
 都筑が電話でいろいろ問い合わせ始めた。気の抜けた、掠れた意識で巽がそれを眠りながら聞いている。
――…おかしい…変な感じだ…こんな状況とはいえ都筑さんが凄く頼りになるなんて…何か良くないことの前兆なのかもしれない
 熱のせいかもしれないが、全く普段の自分との立場が逆転しているように感じを皮肉った。思考も何もかも、かなり歪んで行く事で本能的に何かの危機を感じ取ったのだろう。だが、その余裕も長くは続かない…休眠を求める睡魔によって消し去られてしまった。この時点での彼の勘は、後々にして思えば随分な強かさがあったのかもしれない。
「ホテルに他にお医者さん、いないんですか?」
「はい、急病人の方がいましてそちらにかかりきりで…誠に申しわけありませんがもうしばらくお待ち下さいませんか?」
「あ、ええ、大丈夫です。こっちはよく眠ってるし、そんなに急ぎませんから…」
――まいったな、亘理、今出張だから呼べないし……
 そう思い悩んでいると、フロントで応対していた従業員はこう告げた。
「あの、お薬でしたらすぐにお持ちいたします。解熱剤等お入り用のものを何でも申し付け下さい」
「…あ、はい。助かります。俺、すぐに降りて行きますから」
 とりあえず、都筑は巽が目覚めた時の食事の事も含めて身近で説明したほうが早いと思い、自身で取りにフロントへ行くことにした。
 この数分の間隔が彼らを大きく分け隔てることとなる。

 …数分後、部屋のノックがした。巽は朦朧とした意識の中でその気配だけを感じ取った。
“パタンッ…”
――誰…だろう…誰か来た…都筑、さん?
 熱に苛まれた身体では、侵入者を確認することはできなかった。静かにドアを閉め、眼前に眠る巽の傍へ来た人物は途惑いがちに歩み寄った。あるいは、病人に気を使って足音を忍ばせていたのかもしれない。いずれにしろ、そのどちらなのか判然としない足取りなのは確実だった。
「誰も、いないんですね……都筑さんには悪いかな…」

 都筑の不在を予測していなかった邑輝は、ひっそりと呟いた。おそらく何かの用事で少しだけ出ていったのだろう。待っていれば直ぐに戻ってくるのだ。
 そのまま…昨夜の病人、巽が視界の中心に入った。彼の様子を伺い顔を近づけ経過を医師としての視線で診た邑輝が、
「大分、お悪いようですね……まだまだ安静が必要だ…」
 と、自然と声を零す。そしてしばらく、汗ばんだ巽の額に指を這わせ、邑輝はこう思った。
――ここでは羽を休めることができそうにないらしい…何処へ行こう…
「貴女、置いていかれたんですか?」
 まるで何かの追随を仄めかすように…自嘲めいた声で彼は喋った。だが、置去りにされる気分に浸れるような感覚などこの病人にある筈がない。判っていながら口にしたので、その嘲いも間もなく途絶えた。それ故、何処か馬鹿馬鹿しい冗談に相変わらずの歪みを感じてしまった。
「……都筑、さ…ん」
 魘されている巽の唇からこんな声が漏れた。それと同時に細めた目の先で巽の手が動いた。自然と、自身の手を近づけると巽は都筑と間違えて握り返して来る。この動作…それは、邑輝にものを欲することを数秒の時間で駆り立てた。
 彼はこの女性に興味を示したのだろうか…深夜に、この部屋へ忘れてしまったシガーケースを取りに来るだけのその行動は彼にもうひとつのものも持って行かせることとなる。
――私が治してあげますよ…
 邑輝は、意識のない巽を両手で抱き上げ、自分のコートをかけて誰にも見られないように部屋を出て行った。
 

 彼は、高速を抜け、東京から随分と離れた地に慌ただしく訪れた。人がいるだなどは全く考えもつかないような山奥と、言ってしまえばそれまでだが、小さな湖畔のほとりにある山荘は、まるで同じ日本とは思えないくらいの静寂に包まれた地域であった。ここに来てから数時間して雪が激しく振り出した。病人には全く相応しくないと判っていながら降り立ったこの山荘、…もっともこれほど自然の猛威が存在すると気付いたのは着いてからだったが…ここへ着くと、かなりの注意を払いながら邑輝は巽の介抱に心血を注ぎだした。暖房器具、食料、厚手のカーテンを取り付ける作業等、諸々のことを颯爽と行ったのだ。
――目覚めたら、怒るでしょうねぇ…
 作業を休め、自身の埃を払うため着替え、一息ついてからこの邸でもっとも暖かい部屋の様子を見に訪れた。天蓋付きのベッドに眠る巽の傍らで、腰を落してしばし考え込む。安らぎや休息を求め、静養するに十分なこの邸に邑輝は独りで訪れることを避けられたのだ、ということを…
――静養、か…口実が欲しかっただけなのかもしれないな
「ん……っ…」
 顎を持って、口移しで水を飲ませ、次いで昼を欺くばかりの暗さで眠り続ける女性を見つめる。そして、再び唇を重ねた。巽が邑輝に拉致されたことを知った都筑は今頃、怒り狂って必死で探し出しているだろう。妖艶な瞳を放つ邑輝の瞳が、眼前に沈む巽を見据えた。
――少しばかりお借りしますよ、都筑さん……
 この冬は彼らに多くのものを刻みこむ。
 
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