you...

 邑輝の予想通り、いやそれをはるかに上回るという…目覚めたばかりの巽の気分は最低極まりないものだった。事態を認識して間もなく、開口一番こう述べた。
「…私、帰らせてもらいます!」
「帰るんですか、どうやって?……貴女、今、はっきり言って普通の人間とそうかわらないんじゃありません?体の回復、凄く遅いですね。なりたての死神にしてはずいぶんと無力でいらっしゃる……」
 巽が無視して、部屋を出て行こうとしていた。体力が完全に回復していないせいか、未だ足元のおぼつかない行動だったが、それと悟られぬよう努めながら歩いた。しかし、ドアノブに手を触れようかという時に、邑輝はそれを許さず巽の前に立ちはだかり、制止にかかる。先の廊下が非常に、凍りつく程冷気が染みているのでこの部屋から出させるわけにもいかなかったのだ。
「ここは山奥、…森の中の一軒家ですよ。外はとても寒いですし、どんなに歩いても外部と連絡なんてとれやしません」
「…何が目的でこんなことを?」
「私と貴女、ふたりだけなんです。ずっと、ここにいてください」
「ふざけるんじゃ…」
 邑輝が巽の細く萎んだ右手を掴んだ。手首に口を近づけて、巽の顎を軽くもちあげて言う。
「ここでは私に逆らうのはおよしなさい。美しい貴女に手荒なことはしたくありませんからね。それに、…それ以上、恐い顔をさせると……都筑さんに怒られる」
“バシッ!”
 邑輝の白い頬は紅みを甘んじて受けた。この男の口から都筑の名前を聞かされることで、衝動的に危機感を覚えたので叩いてやったのだ。自分の弱点、最愛の彼を利用されるわけにはいかない。
「――………」
「腫れた、ということは人間なみの皮膚くらいは持ってるようですね。私が困れば、都筑さんが我が身を忘れてここに来る、とでも企んでるんでしょう?」
「……そう、そうかもしれませんね…いえ、きっと来る」
――あんたが都筑さんにしてきたこと!私は許さない!
 巽が、即座に空いた左手で邑輝の頬をもう一度、強く叩き目を光らせて罵倒する。体勢が不利でなければ、更に横殴りに飛ばしていたかもしれない。今度は、浅く切れた唇を舌で血を舐めながら邑輝はこうでなければと、さも面白そうに喋ってきた。相手の反応を見てのこういった態度が相変わらず鼻につく男だ、と巽が激怒の嵐を胸に抱きいっそう不愉快だと悪態を吐いた。
――この人を捜して、都筑さんが迎えに来たら私は何を言うだろう…
「いつまで私の前に突っ立ってるんです?どけと、言ってるでしょう!その耳、聞えてるんですか?」
「……聞えてますよ。都合の悪いことはきかないようにしてるんです。女の声はただでさえ、聞き辛い」
「は、傲慢で役立たずな耳ですね。嫌なものには蓋をする、あんたの得意技でしょうに!」
「……得意なこと?私は……」
「…………?」
 邑輝は、その整った容貌を、感覚の麻痺したような表情に固定させて静かに呟く。白く見えた瞳は、何故か色を抜くほどいっそう薄くなっていた。
「私は、貴女を攫ったこの場所を、まだ誰にも知らせていない」
「……?」
――なぜなら……
「病人など、腐るほど見てきた。…死んでくれたらさっさと見捨てて私は消えるから……」
「馬鹿にして…!」
 訳の分からぬ御託を並べる白い男に、巽は嫌気がさしてきた。
――能力さえあれば、ここで、この場で貴様の息の根を止めてやりたいくらいだ!
 睨み付けて、怒りと嫌悪と蔑視の眼光を巽は僅か見上げた先で注いでやった。だが、この男にだけは見下ろされるのは非常に屈辱的だった。見上げる自身の姿勢に、煮えつくような好戦が沸き上がってくる。
「しかし、起きたばかりだというのに…見かけ以上に気の強い方ですね…」
――あんたが死んで、跡形もなく消えてくれたら、喜んで大人しくしてやるさ!
「まあ、それより、食事にしましょう。病み上がりの貴女につきあってわたしも同じ食事にしますよ」
「いりませんよ。そんなもの!」
「体力つけなきゃ動けないでしょう?」
「出て行け…っ!」
「ほら、息が切れてる…食を満たして養生しましょう。食事の時間です」
 有無を言わさぬ一本気な態度、いや殆ど巽には“命令”と都筑をおびき出すという“脅し”に聞えた。そして結局、巽は取りたくもない食事に付き合わされることとなった。
 

――この皿を、高慢なその鼻にぶつけてやりたいものだ……
 渋々と、だが強くそう願った。食事の席に意図的に遅れて着いたが、食べたいけれど食べる気にはなかなかなれなかった。毒でも入ってるんじゃなかろうか、と疑うがこちらの思考を先読みして邑輝は、疑惑全てについて潔白をつらつらと述べていく。妙にここでは響いてくる聞き慣れない男の声…
――この地、東京からどれくらい離れているのだろう…
 自分に与えられていたあの寝室に電話の子機があった。だが、通じなかった。こっそりと、邸中のありとあらゆる電話機からも連絡をしようと試みたが、通話不能の発信音だけが鳴るのみであった。
黙々と、食卓に着席し、そのまま氷の仮面で脱出手段について思考を張り巡らせては微塵も動かぬ巽を見かねて、邑輝は立ち上がってこう言った。そして、諦めて自室に引き込んだ。
「少しでも食べておいて下さいよ。拉致した上に病気まで悪化させてしまってはたまりませんよ。それから…」
「………」
「……外には、出ないで下さい。危険ですから…もっとも、この天気です。馬鹿な考えなどおこさぬようにしてください」
 去り際に、しっとりと艶を帯びてきた自分の髪に触れていく感覚がした。思考の波から目を覚まして振り返る頃に、もう邑輝の姿はなかったが…
“ドサッ!”
「……!」
 決して小さいとは言えない、雪の落ちる音だった。万全ではない体調と警戒心の高揚からか、こういった些細なことにまで敏感に反応してしまう。巽は窓を開けて、目の前に展開する夜の闇を見つめた。
「樹海みたいだな…これは容易に逃げられそうにないか。だが…」
――雪が、止んでる。…歩いて行くのは不可能にしても、車を飛ばせばなんとか麓まで行けるだろうか…
 巽は、冷静に慎重な判断をできるだけ下そうとした。
――冷静かつ慎重に、か…今、考えてることは無謀と思えるかもしれない行動だが
「生憎、このままあいつに自分の事を左右されるなんてまっぴらだ……」
 ナイフとフォークが、派手な音を立てて、皿の上に放り投げられた。
  next