不思議の樹

陽射しの良い春の休日、能天気な鼻歌が延々と流れている。
「馬鹿〜馬鹿〜♪巽のば〜か〜♪…無視すんなって〜…な」
その日の都筑は洗濯物を洗わされる破目となっていた。洗濯を済ませば次は拭き掃除である。今日は一日中、巽の家の掃除や後片付けをする役目を担っている。
なぜなら、先日の土曜、巽の住まいを半壊するほどの失態を引き起こしてしまったからである。
「ふん、なにさ…ちょっとふざけて桜の樹を植えてあげただけなのに」
亘理を通じ、彼はとあるバイオ関連会社からの試薬品をこっそりと拝借して、(盆栽はあるが)花の欠片もない殺風景な巽の庭に桜の花を咲かせてやろうと目論んでいた。しかし、それは…ものの見事に桁外れの損害を生み出した。最初、膝下ほどだった桜の幼樹は、都筑が薬を注ぐことによって数秒で直径13メートル以上の大木へと豹変してしまったのだ。地割れが起こり、地中の水道管は破裂し、巽の家は庭以上に大きくなってしまった巨木によって半壊した。樹もろとも吹き飛ばされ家の落下物で下敷きになった都筑は慌てふためき、携帯電話で亘理に助けを求めたが、亘理はとうの2時間前に結果を恐れて旅行へ…。泣き付かれた密が屋根に下敷きにされて動けないでいる都筑をようやく救出しに来た。密が罵倒の嵐を下した。
「お前、何やってんだよ……なんでこうも問題ばっかり起こすんだよ!」
「だって、お花見の季節だし…成長促進剤使ったあの薬で巽の家の庭をぱ〜っと明るくしてやろうかな〜なんて…思ったんだけど……」
「これのどこが花見の桜だよ?!腐った緑色の花弁じゃないか!」
「……おかしいね、この薬、失敗作なのかなぁ」
はらはらと風にそよがれ、舞い落ちる花弁は…どれもこれもここ数年の不景気を思わせる黒く、錆びた緑色であった。
「まったく、つきあいきれねぇよ!巽さんに謝って、壊れた家の修理代や片づけはお前がちゃんとしろよ!俺はもう知らないからな!」
「え?…あ、待ってよ!どうしたらいいんだよ。助けてよ〜」
「知るか!」
都筑を救出しただけで、呆れ返った密は怒りながら去っていった。そして、特別出勤を終えて戻って来た巽が…
冷ややかな目で怒り出すのにそう時間はかからなかった。

――あ〜あ、巽の家、どうしよう…この樹をどうにかして、新しく建てなおさなきゃなんないのかな…
「…拙いなぁ…怒っててひとっことも口きいてくれないし…何度謝っても、ありゃぁ当分ああだろうな」
「都筑さん!」
「は、はい!」
愚痴まじりの鼻歌もぴたりと止まった。奥の方で、フローリングに落ちたガラスの掃除を済ませた巽が何時の間にか足音も立てずにここへきていたのだ。
「都筑さん、この換気扇も洗っておいてください。まだ使えますからね」
「は、はい……」
「それから、この樹、切り倒すための業者を呼んでおきましたから、電話が通じないから、近くまで彼らがここへ来たら案内してやって下さい」
「え、切り倒すの?」
「当然ですよ。こんな大木、迷惑ですよ」
「でも、そんな……せっかく大きくなったのに」
巽の眼鏡がきらりと光る。都筑の頬がひくつく。
「じゃあ、私はどうなるんです?自分の土地に頼みもしないで侵入してきたこの巨木に、面積の半分以上を譲って、当の私は隅っこで遠慮しながら暮らせとでも言うんですか?」
「そ、それは……」
「桜の樹ならまだ引っ越せば良いとは思いましたがね!この樹は一体何なんです!腐った緑色の花弁を降らすだけではなく、人の2倍くらいあるアボガドの実を生み出したり、向こう側では巨大化した南瓜を3つもつるしてますよ!おかげで落ちてきた重さに耐え切れずに、リビングの床がさっき抜けました」
最大限の怒りを血管と共に浮き上がらせて、巽が大声で怒鳴り散らす。
「ご、ごめんなさい……そんな変な薬だったなんて思わなかったし…」
「まったく、亘理さんにも困ったものだ。今度、彼の身辺を知る必要がありますね!」
「で、でも、南瓜とか食べれるね。食料に困ることの無い便利な樹じゃないか」
「迷惑ですよ!そんな妖しい食料、あんたの胃袋くらいしか受け付けませんよ!」
その時、言い返していた巽の頭部に、ザーッと数百個の苺が落ちてきた。
「痛っ…今度は何です?!」
「苺だぁ……」
都筑が嬉しそうな顔をして、それらをぱくぱくとほおばって食べていった。
「巽〜!美味しいよ、これ」
「なっ、都筑さん、そんなもの口にするんじゃありません!危ないですよ!」
「美味しいよ、お前も食べてみろよ」
「冗談じゃっ…!」
都筑が吐きなさい、と肩を揺らして覗き込んだ巽の口にひとつ、苺を放りこんだ。
“ゴックン”
と、いう自分の喉元を苺の実が通り過ぎていく音がした。
「……」
「ね、美味しいだろ〜!」
「これは、…苺じゃない…この匂いは……」
そう言い終える間もなく、巽ははっとした。都筑が両手をあげてふらふらとおかしな動作をしだしたのである。巽は呆然と見ていた。気でも狂ったのか、と思ったがこの楽しそうな踊りに覚えのある気配を感じ取った。
「たつみ〜ぃ、何〜?踊ろうよ〜」
「ちょっと、都筑さん…」
「なぁに〜〜?あはは〜〜ん」
奇妙な甘ったるい声を出して都筑が踊り出した。そしてみるみるうちに、へらへらと躰をくねらせ次から次へと派手な動作で服を脱ぎ去っていく。
――駄目だ、これはもう確実に酔っ払っている行為だ…
頭を抱えた巽がその場にへたり込んだ。
あの実の中には酒が入っていたのだ。数分後、座りこんだ横に、葡萄酒を中にたっぷりと含んでいるであろう葡萄の実が幾房もばらばらと落ちてきた。
「まったく…どう始末をつければいいんです。この後始末を私がするんですか…?」
「なにぶつぶつ言ってんの〜?えへ〜〜」
すぱっと上半身を晒した都筑が次は樹によじ登って物凄いストリップをします、とか言いながら、更に下半身を纏うものをちらちらとひらつかせながら脱ぎ出した。
「せっかくの休日なのに……酔っ払いのあんたのお守りまでするなんて」
都筑が絡むとひとつの失敗は何倍にもなって増加していく。巽は都筑の晴れ姿を見ながら溜め息交じりにこう呟いた。
「あんたには飲みたい酒がたくさん降ってきて嬉しいでしょうけどね、私はそんなものが降ってくるくらいならもっと有意義な楽しみで時間を潰したいですよ」
「なに〜?何言ってんの〜?巽も脱ぎなよ〜気持ちいいよ〜♪」
「温泉でも浸かってくつろぎたいって言ってんですよ、この酔っ払いが!」
“バシュッ……!”
――え……?
その大きな音に、都筑の酔いが覚めた。
巽も目を見開いて今起こった庭の地割れを凝視した。

数時間後
「え?…切り倒さないんですか?」
「ええ…少し、思わぬものがでてきましてね…申しわけありませんがおひきとりください」
「はぁ……」
業者が来る30分前、樹の根によって掘り起こされた温泉が湧き出してきた。
巽はこれを用いて、温泉宿をそこへこっそりと建てることとした。もちろん、営利目的ではなく、プライベートの楽しみのためのものである。
――まあ、掘り出し物ということにしておきますか…
あの樹は、人の望むものを与えてくれる非常に不可解な樹であった。もっとも、それ以降はさほどの欲がわかなかったので、都筑は酒を、巽は温泉を望んだだけなのでその役割を果たしているに止まったが…

“不思議の樹”を囲んでの入浴は、意外と楽しいものである。
酒を飲みながら温泉に浸かり、1週間の疲れを癒す。巽と都筑だけのくつろぎの空間ができたのであった。

勿論、ぶつぶつ言いながらも巽は数日後に引っ越した。

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