色情倒錯

―――――私は、あの種の“人欲”に対する歯止めにすぎない
 

 寝室の扉を静かに開けた。
 巽の蒼い視線の向う…“彼”は、ソファで真新しいローブを纏ったまま、死人のように眠っていた。寝息も含め、生気すら感じられない故、向うが透けて見えるほどの儚さだった。これを見た巽はぞくりとした。あまりにもその様子が、突然の棺桶の扉を開けた喪主の気分を彷彿とさせるので、近くに歩を詰め手で触れた。
――躰が、冷たい……
 息をしているのだろうか、血は流れているのだろうか…悠久の彼方、いつしか己にも覚えのある様子を探るように、巽は邑輝の胸に手を滑り込ませた。そして残る片手で首筋の脈を伺う。
 シャワーを浴びてほんの数分しか経ていないというのに、何故に…この男は、こうも永遠とも匂わせるような眠りに漂うのかよく判らなかった。
「寝るなら寝るで、ベッドできちんと眠ればいいというのに……私の家をホテル代わりに乱用されては困る」
 死体ではないことを、一応の安堵と共に確認した巽は、小さく愚痴も零した。それは、邑輝が死の藻屑になって唯一哀しむ人物のための安堵にすぎなかったが……

 しばらくした後、窓枠に凭れて、じっと邑輝を見た。闇夜に映える銀糸の冠が巽の心に傷心を誘う。
――これが、都筑さんの選んだ男…私ではなく、この男を……
 目の前にいるのは都筑の最愛の男である。かつての恋人だった紫の瞳の人は自分ではなくこの男を愛し、巽の腕を振り払って…呆気なく行ってしまった。
 

 ほんの数分、巽はもの思いにふけってから邑輝の身動ぎに目をやった。“死体”のように眠っていた男はそっと目を開け、夢の狭間から戻って来たらしい。
「どうするんですか?」
 このまま、寝るのか帰るのかどちらかと、巽は声を荒くかけた。虚ろ気な瞳で、未だ眠り心地の醒めやらぬ邑輝はぼそぼそと唇を動かしながら辺りを見回していた。どうも最初の方は、都筑がどうのこうのと呟いていたので巽は何を言っているのか認識できなかったが…。ようやく、彼の声もはっきりしてきた頃、まともな日本語が聞えてきた。
「……ああ、夢だったんですね。ここ、何処です?何故、巽さんがここに…い、る…?」
 彼は、壁に凭れ、自分を見下ろす蒼い瞳の持ち主を不遜な態度で練り眺めた後、低い声で自身の状態を幾度か問いかけた。
「寝ぼけてるんんじゃありませんよ。疲れてるんならそこのベッドで眠って、気が済んだらさっさと帰って下さいな」
「――疲れて、気が済んで……?…ああ、そうか」
「……」
「成る程ね、…そうでしたね」
 端正な顎をなぞりながら、徐々に一人で納得を得ていく邑輝の笑みを見て、巽は大きく訝しんだ。そして、三十分程前のやりとりを思い出す。
――これはどうしたものかね…
 キッチンで夕食の用意を黙々とこなす巽を、邑輝はまったく手伝うこともせず、ものぐさに椅子に腰掛け、足を組み変えては煙草を何本もふかしていたものだ。彼はさして食欲を現わす表情も仕種もしなかったので巽は、思いっきり待たせてやるほど鍋の中の具を煮込んでいた。しかし、その時、突如として邑輝は珍しく自分から会話を作ってきた。それは、料理の話でもなく、彼の愛しい恋人である都筑の話ばかりであった。先月からずっと、仕事におけるミスで落ち込んでいる都筑の様子等……邑輝はその過程を、語部のように、すらすらと喋っていた。酒が入ったわけでもないというのに、今回ばかりはいつにも増して雄弁だった。苦い思いで巽はこれを聞いていたものだ。
 都筑が、巽の手を振り解き邑輝の元へ行ってから半年……
 巽は寂しげな表情を必死で堪えながら、目の前で泣いて別れを告げてきた都筑に、「彼を愛して、貴方はよりいっそう幸せにおなりなさい」と笑顔で見送ったものだった。
 だがしかし、これで全てが終わったと思ったことは大間違いだった。一人身となってからようやくその悔しさと哀しさの整理もついた頃、三週間も経たぬうちに邑輝は巽に接触してきた。出張先のホテルに、忍び込むような形で邑輝は突如として姿を現わし、巽の閨で乱暴を働いたのだ。忌まわしかった生前における自身の過去を調べ上げ、錯乱の中、邑輝は自ら作り上げた幻を用いて彼を精神的に打ち落とした。負の心に苛まされた巽は閨で発狂寸前まで追い込まれてしまった。行為も時間を経るに連れて、残虐性を強めていき、絞殺に近い形の終焉で巽は屈辱を味わった。邑輝自身も何者かに乗り移られたかのように貪欲に強いていたので、薄弱な意識の中、巽は命の灯火まで喰いつくされるのではないかというほどの恐怖と共に躰を奪われ続けたものである。
 …始めは、今まで都筑を独占していた自分への報復かと思ったが、そうでもなかったらしい。ふらりと姿を現わしては気ままに巽の前をすり抜けていく…邑輝自身もさほど記憶に残らない、都筑に対する“行き過ぎた愛慾”への拮抗作用なのである。
 邑輝は、これに巽の憎悪を感じながらも時として「殆ど覚えていない」等と言って、ないがしろにしている。こうして都筑に隠れて、踏み外した関係も何度目だろうか…。

 今日は、台所で邑輝はこう切り出した。
「今度は貴方の番がいいですね?少し“ちから”を下さいな……」
「大抵、私で遊ぶのが殆どだというのに、どういう気の回し用でしょうね。都筑さんに冷たくされてるんですか?」
「いえ、そういうわけでもね……」
「それとも逆に、仕事で沈んでいる彼に下手な慰め方でもして自己嫌悪を?」
「別に…ただ……」
 巽は、この頃の都筑がなかなか浮上しない様子を知っていた。また、邑輝自身も、懸命に手を尽くした患者が、最後の一枚の葉を落としたことで一様の心を傷めていたことも知っていた。結果、巽はこう推測していた。あの二人は、双方、それなりに重々しい苦痛を抱えていると、必ずと言っていいほどどちらかが不器用な慰め方をかけては虚しい世界を生み出していくのだという事を…
「ドクター……?」
「――………」
 煮込んでいた料理の様子を見ながら会話を交わしていた巽は、数秒の沈黙に振り返った。すらりと伸びた長身が、不動のままの白い男とは逆に軽やかに向きを変える。
 更なる半拍の後、邑輝は声をようやく発した。酷く疲れたという呟きが、静寂なキッチンを響かせたのだ。それは何故か、陰鬱でとても弱々しい声だった。
 やがて邑輝は立ち上がって、ネクタイを外しながら此処から出ていこうとする。
「ドクター、食事は?」
「…そんなもの、食べたくない」
 それきり、邑輝は、煙草をもみ消してから料理も食せずバスルームへ足を運んだ。
 見送る巽の瞳には、その肩が、背中が…意味深な影を潜めているように映ったものだった……
 

 このように、つい半時間程前の会話を不審に思い起こしてはいたが、巽は殊更、何も“変化”の見られない邑輝を見つめて普通に話しかけてやった。
「“今夜”はどうするんです?せっかくの週末に、都筑さん、一人でいるんでしょう…何も“出て来ない”なら帰って傍にいてやったらいいじゃないですか…」
「今の、私が?」
「…きっと、あんたの事、待ってますよ。…眠たいだけなら何もないでしょうに……」
 しかし、巽の願いも虚しく、邑輝の瞳は嫌な光り方を醸し出す。
 産まれ出てきた『死の舞踏者』…
「…さぞかし美味しいでしょうね…あの人」
「……」
「おとつい、場所も選ばず、無理な体勢で抱き合ったんですよ…歪んだ麻斗の表情、綺麗でした…」
「………」
「あれがもっと痛がる所を見てみたい…そしてあの肉体を食んでみたい、そして」
「あんたねぇ…」
 またか、という表情で巽は深い溜め息を吐いた。そして頭を抱えながら水を一杯、飲み干した後、狂想的な眼光を放ち不適な嘲いを零し始めた銀髪の主に向かってもう一杯汲み入れた水をばしゃりとかけてやった。
「…おや、何するんです…こんなぬるま湯かけないで下さいよ…」
「氷水ですよ!感覚も衰えたのか、あんたは!」
「嘘でしょう…?冷たくない」
 呆れた風情で巽は続く言葉を飲み込んだ。まともに会話することを止めたらしい。はっきり言って、先ほどまでの邑輝の躰が冷たかったのは事実であったし、その本人もその冷感の中、都筑を凄惨に犯す夢でも見て、恍惚とした様子であったのだろう。
――こんな状態で帰すと、都筑さんが危険だ…結局、今夜もか
「巽さん、どうしたんです?急に静かになって…」
 美しく微笑しながら邑輝は顎をあげて“食獣”の制止を欲し、呼びかけた。
「…あんた、本当に彼に危害を加えてませんよね?」
「私の愛する大切な麻斗に、一体、何をすると言うんです?」
「彼、無事なんでしょうね?この前、行き当たった時に、犬に噛み付かれたとか言って肩の包帯を捲き直し出したのを見たんですよ。あれ、あんたでしょう?」
「じゃれあって噛んでしまっただけですよ。愛情のスキンシップに決まってるでしょう?何を言って…」
「だったら、何故、愛する人を喰らいたいだ等と奇想するんですか!」
「………」
「この前、はっきりと私の目の前で、都筑さんを愛するあまり、彼の肉を喰らいたいだ等と言ったじゃないですか…尋常じゃないんですよ!いい加減に判ってくださいよ!」
 両手を組んで、邑輝はこちらを見やり妖しく口の端を釣り上げた。こんな時、都筑の知らない“邑輝”の別の仮面が浮き彫りになる。日常における普段の彼も眉目秀麗、またとない美男子だったが、この仮面を覆った“邑輝一貴”も負けないくらい、妖艶な美しさを垣間見せる。悪魔が好む、魔性の貌…饒舌で、熱の行き過ぎた狂気の瞳とでも言った所だろうか…
「私は、本当に麻斗が好きなんですよ。たまらなく愛しくて、本当に可愛らしくて…あの貌と躰が私の手で快楽に悦び、啼き折れる姿が私を愚かにしてくれるのを神に感謝しているくらいです…」
 金縛りにでもあったかのように巽は、威圧的な眼で凝視された。そして、舌打ちをしながら説得能力のない自身に滅入っていく無力感を覚え出す。
――駄目だ…今のこいつに何を言っても全く無駄だ…
「あの人…綺麗な血を流すんです。少々、激しくしすぎた時に流れる紅い液…苦痛と恥じらいが加わった情事の後のあの美しさに叶うものはないでしょうね。非常に幻想的で、吸い込まるほど魅せられて…」
「……」
「だから、ついつい食べたくなる。…あの人の肉…さぞかし美味しいでしょうね。石榴のような臓器達やこの世でひとつしかない紫の目玉…紅い血液をグラスに入れて飲み干したいと思いませんか?グラスにオリーブでも落として飲めばたいそう香ばしくて」
「止めて下さい!」
「……」
 巽が、目を細めて悔し気にも声を発した。冷徹な狂人の瞳に、理性を呼び覚ましてやるように懸命に…
「彼を傷つけて何になるんです?…あの人は貴方のことを心から愛しているんですよ」
――そう、私よりも愛していると都筑さんは言ったのだ!
「その想いの前で貴方は、どうしてそんな“人肉”を欲する獣になるんです。普通に抱いて、暖めて、愛してやれば良い筈なのに…」
「繋がっていたいんですよ…暗い所で、表裏一体の私達…私はいつか麻斗と同調して、完全にひとつになる」
「伴侶を喰い殺すのが愛情の印なんですか?それは身勝手に創り上げた迷妄の証だ……」
「愛しているからこそ私の中にずっといて欲しい…そうは思いませんか?…私のために存在して、苦痛に喘ぐ姿もその推移の結果…」
 色の狂った瞳を邑輝はますます深めていった。多弁を極めながらの彼の声はよりいっそう、気の触れた熱を増していった。そしてそれも息のあがった頃を下ると、艶やかに映えた銀の宝石は退色し、やがてそれは焦点を失いながら透明になって行く。
「…泣き叫んで命乞いをする恋人…断末魔の啼き声が欲しい…あの肉に喰らいつきたい」
「ドクター…常々思うんですがね、それは、都筑さんが貴方に近しい距離にいてくれるという悦びと同時に、それを是とせぬために生まれてきた同族嫌悪にも似てますよ」
「嫌悪?…何故私がそんなことを?」
「都筑さんがあんたに染まる事自体、心の底で否定してるのかもしれないんです…貴方自身が、自分のことを愛していないから」
「こんな不浄の悪魔に成り下がった輩が幸せになったら、世の悪人達は、更に長生きしたくなるでしょうね」
 ほんの少しの沈黙の後、巽は、懸命に労いの声をかけた。重厚な魂からの迸り……
「昔はそうだったでしょう?…だが、今はもう救いを求めていい筈だ。あの人の愛が貴方を包んで暖めてくれるんですよ…帰る所があるんです!」
「確かに、優しすぎて、恐いくらいにね…あの麻斗は本当に、本物なのかと疑いたくなりますよ」
 巽の助言に少々の同意はしたものの、邑輝の仮面は未だ衰えを見せずにいる。
「ドクター…共に沈んで慰め合って…優しいだけの貴方だけしか見せることができないなんて、疲れてあたりまえでしょう…。気が違ってくるのひとつの原因かもしれないんです」
「気違いに何を言っても無駄でしょうに…貴方、今夜は随分と聖人面がお上手だ…」
 募る哀しみをぐっと堪えながら、巽は言葉を続けた。心の底からの願いである。
「互いに支え合ってやればいい…都筑さんは十二分に心を預けられる人です。そんな相手がいてこそ生きる活力は沸いてくるもの…それなのに…」
――貴方は十分に応えもせず、都筑さんを自分の手で消したがっている…
「白羽の矢をに私に向けるのならいくらでも向けたらいい…だが、都筑さんを傷つけることをするのだけはよして下さい…お願いですから」
「いいえ、愛しながらも傷つけたい……愛しているから、彼を踏み付けにして、滅茶苦茶にしてやりたい」
「ドクター!」
「泣き叫んで、苦痛に悶絶する彼を見て自分だけのために苦しませてやりたいなんて思ってる私の捩れた感情…麻斗には見せられないですがね」
「…醜い、姿ですね」
「ええ……刃物であの細い躰を切り刻んで、骨を舐め、肉を喰らいたいぐらいなんですよ。おかしいんですよ、私は……。心の何処かで彼を食べて、私の中に取り込んでしまいたいという恐ろしい衝動を持つ己の鬼人像……」
「貴方……」
「食べたいんですよ、私は……」
「人間を、それも恋人の躰を食べたいだなんて……常軌を逸してると何度も言ってるでしょう…!」
「食べれば、私のものになる……。そして、食べたら絶対に、何処にも還さない…未来永劫、私の中に止まらせるために…」
おおよそ、次の台詞を巽は推し測って、代わりに述べた。
「ずっと、眠って、永遠に眠り続けたいと?さっきのように?」
「…そう、そんな感じだ。そんな願望だ!」
 捜していた言葉を宛がわれて、邑輝は興奮気味に立ち上がった。
「…なにを馬鹿なことを」
「巽さん、先程見たでしょう?」
「……」
「さっきは、…それを模して眠ってみたんです。彼を食べた後、充足感に酔いしれる私の姿を見たでしょう?…自分の神経を殺して、冥想を通り過ぎて模擬的に“永遠の眠り”に逝く。…仮死状態であの悦にはいるのはなかなか難しい……」
――そう、私は自分でも判っている…実行したらどうなるかも全て…
 淡々と語っていた邑輝は再び…熱をこめて声を発していった。巽はやりきれない思いで邑輝の美醜の様々を、彼の容姿と言葉のあちこちで見つけていた。そして、苦い気持ちでこう思う。ここまで病んでいるのか、と…
――…死相が見える、この男に
 邑輝の背後で死神が踊っている気配を感じた。
――いや、踊っているのは都筑さんかもしれない…躍らされているのか、自らそうしているのか…そんなもの、見たくないのに!
 やがて、白い手が自身の腕を下から覗きこむように物凄い力で掴んできた。
―――……!
 巽は、目をみはり、ぞっとした。臓腑と神経を震え上がらせるような男の渇いた貌に、下から恐怖で絡め取られた…。思わず仰け反る自身の影……
「あんた、何を…」
「…欲しい、…あの真実に近づきたい…私だけの貪欲な真実に、巽さん…どうか……」
 もう喰らいつきたくて我慢がならないので、今すぐ都筑をここへ連れて来い、と言わんばかりの風情だった。連れて来ぬなら己が喰らいに行ってやろうと、いう鬼気迫るオーラ…
 尋常ならざる会話の流れから、こうして夜の病気が狂操しだす。その病魔に、力及ばず巽は、抑制するだけの役目を果たそうとする。不毛の宴…実りのない拮抗…。
 恍惚とした表情に漂う邑輝にこれ以上の異常な数々の台詞を言わせまいとして、巽は自身の服を脱ぎ捨て邑輝をベッドに寝かせ、その上に重なった。そして、唇を重ね、諌めるように巽は邑輝を組み伏せた。さして体格差のない二人だったが、“自滅”と“悲愴感”、そして“満たされない本能の渇き”に漂うこんな時の邑輝……今日ばかりは受け身の要素を強くしていた。彼は、巽の施す肉体による倒錯という戒めにより、現世への伝導を促されることとなる。屈折した感情、だが愛するが故の病的なまでに行き過ぎる渇望…邑輝はいつも、巽を受け入れ、あるいは受け入れさせることで自身を常人が理想とする清浄さに近づき、取り戻そうとしているのだ。表の邑輝がそれをさせている。都筑には向けられない性欲という本能で、何かしらの正常さを見つけようとしているのかもしれない。
 

 その夜の寝室は、情欲の時間を二人に提供した。
――何故、そんな風でしか都筑さんを、愛してあげられない…
 虚しいスプリングの跳ねる音だけが束の間の情事を奏でた。
 ただ、本当に虚しいとしかいえない枯れた音だった。
 しばらくして、重なる唸きが双つの肌から蒸気と共に上がり、…張り合いもなく頂点に達した。
 邑輝は“これ”を済ますと傍に都筑がいないという渇望を取り戻し始める。生きたまま、実際に食べないままで都筑を愛する自分を思い出す。そしてそれがとても普通のことなのだと思い返す。
 一階の柱時計が十一時を告げた。遠い音を聴き終えるまで、呼吸を落ち着けながら巽は、邑輝の上に重なりその肩ごしに首を垂れ、瞼をじっと閉じていた。汗で密着した邑輝の肌に、人間らしい体温をようやく感じ取ることができただろうか…。ついぞ、それを確認するまで巽は絶対に離そうとはしなかったが。
「巽さん…もう、いいですよ。私は大丈夫だ」
「………」
「大丈夫です、もうなんともない」
――そうでしょうね…また、さっきのあんたがいずれ出てくるまではね…
 都筑を欲すると同時に、喉の渇きと、常人が求める料理への食欲に目覚めた邑輝……ゆっくりと身を捩り、巽の肩を避けてベッドの脇に脱ぎ捨てられたローブを手に取った。
 しかし、その時、大腿に絡まる巽の脚を最後に跳ねようと動いた時、巽は思いもよらぬ行動をとった。
「……?」
 きつく邑輝の両の手をシーツに押し付け、覆い被さり、ものものしい表情でこちらを睨んでいるのだ。
「離して下さいな…もう、行かないと」
「…そう、ですね、でも」
 だが、次第に震えが手首に伝わってきた。
 そして、零れ落ちる美しい、一滴の泪……
 同時に放たれたのは、胸に仕舞いこんでいた今までの苦悶と嘆きであろう…
「……幸せにするんじゃなかったんですか…愛しているから、自分の人生に深く関わる人だから、…永遠に愛する人だと言ったのにっ…こんなの見てられないっ……!」
 掠れた声と、何滴もの雫が邑輝の顔に吹き付けられた。この数ヶ月、説教は垂れるが文句ひとつ零さなかった青年は濁流のように荒れ果てた感情を、声と躰で震わせた。揺れ動き、そして悔しさに満ちた息吹に、押え込んでいた巽の怒りはしばらく止まらなかったのだ。いつしか、それは悲哀に満ちた苦痛を作りあげ、巽の精神を骨の髄まで苦しめ流離う棘となる。
「…あんな愛し方、もう止めて下さい。お願いですから、都筑さんを哀しませるような真似、やめてください…もう、私は、たまらない。こんな男の元に都筑さんが行ったのかと思うと悔しくて、情けなくて…」
「麻斗は何も知らない。…私もあまり、覚えてないので知らないようだ」
「知らなくても、私は知っている!」
「………」
「…私はあんたを害するような真似、できません…すれば都筑さんが哀しむと思っているからだ。本当に、殺してやりたいくらい憎らしいのにできないんですよ!」
「大変ですねぇ、巽さんは」
 眼下で、くつくつと嘲い出した邑輝の頬を巽はひとつ、憎しみを込めて叩いた。口より先に手が出るほど全身が殺気立っていたのだろう。
 しかし、それでも邑輝はにやにやと黒光る笑みを零し、高らかに嘲い声をあげた。高慢で高圧的な不遜の振る舞い…
――何故、こんな男を都筑さんは…!
「私と麻斗の幸せに、健気な貴方が報われてないこともないんですよ。巽さんがいてくれるおかげで…私は麻斗と和やかに愛し合える。私の食欲を昇華して、要らぬ物を満たすのに、貴方ほど良い材料はいない…少々、このように五月蝿い所が鼻につくが…」
「出て行ってください!」
「ええ、また、“お腹が空いたら”使わせてください。…尤も。嫌とは言わないでしょうし…。顎の雫も貴方の口には入らぬのだから…」
「さっさと出て行け!」
 憔悴しきった巽の心情を後ろに、邑輝は扉を颯爽と閉めて行った。シャワーで躰を清め、“汚れ”を落とした後、彼は慈愛に満ちた心と躰で都筑を抱き締めに行く。都筑も彼を最高の笑顔で出迎えるだろう。
 都筑の、最愛の男に対する嬉しそうなあの姿、貌、そしてあの躰…巽はそれを思い浮かべる都度、やりきれない思いで胸を痛める。
 鬱蒼とした傷心も高揚を治めた頃、巽は、自嘲気味にこう言って、己を罵る。
「…使い捨ての塵と同じで、便利で気軽に利用できる、か……陰に回るとはこういうものよ」

―――心は君が影となりにき
 

 週明け…その夕方、残業の整理に追われた後、何時の間にか机で居眠りをしていた巽はコーヒーの香ばしい香りで目を覚ました。瞼の向う、都筑がにこにことしながらそっとコーヒーとケーキを差し出していた。
「あの…残業、お疲れ様。ケーキ買って来たんだ。一緒に食べようよ」
「わざわざ、買って来たんですか…?」
「…だって凄く顔色悪いし、疲れてるんだと思ったから…」
「…ありがとうございます」
 甘いものは疲れた時に良いからと言って、不器用に煎れたコーヒーを都筑は無邪気に勧めてきた。
――影ながらに、愛してますよ
 この想いは、消え入ることはないだろう。
「…どう、ですか?」
「え……?」
――誰よりも、貴方を想っていますよ…そう思わせてくれるだけでもいいんです…
 カップを置いて、巽はできる限りの笑顔と真剣な眼差しでこう質問した。心からの問いかけだった…。唾を飲んでごくりとしながら…返事を望んでいた。
「――幸せ、ですか?」
 巽の心配を裏切ることなく、見つめ返した都筑は紅く恥じらい、照れくさそうにイエスと応えた。おそらく、あの後邑輝は都筑と共に過ごし、脳裏に名残りを残す程、抱き続けたのであろうか…。優しく自分を抱擁する邑輝の奔流に、都筑はのろけを言い隠せなかった。とても、幸せに酔いしれた瞳をしていた。
 おそらく、巽だけが知るあの“邑輝一貴”の姿は、都筑の視界のどこにも映らない。
 巽が堰となってそれを必死で食い止める役割を果たしているのであるから…。これからも、永くずっと…永遠に……
「…あのね、一貴、凄く優しいよ…。この前なんか、蜃気楼を見に連れて行ってくれたんだ…。あんな綺麗なもの、俺初めて見て、本当に…感動して泣いちゃった…。でも、一貴、そんな俺がとても好きなんだって…だから、とても幸せなんだ」
「……蜃気楼、ですか」
「あ、…えっと、ご、ごめん。なんか、余計なこと喋っちゃって…ごめんね」
 昔の恋人に、自分は何という配慮のない馬鹿なことを言ってしまったんだろうと、都筑はすぐさま反省の色を見せた。
「いいえ、謝ることなどありません。幸せなら、…それならいいんです」
「なんか、恥ずかしいな、こういうの喋って馬鹿みたい、俺……わ、忘れてね」
 巽は、それを聞いて、呼応するように微笑み返してやった。心の巣窟に住むあの“食獣”へのどうしようもない殺意を懸命に隠しながら…

 二杯目のカップを飲み終えた頃、巽は静かにこう思った。
――蜃気楼、か…砂漠や海を漂うように、掴まえ所のない所はあの男に相応しいな
 そして次に、ちゃっかりと買ってきた、もうひとつの自分の分のケーキを嬉しそうに食べ出した都筑に目をやり、哀愁の中で蜃気楼に思いを馳せた。
――近づくと、すり抜けてしまう逃げ水みたいなものか……一人の男から発されるように見える虚像の向うにあるものは、本当は、私などよりも貴方が一番良く知っているのかもしれない……
 視線がかち合った都筑に巽は美味しいかと、訊ねた。都筑は、屈託のない笑顔で
「うん、美味しいよ!」
 そう応えた。希望に満ちた、幸せそうなその笑顔…
――どうか、その笑顔が、永遠でありますように

 

Akira Ichito
00/06/04