次の日、巽が廊下を歩いていると一階の居間で物が壊れる音がした。様子を伺いに行くとどうやら都筑が花瓶を落として割ってしまったようだった。
「あ、巽…どうしよう…旦那様に怒られる」
「割ってしまったものはしょうがないですよ」
「だって、この花瓶…一番のお気に入りだって言ってたのに…」
――嘆きたいのはこちらも同然だ
一瞬だけ、巽はそう思った。
 巽は、朝から腑抜けの状態である。自身の仕事や家事も何もかもを放り出しているほど気が滅入っていた。なぜなら…昨夜、邑輝に見抜かれたことを彼は必死で否定していたからだ。
それも一晩中…。主人の爪先に許しをもらい、意識を取り戻すたびに自分は主人のものであると繰り返し繰り返し呟いた。ベッドを降り、目の前に居座る邑輝に跪いて狂おしいほど忠誠と奉仕に身を委ねたのだ。何をされても許し、何を奪われても無条件に受け入れた彼の躯は聊か疲労と苦悩に蝕まれていた…。
 ゆえに、都筑は体調の悪そうな巽を気づかい、いつも以上に、巽の仕事までをも自主的に代行していたのだ。
「なんか、…さっきも食器磨くのうまくいかなくて後にまわそうと思ってたらいつのまにかお前にやってもらってて…役立たずでごめん。おまけに今度はこんなミスまで…」
「この居間は私の担当ですし…私がこの花瓶に水を差すのを忘れていたので、貴方は代わりにしてくれていたんです。私にも責があるんです。事情を説明しておきますから…旦那様は
無暗に怒ったりしませんよ。もう、気にせずに…」
 半泣き状態で都筑は、袖で目を擦りながら破片を拾い集めていた。巽もそれを手伝う。拾いながら宥めるように巽は会話していったので都筑も少しは落ち着いていったのか、いつものあどけない彼の表情が見えた。その時、ふと目がかちあう。
「巽って綺麗な瞳してるんだね」
ふっと巽は歯を浮かせた。
「何を突然に…」
「俺の目の色も変だけど巽のはすごく綺麗で澄んでいるよ」
――そんなわけないだろう…
意識の水面下、卑屈に満ちた自分の色が影でそう訴えている。
「真っ直ぐで、忠実で、旦那様に本当に真摯に仕えてるんだなって気持ちがすぐ伝わってくる」
――違う。貴方は私の汚さを知らないからそんなことが言えるんだ。私は昨日、貴方の寝てる前で…
穏やかに語る都筑とは対照的に、巽の心音は徐々に激しくなっていく。こんな会話に不慣れなせいでもあったが、何処か混乱寸前に陥った自分の存在をますます確認できなくなっていったのだ。だが、その緊張の糸を無垢に切ってしまう都筑の言葉に巽は息を飲んだ。
「俺の家族も良い瞳を持つ人は素晴らしい人なんだよって言ってたよ。旦那様は幸せだね」
「旦那様が、幸せ…?」
「そうだよ、巽みたいな立派に仕えてくれる人がいて、それに…あ、愛し合ってて…」
――愛し合って…?
 途端、巽は大声で落ち着かない声をあげた。
「貴方、知ってるんですか?」
「ち、違うよ…その、…旦那様が幸せだったらきっと自然にそうなるんじゃないかなって思っただけだよ」
 きまりの悪い表情をして、都筑の語尾は小さく消えていく。巽と邑輝の情交を見ただなんてとても言えない。失言だった、と都筑は酷く悔やんだ。
「あ、おしゃべりしてないではやく拾わなきゃ…」
「……」
 同じ破片を拾おうと、都筑と手があった途端、巽は都筑の手を強く握った。手を放さないことを都筑は不思議に思い、どうしたのかと訊ねるが巽は無言で見詰めてくるばかりである。何かを訴えかけるような眼…
「どうしたの?巽…」
「そう、旦那様の幸せなら貴方は言葉にできるだろうが、私の幸せはないんでしょうね」
「そんな、違うよ。旦那様は巽の真摯さをとても嬉しく思ってるよ。だから巽が幸せなら旦那様も」
 突如として巽は都筑の口を片手で塞いだ。
「旦那様、旦那様って…貴方は!」
「……!」
――抱きたい…
 都筑を引き寄せ、彼の唇に濃厚なキスをした。
「た、巽!」
「ならば貴方が欲しいと望む私を幸せにしてくださいよ!」
「や、…やだ、何を…?」
 戸惑い、身の危険を感じた都筑は悲鳴をあげて制止をよびかける。だが、巽は都筑の両腕を塞ぎ、あらゆる抵抗を封じる。
「――い、いやぁ!」
 巽は都筑を冷たい床に押し倒し、彼を望んだ。そして十分に蕾を慣らすことなく都筑に己を差し込んだ。
「嫌!痛い、…や、やめてっ!」
 硬く強ばった都筑の内奥にはなかなか進行できなかった。力を抜けと言って巽は都筑に何度も命じた。邑輝に触られ、途中まで欲情しあったとはいうものの、躰を貫かれたことなどなかったのだから。
「いい加減、諦めなさいな!貴方は私のものだ!」
 言うや否や、ズルリと奥まで貫いた。
「…ヒ…アァ?!」
 巽は自分が何をして、どれほど都筑に辛いことを強いているのかというエゴを心の中で悔いた。しかし、獣の本能に流された躰は飽くことなく、都筑の泪が枯れるまで責め立てた。
 最中に、濡れた紫の瞳が、苦痛と悲しみを訴えかけてきていたことから巽は幾度も目を反らした。
 情事の後、都筑は濡れた躰を巽に拭いてもらった。床に横たわった彼を巽はソファの上に移動させた。
「都筑さん……愛してますよ」
「どうして?…巽は旦那様が好きなんじゃないの?」
紫の瞳から頬に泪が伝う。
「――私は、好きであの方に仕えている訳ではない。こうなったのも」
 その途端、ズキンと酷い頭痛がした。何故自分はあの主に仕えているのかを考えるとその頭痛はますます酷くなるばかりであった。
「巽、ねえ、…どうしたの?」
 おそるおそる、巽に手を差し伸べる都筑の手を振り払い、巽は居間を出ていった。
――そうだ、私は何のために主に忠誠を誓っているのだ?
 だが、私はこれであの方を忘れ、背いたのも同然ではないか…
 ――この気持ちをどうしたらいいのだろう
自室を乱暴に開け、思い余って机を叩いた。そして叫ぶ。憤りを含んだ声で…。
「一体、どこから来るんだ、この罪悪感は…私は何を苦しんでいる!何を、恐れて……」
――恐れるものなどない。我が主のみが全てである筈!
壁に凭れかかって頭を抱え込んだ。心の中で反芻する誓いを、納得させようとした数秒後、巽は自分の影を見て、重々しいものを感じ取った。
――この命も何もかも旦那様のためのものである筈…
全身から力が抜けていく。
「影…?」
―――影よ、知っているのなら教えてくれ…
 

 巽は自室に引き込み今夜ばかりは邑輝と閨を共にすることはなかった。その代わり、邑輝の寝室には思いもよらぬ訪問者が現れた。
「…入っていい?」
 たどたどしく扉の向うから聞える都筑の声…。邑輝は彼に入室を促し、泣き腫れた都筑の瞳を冷たいタオルで冷やしてやった。
「今日は誰も食堂には集まりませんでしたね。独りで食事をするのも寂しいものでした」
「旦那様…」
 都筑は邑輝の胸で泣いた。昼間、受けた傷も癒えずにいる都筑を邑輝は優しく宥めてやるが一向に泣き止まない。
「落ち着いて…今夜はゆっくり休みなさい」
「……っ」
「眠るまで傍についててあげますから、征一郎も酷なことをしたものだ…」
 言い終えるや否や、都筑は邑輝に自分から唇を重ねた。絡み付くようにキスをし、邑輝に抱き着いて離そうとはしなかった。
「…ンッ…旦那様!」
 邑輝は理性を押し潰されかける一歩手前で、都筑を離した。泪を流している彼の頬を指で撫で、これ以上はいけない、と首を振る。
「どうして?」
「いけません…もう、部屋に戻ってお休み…」
「俺を抱いてよ、旦那様!」
「駄目ですよ、貴方は私のものではない。私は貴方の時間まで止めてしまうことはできない」
「…どういうこと?」
 邑輝は、ナイフを取り出し自らの手首を切り裂いた。
「旦那様!」
 だが、傷口は見る見るうちに癒えていく。シュウッという煙を立てて切れた皮膚は再生した。人間ではない、魔性の証…
「ほら、すぐに治癒するでしょう?私の血は時間にずっと逆らっている。躰の中に異界の魔物を飼っているんです。貴方と交われば私は貴方を永遠の時の世界に引きずり込んでしまうだろう」
「……」
「私と征一郎の歳を知っていますか?」
「…俺よりちょっと年上くらいじゃないの…多分」
「いいえ、そうではありません。ちょうど今年で征一郎と暮らし始めてから百三十年経ちますね」
「……嘘」
「私はもう数え切れないくらい生きています。何百年とかいう程度ではない。おそらく数千年は経っているでしょう」
「そんな、まさか」
「私自身、もう数えるのも億劫でね。数えていません。たまたま、百年以上前に面白い奴隷を拾ったのでそれに魔法をかけて生殺しにしてやっているだけだ」
「貴方達は人間じゃないの?」
「私は人間ではありません。ですが、征一郎は奴隷になる前までは普通の人間でしたよ。立派な地位と富を抱えた素晴らしい人物であり徳のある男だった。魔法を解けば、元の人間に戻るでしょう…」
――奴隷ってあの人が?
「どうして巽が奴隷なの?愛してるんじゃないの?だから」
 夜毎、あんな風に抱き合って躰を重ねていたのではなかったのか…
 邑輝はふっと侮蔑の笑みを零しこう吐き捨てた。
「愛しているですって?この私が?」
「だって、旦那様にあんなに真摯に仕えているよ。…俺を犯して、苦しめようとするくらいだもん…」
 それは少し違うな、と邑輝は思った。巽は都筑を愛し始めているのであろうことを邑輝は察知している。
「あれは玩具ですよ。退屈しのぎに生かしてやっているだけです」
「生かしているって、そんな…」
「ただの人間だが、私の世界に引きずり込んで、私の支配する空間にいるから彼はあのまま歳をとらない。元の時間を取り戻せば、瞬く間に彼は死せる屍となるでしょうね。奴隷になる前までは死に掛けの身体でしたし。どちらにしても、永遠の地獄人だ」
「……」
「元は、どこぞの地位のある人物だった男が良い様だ…!心も躰も奪われて、自身の記憶も抹消されて私の奴隷になっているんですよ!これ以上の見世物もなかなかない」
 狂笑に近い嘲いを邑輝は喉から零した。
「そんな、酷い…人の人生をなんだと思ってるの?」
「知った事じゃありませんよ。それより、ここまで聞かされても、貴方はあの奴隷に犯されたと、私に泣きつくんですか?」
 ぐっと都筑は押し黙った。
 数秒後、邑輝は静かに独白する。遥か彼方、昔を夢起こすような白い瞳で…夢の続きの幻を、ほんの少し、都筑に語ってやった。

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