「風が変わったみたい…」
美しく澄み渡るその一声に、邑輝は浅いまどろみから起き上がった。いつの間にか眠っていた自分には、王女からの毛布がかけられていた。しばらく天蓋の淵を見つめていた邑輝はやがて、視線の向こうに零れる小さな衣擦れの音を追う。そして、暗闇の中、窓辺に腰掛ける人に魅入り、目を細めてじっと見つめる。
天上からさしこむ月明かりを浴びる恋人のシルエット…髪留めをつける仕草さえ、今夜ばかりは儚いように見えた。だが、その影は、風に吹かれて小さく揺れるが、凛として佇む麗しい女性をよりいっそう引き立てるだけの描写でしかない。風の精霊を楽器にみたて、音を紡ぎ、操るように彼女は歌を唄っていた。夜中に誰にも気づかれぬよう、小さな声で口ずさんでいるが、それも言い返せば自分しかこんな近くで聞くこともできまいと思うと嬉しさも増してくるものである。
僅かな時間だったが、邑輝はじっと彼女の声を聞いていた。聞き惚れて、同じ瞬間にいられる喜びをかみ締めながら耳をすませた。唄い終わると彼女はこちらに近づいて微笑み、声をかけてくれる。唄い終わったその顔は少し寂し気な印象があったが…。
「嫁ぎ先で覚えた歌よ。同じ感じの風が来たから」
「独特の言葉でしたね。どんな歌詞だったのかよく判らなかったが、美しい旋律でした」
「豊作と命の有難さを喜ぶ唄。私も、数年しかあそこにはいられなかったから、詳しい解釈には自信がないけど、一ヶ所だけ好きな所があるの」
「どんな…?」
「風が吹いて、種をまき、大地に緑が生まれる。風が吹くと、素晴らしい喜びが実るだろうというところ。…私は貴方に出会った夜にそれを感じたのでね」
「あんな時間に、夜の散歩をしている人がいるとは思いもしませんでしたよ」
嬉しさを懐かしみながら二人は笑顔を零した。美貌の男女、神話の世界にでも歩みこんだような華麗な空間がそこにはある。
邑輝が偶然、下界に降り立った日は強い風の夜だった。天候も思わしくないので誰もいないだろうと思いたった彼は、とある宮殿で見つけた珍しい菫の花の採取に赴いた。しかし、目的の場所へ行く前に、彼は幻想的な美貌の王女に出会う。薄紅色のショールを木の枝に絡ませていた彼女の手助けをした時から彼らの全ては始まった。
風が強くなったので、窓を閉めに立った邑輝は、王女がすっと、陰りを帯びた表情になったことを後ろで感じた。出会った頃に見た表情に近しい顔色に、彼は胸の痛む思いがしたのだ。それを感知したのか、王女は俯きこう言った。
「本当は、あの時…死にたくなるほど辛かったから、部屋を抜け出して泣いていたの」
そう語った彼女の瞳は憂いを秘めていた。実際、当時の彼女の心境は悲しみに溢れ、生命力の欠乏した状態であったのだから。涙を拭くものを突風に流された事を知った邑輝は、自らの手でそれを拭ってそっと肩をかしてやったものである。惹きあう心の深さがその時から始まったのも、その優しさを受け入れた王女の儚さゆえか…。
数週間前に、初めて見た彼女の姿は哀しみに荒れていた。暗く沈んだ表情に、生きる意欲を失っていることが見て取れるほどだった。先に始まった戦により嫁いだ城が陥落し、夫を失い、着の身着のままで逃げてきた経験がそれを物語ったのだ。
彼女の夫は戦死した後、国王軍の最初の要塞としての機能を果たしていたその城は陥落した。幸運にも彼女は逃げ延びてその地を抜け出すことができたが、生き残った唯一の家族たる義妹や、数人の護衛と共に、何の後ろ盾もない状態でようやく、故郷の父王の城へ辿り着いたのだ。道中、長旅に義妹は足を悪くし、護衛の兵士は数人が彼女らのために命を落とした。国のため、父王の政略のため全てに従い、深窓の姫君として奥ゆかしく育てられた彼女にとっては大変なことであったろうことも容易に想像できた。しばらくして心身までをも煩った義妹の看病やその子供達の世話を王女は自ら励み、気丈に振る舞って忙しい日々を送っていたが、人気の無いところでは将来の行く末に不安を隠し切れずに心細く孤独に疲れ泣いていたという。そんな時に、邑輝という自分を支え癒してくれる存在に出会った。未亡人となっても幾人かの騎士から求婚されてはいたが、どんな言葉にも反応しなかった女性は色目を使わぬ真摯な邑輝の態度に喜びを知ったものである。辛いときはそっと肩を貸し、優しく抱擁して涙を拭いてくれるその姿に何度救われたか彼女は感謝の気持ちで一杯である。
「近く、また戦争が始まります。私達はどうなるのでしょう。以前のように、戦いのない日々を過ごせたらいいのに」
「私がここでお守りします。いざとなったら違う地へ渡りましょう」
「敵軍の指揮官は、この間私の夫を殺した時、何を思ったかしら」
「愚かしいことですよ、戦も、それをする人間も…」
「私は、自分が何の役にもたてない存在であることを思ったわ。一生懸命、降嫁した所を支えているつもりだったけれど、護られてばかり…仕えていた子供までもが私の盾になって死んでいった。私の父達が引き起こした戦争だと判っているけど、それがどういう結果を引き起こすのか、何も知らずに、考えずに生きていた。知らないことで人も沢山傷つけた…もう無知で、無力だけでいたくない」
胸に顔を埋めて、泣き崩れるその人を邑輝は強く抱き寄せた。
しばらくしてから落ち着きを取り戻した彼女は、考え沈む邑輝を前に、長い沈黙の後に細い手首を白い男の頬に重ねた。この世界に対して、決して魔力を使うなという王女の望みを邑輝は知っていた。人間に等しく与えられていない能力で片付けてはならない問題だということを王女は主張し、愚かな戦争を終えて人間の反省を信じることに祈りを捧げている健気な彼女の心を汲み取ることにした。
「ありがとう、大丈夫よ。何があっても希望は捨てずにいましょう」
「戦いが終われば明るい夢を見ることができますね…今の夢のような時間をずっと」
「何年もかけて、人間が反省から学ぶことは素晴らしい事…きっと大丈夫」
現実逃避に聞こえるこの言葉とわかっていても、本当に彼らは祈りを捧げていた。そして今、夜明けまで見れる一足早いこの夢が覚めなければいい、と邑輝は強く願った。
互いに手を取り合い、唇を重ねた。そんな幸福な時間も、風のように過ぎていく。
――今はこのまま
だが、そう願った二人の思いも数週間後、虚しく散った。
「武運を祈っていますよ。征一郎、命を大切に…」
「はい」
そのまま気分が優れないと言って、自分を生んだ母親は数人の侍女に従われて部屋へ戻った。鎮静効果のある植物の苗を持参した巽は、遠慮がちにもそれを後に渡すように最後に言付け、メッセージカードを書いて、少し早めに軍儀へ戻ることとなった。しかし、彼は時間の余裕にも関わらずいつも以上の早足で歩いて、副官達を驚かせた。そんな空気もいざ知らず、廊下を歩きながら巽は暗く考え込み、終始、寡黙になっていた。
――命を大切に、か…
母親のその言葉は、まるで自分を糾弾しているようだった。いつもあの人は憂いの目をして自分を薄く見る。そして決して、息子の瞳を見ようとはしない。
つい先日の、敵陣からの刺客により、自身の身代わりになって死亡した従者の報告を聞いた時も、母が異様な顔をしていたことを巽は思い出した。どこか、恐れを自分に抱くような顔をしていた。生前の父親に、幼少の頃から長く仕えた老人であったがために、他の者よりも多く哀しみを感じただけかとは思ったが、犠牲となる者達のあまりの多さに気が持たないような印象を覚えた。ここは戦場に近い地でもあるから余計に血の気の多い話が多いのも仕方のないことであったが。
――私には荷が重過ぎるのかもしれない
無念にも、ほんの二ヶ月前、暗殺された父に代わって悲願の継承者となった自分…。高位の官職についていた父親の財産を背景に唯一の息子として不自由なく育てられたが、自分の存在を考える時間も選択もなかった。縛られて、父の成し得なかった野望を引き継がざるを得ない身であった。母親には自分の父に逆らう意志も存在しなかったが、今まで親しく会話をしていた自分の息子がその座を引き継ぐことに何かしらの抵抗を覚えたらしい。 しかし、大事の前ではそれも口にだすこともせずに、そっと一線を置くようになった気配がある。また、通りかかった占い師に、偶然にも呪われし男と言われてしまった巽はこの内乱の勃発から気が重かった。
『薄汚い、呪われしえせ王よ、鬼に喰われて滅びるがいい』
と、初戦の前に興味本位で占者に罵られたが、どうも暗示にかかったような気がしてならない。
窓から、澄み渡った青い空を見上げた。この世のものとは思えぬほど美しい青…つい先刻、会ったばかりの母親の青い衣装が嫌でも脳裏をよぎる。自分の瞳の色を見ているようで堪らなかった。
命を大事にすることは判っているが、戦争をしているのだ。勝利を勝ち取ることは敵と見なす対象を葬り去ることであって、決して全ての命を大事にすることには繋がらない。ましてや自分は、亡き父の姿を思い出す都度、部下に嘱望される期待から重圧を感じる時がある。
重なる戦況に胸を病んでしまった母を労い、足繁く見舞いに通ってはいるが、巽はあまり有難がられる存在にはなっていないことを十分承知していた。
――おそらく、自分の息子がますます怪物になっていくのを見るに耐えない心境であろうな
思考に亀裂を感じた後、巽は気をなんとか取り直し、最終局面への軍儀の席についた。