――ねえ、覚えていて…
私の唄を
私の風を
貴方に吹く風も、土の匂いも全てをね
優しくて、懐かしい時を、いつか必ず運んでくれるから
玉座にかけつけた王女は、王広間に王たる男独りのみが存在するのを知った。彼女は振り返った時、従者に、「国王のお傍へお早く、お早く!」と苦渋の顔で促された。
「ねえ、どうしてお父様しかいらっしゃらないの…?」
「……申し訳、ございません」
王妃の情夫が深々と頭を低くして王女のドレスの裾に額をつけ、泣き崩れた。見覚えのある男、王妃の情人のひとりだと噂されていたなかでも、最も王妃に忠実だった男である。
「…貴方は……」
「私は、王妃様のご命令に…従うことしかできませんでした。申し訳…ございません」
「――……!」
義母はもういないのだ。この城から王妃は夫たる国王を放置し、既に脱出していたのだ。そして、高貴さを持ち、時間稼ぎに欺ける王妃の身代わりに、うってつけの存在をここへこさせるのを情夫は実行したのだろう。
――運命、これが私の……
「そう、王妃様の命令なのね…」
「申し訳、……っ…」
情夫が悲壮な声をあげて、何度も何度も嗚咽を漏らした。王女は、情夫に悲しげな微笑を与え、あなたのせいではないと告げてから、震えの止まらない両手を胸にあて、泣くのを堪えながら父のもとへ歩み寄った。
――ううん、最後に素敵な夢に旅立てたわ、とても熱くてとても幸せな人と過ごせたの。今でも残る、唇のあの優しさもなにもかも
胸の鼓動、激しい動揺を抱えながらも王女は父親の下へ行き、手をとった。幼い頃からの、親子の挨拶の手合わせがひとつ…
それも最後の挨拶だった。
「お父様、お義母様は?…王妃様はいらっしゃらないのかしら」
「王妃や、王妃や…」
「…お父様?」
「――おかえり、おかえり…」
ぶつぶつと玉座に腰を深く掛け、国王は手合わせを解いて指で爪をはじいていた。凋落寸前の城主たる王は、かつては、最も愛でた末の姫の声も届いていないようだった。精神に亀裂をきたし、この世界の一切から羽ばたいてしまったのだ。ぱたぱたと、重ねた手から腕に涙が落ちた。小さな震える婦人の涙が煌いて……
「――そう、王妃様…お義母様はいないよね」
「おかえり、おかえり…王妃や、王妃や」
――…ええ、ただいま…お父様
“バタンッ!”
そのときだった。
「ここだっ!ここにいたぞ!」
勢いよく、最後の扉が突破された。軍勢による血まみれの兵士達が、玉座めがけて突き進む敵軍を阻止しようとしていた。守勢へと、剣を振りかざして、情夫と数人の従者達もせめてもの戦いに挑む。だが、あっけなく皆が傷ついていく。王族二人を、もはや守ることなど不可能だった。
「いたぞ!国王と王妃だ!」
「殺せ、首を持ち帰れ!」
ほんの数秒であった。国王は槍で胸をひとつきで殺害されてしまった。
「お父様!」
悲鳴をあげた王女にむかって、兵士はにやりと笑みを浮かべていた。
「見つけたぞ、王妃を見つけたぞ!」
――あ……
「…う、違う…本当、は…その人は違うんだ!」
傷だらけで、虫の息だった情夫が、彼女へ近づく敵軍に向かって…たまりかねた最期の声をあげて死んでいった。王女は彼に突き刺さる剣を見て、愛しい男へ風を願って、祈りに身を包んだ。
闇夜に馬車を走らせ、王女の言われた通りに義妹達を送り届け、急いで元居た城へ戻ろうとしたとき、邑輝は大きな突風を感じた。
「風……?」
頬を擦り走る嵐の砂粒…
荒く、吹き荒れるような風が身体にあたる。運命を引き裂くような強い風
――風が変わった…
「まさか…」
彼は異変に気がついた。どうか、無事でいて欲しい。そんな気持ちで一杯だった。
時、既に遅し……
「なんと、人柱とは…。あの王妃も義理とはいえ、末の娘をたてるとは…」
「意気揚揚として発見した兵士は、始末を終えたと言い張ってはいた。だが、違うではないか!」
「……娘のこの首、どうしてくれようか」
無造作に、将校は王女の首を髪から掴んで持ち上げた。邑輝が愛したあの血が、身体が散らばっている。
「王の首は確実だ。だが、王妃のこの首は間違いだった。王妃ではなく末の王女のもの、我らが新王になんと報告しようか」
「……もうそろそろ、お気づきでいらっしゃるかな」
「…そうだな」
顎に指をあてて、巽の一番の側近は首をかしげた。巽のもとへ先に出立しようとしていた参謀も、同じことを考えていたところだった。
実はこの攻勢、指揮官たる巽に告げず、闇夜の内に密かに実行されたものだったのだ。正々堂々と戦うつもりでいた巽は、軍儀で暗殺計画が密かに実行されていようとは知らされていなかった。一番の側近、副官や参謀が立てたものとは彼は思いもしなかっただろう。
「まあ、よい。ここはもう終わりだ。我々の勝利と新王への捧げものに、その王の首だけで十分だ。ふたつそろわぬのが残念なことだがな」
十名ほどの高官達は、首を傾げてその場で舌打ちし、帰途に着いた。
凱旋報告へ、全てを終えたのだと…
後、巽は未明に、先日、降伏した敵軍が自軍の勝手な突入により壊滅したとの報を受ける。これによって彼は築き上げた高潔で勇敢な覇王としての今までの資質と後日の会談の相手を失ったこととなる。
「何たる失態か!酒の勢いだなどと言い訳は聞かぬ」
「申し訳ございませぬ」
知らせを聞いてから部下の不始末についての怒りと裏腹に、淡々と語る参謀に巽は怒鳴りつけた。
「昨日まで敵であった陣営に対して…明日は我が身といえど、誰が向うの王の首を討ち取れと言った!…あまつさえ、城に残る女子供を皆殺しだなどとは…」
「恐れながら、陛下は事を穏便にすませようとしすぎであろう、と…そう囁く臣下の多いことこの上ありませぬ」
「お前の説教など聞きたくもない」
「武人として才を極める上は、たとえ敵がいかなる血筋を持つ“東の”皇族といえど…まこと正統な、この世界にふさわしき“国王陛下”にたてついた身のほどを知らせずして、我が軍勢に収まりが付きませぬ」
「昨日までは“敵”であったが、既に降伏した相手を、現在もなお敵とは見なしてはおらぬ!無意味な攻撃など必要なかった。これは非業に満ちた殺戮だ」
「長期戦と見なされていたこの戦…陛下のお見事な手腕で悉く片付きましたこと、我々は、貴方様の父君を受け継ぐ才能に驚くばかりでございました。しかし、亡き父君の仇を討たねばならぬと息巻いている臣どもの始末にまでは手が回りませんでした。単独の彼らの行動を、どうかお好きに罰してくだされませ。おさまらぬ怒りなら、私が全ての責任を」
そこで巽は言葉を遮った。
「私を父と比べるな。それに、仇など討つ必要が一体どこに……」
「いいえ、これは陛下には申し上げておりませんが……」
既に己は“国王陛下”と呼ばれている。恐縮しながらも巽は知らぬ事実を聞いていたが……
「陛下のお父君を暗殺した犯人の遺体にあった紋章は敵の布の一部でありました。そして、毒を染み込ませた器が、いくつか城の地下室から発見されまして……亡き父君がお休みになられる際に、ご愛飲なさっていた杯を知っている者など知れています。知れた杯とすりかえた者は、銘までも同じものを用意していたのです。その銘を作る職人を持つ直轄領もどこであるかも判明しておりまして……敵軍の王妃のさしがねかと」
「それが最後に落とした国であり、最後の敵か…皆殺しの理由か?」
「何者かが侵入した形跡もありましたので…」
顎を突き出し、巽はいけしゃあしゃあと意見する臣下に冷酷に応えた。だが、最も信頼をよせている忠臣はそれを跳ね除けるかのように建前の意見を剥いだ。こう述べたのだ。
「甘い、と…糾弾し、将来、陛下のその隙を狙う者を最小限抑えるための手段であったと…いわば見せしめですな…ことに大勝利を収めた丘陵における戦闘で、降伏した敵の首謀者の処刑を陛下はお見逃しになられたことにも起因されるかと危惧しまして……」
老人の目には鋭い光が…。
「お前が命じたか…?」
「隠し立てはできませぬな。左様でございます。貴方様を立派な王におさせもうしあげるのが我が一族と陛下のお父上とのお約束…」
せまりくる不快感に巽は舌打ちし、重い息を吐き捨てた。何もかもを諦めた重みのある声…
「これで私の地位も血塗られたものとなったな…」
「…いずれは誰かが踏み入ったやもしれぬ行為。全ては闇に…」
そう言い放つ老いた忠臣の喉に、巽は酒杯を投げつけ遮った。
「母上に、詫びに行く…私のこの処遇を…告解に…」
――この方もまた、違う枠ではその虜囚というわけか。まだまだお若くていらっしゃる……
幼い頃からの新王をよく知る老忠臣は内心、そう思った。主への不敬を思い返し己の思いをすぐに消したが…
両手で瞼を押さえ、息を殺して沈黙し、窓に佇んでいた巽は鉛のように重い足をようやく動かした。
「夜明けまではまだ長うございます。お時間を有意義にお過ごしなさいませ。朝には勝利の式典を、そして祝杯が陛下を歓迎してくださいます。重い情などお忘れになられるほど派手に、豪華にご用意いたします」
その老人の言葉に、巽は覇王としての覚悟を決めろと言われているように思った。
深く頭を下げ、礼をする臣下を一瞥した後、巽は部屋を出て行った。肩越しに囁いた忠臣の言葉に巽は心の糧を失ったのだろうか。戦いの中で自身の足場はなんと非情で孤立していたものであるのかということを改めて思い知る。篭城させ、無血で降伏を…とそれだけを念頭に入れた作戦であっただけに終わり方は見事に無様だっだ。敵陣に多くの女性、幼い姫君や王子がいたであろうことは知っていた。戦闘中に、敵が統率のない寄せ集めの塊であることを見抜いた彼はできるだけ最大限に無駄な戦いを避けようと篭城にまで追い込んだのだ。降伏すれば直ぐに彼は寛大に計らうとの通達までをも自ら送った。二つも王家を必要とはしなかったが、属領とさせ、できる限り譲歩をもってして、和平に心血を注ぐつもりで相手側との会談の準備を考えていたのである。
その意図に黙って同意し、これまで支え続けた忠臣の最後の行為には彼の自尊心を裏切ってくれるに十分であった。夜明け前のたった数時間の、一方的で残酷な襲撃により、巽の人間らしさを保つ糸も呆気なく千切れ去ったのだ。
信じるものは己しかない。自分以外を信じてはならぬ……
――母は、許しはしないだろう…きっと会おうともしてくださらぬな
後ろからついてくる数人の護衛は巽の憤りに恐縮しながら距離を保ち、歩いていた。しかし、ぴたりと彼らの王が立ち止まったので、その距離は無くなった。
巽は回廊に立つ自身の影から目を移した。蒼い瞳の焦点が揺れる。
遠い向かいに、何かがいる。
――銀色の、炎…?違う、人が……
憎悪と威圧感を覚えさせるように奮起したオーラに巽は怯む。
「あれは何か?」
「陛下…」
「見えてないのか。あの者は一体何か?何故、あのような塔の先端に立っておるのだ?」
皆が視線をそこへ集めた次の瞬間、轟音と共に巽の周囲は燃え上がった。稲妻のように煌き、瞬きもできぬ高速で邑輝は巽の上に圧し掛かったのだ。圧された後、巽は鬼のように怒りに浸透した男の顔の唇から噛み千切ったような傷痕を見つけたが、それも一瞬のこと、それは哀しみから噛み切った心の表れだなどとは知る余裕などない…。
『―――今なら、鬼になれる』
白い躰の中にけたたましい憎悪が湧き上がる。
「貴様…!」
「貴方を…許しはしませんよ」
白の男から読み取れるものは静寂な唇だった。しかし、穏やかに語る口調から信じられない光景が周囲で起こった。付き従っていた護衛の者全てが白い男の指先だけの行為で次々と焼死していくのだ。やがて、自分の胸の上に圧し掛かり、冷えきった片手で首を締めている銀髪の男は口の端を吊り上げ、こう言い放った。薄く凍った唇を耳元に近づけ、狂気した瞳をして…
恐ろしい、鬼の声…
「人間は旅をすると言います。生きることを旅に例えているらしい。帰る所があるから旅に行けるのだ、とかの人は言っていました…。でも、貴方にそんな場所は許されない」
「誰ぞ、賊の侵入だ。衛兵を!」
「貴方の旅を、消してあげます。醜く、愚かに誓ってごらん…私の僕になって汚く生きるがいい!」
――貴様を許さない
瞳孔が激しく収縮する。どんな光も届かない、深い闇に降り立つ白い魔物がただひとつ。
『お願い』
――凍てついた憎悪、腐りきった感情が今の私を動かせる
スキップしてくる大切な情景に、ひとつの声も届かなかった。
『――決して振り向かずに歩いて行って』
邑輝は、暴れる巽の頭を浮かして幾度か床に打ち付け、彼の抵抗を凄まじい力で封じた。銀の瞳が復讐に濡れていく。
『愛しているの、だからやめて。…誰か、とめて』
「痴れ者がっ……離せ!」
「己が部下の不始末は、己でつけるとよい。私が導いてやろう、お前の旅を、踏み付けにして砕いてやる!」
――全てを絶望の底に…
瞬間、耳に酷い亀裂音が響き、気の遠くなるような熱が来た。骨を粉砕する苦い濁音……
「グァ……ッ!」
巽は剣の底で左腕を砕かれた。そして、更に床に勢いよく跳ねた剣を優雅に翻した邑輝は、大きくふるい上げた刃先で巽の胸を刺した。その勢いは、巽の体を貫き大理石の床にまで食い込む音を作り上げた程である。白い男に染まる血の赤……平常心を失った邑輝は血を啜り、舌を巻いて手に溢れるそれを舐めていた。刺された瞬間、巽は自分からこれほど血が流れ出たことを意外に感じたが、人間の証を不毛にも喜んでもいた。
――なんだ、血が流れるではないか。こんな姿、母上が見たらなんと思うだろう……
悲しむだろうか。それとも共に逝ってくださるだろうか。
不本意にも鬼に成り下がった自分を鬼が殺しにきたことを、自業自得と思われるだろうか
――許して欲しかった……一目、私を見てほしかった。親子としての言葉のひとつも欲しかったのかもしれない……
「お前が散らした花を私に返せ……命を返せ!」
欠けていく命の音の静けさに、巽は死を予感する。意識が切れるまで、濡れた胸倉をつかんで、掠れた声を発した鬼の顔から零れた涙が額に落ちるのを感じた。最後まで、巽は『ここは危ない。……お逃げください、母上』と呼応するように呟いていた。
『――もういいのよ
…だから、だから…誰か、とめて』
王の窮地に駆けつけた全ての人間は、見境無く、邑輝の魔力により、無慈悲な炎に巻かれて一瞬のうちに焼けていく。炎の中、果敢にも飛び交ってきた親衛隊達も赤子の手を捻るかの如く殺されてしまった。そして、そこから数メートルも離れてはいない廊下の角で、一人の女性が居た。彼女は、再三に渡ってこの場から離れるように男達から叫ばれていた。その巽の母親らしき人物は惨事の渦中にいる我が子を思っていたのだろうか。彼女も既に、城を飲み込むような熱風で火傷を負っているにもかかわらず、花瓶の水を被りながら一心に、近寄ろうとしていたのであろう。鬼と息子の近くへ近寄ろうとして力尽きていたのを確認できるものは最早どこにも存在しなかったが
白い光と共に邑輝が最後の炎を巻き上げたとき、我を忘れるほど燃え尽きたのに半日以上かかったという。
あたりに静けさが戻っても、邑輝は微塵も動けずにいた。やがて、意識の範囲を超えた予想外の所まで大地が燃え尽きたことを知った彼は一心に、東の国へ戻っていた。何年分もの能力を消費していたために、浮遊することもできず数日にまたがって自力で這い戻った。片手では皮膚が爛れて自身と共に付着した巽がしっかりと捕まれていた。復讐という呪いをかけた邑輝が意識を暴走させる時、仮死状態の空間に引きずり込まれた巽がかろうじて残っているばかりである。
――片目が焼けたか
自身の能力の暴走から、己をも滅ぼそうとしたが銀の瞳がひとつ欠けただけだったのを悔いた。
辺りを見回したが、この地には草ひとつとして生命は存在しなくなっていた。無論、何の風も吹いてはいない。
血に染まった荷物となった巽の体を邑輝は引きずって歩いて行った。歩き終わった目的地には、灰や塵しか見当たらなかった。夢を暖めた空間の焼け跡だけが彼の心を暗く閉ざした。
後に、誓約ひとつも護れなかった自身に怯えた魔王は、逃げ場を失い夢に留まる。長きに渡り、悪い夢に酔いしれて、懐かしいあの日々を想い続けた。何度も逃げ暮らしては同じ城跡に後退を繰り返して、元の鞘に戻りこんだこともあった。
しかし、無限のループに身を投げている自身を思い返し、再び次の居住地を考えようとしたある日、彼は“癒えない心”に触れてくれるものを偶然にも見つけた。そして躊躇いながら引き金を引き、最後のシグナルを送った。
あの日以来、初めて自分が人間に向けて送ったものは救いへの焦がれだった。
その夢心地は柔らかくて、そして、とても優しかった。
白い羽に、黒い羽は優しい心をくれたのだ。
優しい夢の続きに揺られて……
「……旦那様」
――伝わってきたのは昔の記憶
自然と涙を零した都筑は邑輝の躰から伝う記憶の波を感じ取った。どれほど彼が人を愛していたか、いかに破れた夢に苦しんだかが痛いほどに伝わってきた。
俯き、沈黙をベッドに鎮めるように不動の邑輝をしばらく見てから、都筑は彼の額にキスをした。
――過ぎた時間は取り戻せないけど、これからの時間を幸福に生きるチャンスはあると思う……俺じゃ役に立てないかな
「麻斗……」
「ねえ、きっと…王女様が振り返らないでいてほしいって言ったのは、旦那様の未来を縛るための存在であってはならないと願っていたからんじゃないかな……旦那様のことを想っていたし、枷になってはいけないと想っていたのかもしれない」
――お互いに、優しすぎて
都筑の寝間着の刺繍を見て、邑輝はうっすらと声を零した。
「昔、この花を好んで飾る人がいたんですよ。花冠の似合う、美しい人だった」
―――あの花を散らしたことを許せなかった、だから私は…
「薄紅色のドレスの似合う、美しい花の人…許せなくて、憎くてたまらなかった……」
トンと邑輝の肩に、都筑は涙を流しながらもたれかかった。
「こんな作り話に…貴方は、泣いてくれるんですね」
「ううん、ううん…っ……」
「麻斗」
「俺、旦那様の……に…たい」
――傍にいて包んであげたいよ
夜も遅いことを理由に、邑輝はそっと都筑を離してから、彼の涙を拭ってすぐに寝台に深く躰を預けた。ベッドの脇に座ったままの都筑は邑輝の見せた幻になかなか涙が収まらず、袖でも拭い足りないほどであった。なぞった痕を見て、邑輝は同じシーンを思い出した。長い睫を上から、こんな風に見れた事が以前にもあったのだ。強い風に囲まれて、同じようにあの日も心にかけた人は涙を流していた。無言で佇む都筑の額に両手をかざし、邑輝は碧の黒髪をなぞった。揺れる紫の瞳は幾度か瞬きをする。
「少し前に、貴方にしたことと同じ事を、征一郎に試したんです。自暴自棄になって、あてつけのように、悪夢を見せてやった。辛かったあの記憶を見せてやった。…罪の意識で苛み、苦しめてやりたかったし、発狂すれば今度こそとどめをさしてやれると思っていた」
「巽に…?」
「…悪人のくせに、私が作りあげた人形とはいえ…何も知らずに時を紡ぐ彼を見ていたら、いい加減、もう自分がおかしくなりそうだったから」
「…………」
ぐっと邑輝は声を荒げた。
「だが…!あれは自分の母親へのことを告白するんですよ。いつまでも苦しめていてすまなかったと、自分の存在で心に苦しさを与えてしまった罪を許して欲しいと何度も懺悔する。……生まれてきてすまなかったとさえも……今も、息をひきとらずに、のうのうと生きている自分を許せと、彼は狂気の中で、幻覚の中の母親に向かって叫んでいる。生きる亡霊が、死んだ亡霊の幻覚に地獄の涙を零していく……。私から見れば、憎しみの対象であるのに、なぜ人のために泣いているのかと思った。……悪意に満ちている存在だったはずなのにと、虚しくなるほどに……あの男の中には殺戮以上に恐れるものがあったんだ。彼を打ちのめした彼の環境……こんな男にあの人が殺されたのかと思うと情けなくなる」
邑輝の声にうっすらと嗚咽が篭る。都筑は黙ってそれに耳をすました。言葉のひとつひとつが重く、激しい悲鳴をあげていたのだ。だが、邑輝は乾いた声で、沈痛な心の叫びを、今まで誰にも漏らさなかったことを零してきた。沈黙の中、都筑は痛々しい瞳でそれを見据えていた。
これは、悪魔の声じゃない。残酷な魔王の叫びじゃない。心を持った、人を愛せる男の声だ。
都筑は、陰りのひとつも見せない巽の姿をここにきて一番先に感心していた。料理も掃除も、そつなくこなし、夕食後の寛ぎの時間、邑輝に寄り添う彼の仕草の自然な調和に魅了されてもいた。主ただ一人のために彼は存在している…そのことが、そのままそこに溶け込むようにあったのだ。
疎まれても尚、失った母親に尽くしきれなかった分までをも、巽は無意識に表していだ。あの瞳の奥には、記憶の底に封印された償いへの意識が邑輝を逆に苦しめたのである。
「それだけではない。過去を懺悔し、縛られている征一郎の姿が、振り返らずに生きていけという約束を果たせないでいる自分に重なった……よりいっそう惨めになったのは私のほうだ……」
「旦那様……」
――苦しさを抱えてそれでも生きていかなければならない複雑な、心の豊かさ故
「私は……安らぎのない世界に生きるのが嫌で、苦しくて何かに縋りたかった。夢の中に酔いしれることで、寂しさを紛らわしていた。時間の針を進めようとして生きるのが怖くて、復讐にひた走った……」
ランプに手をかけて明かりを薄めた邑輝は、ゆっくりと瞼を閉じた。
「いや、妙な寝物語を教えてしまって申し訳ない…なに、ただの昔話ですよ」
「……旦那様」
邑輝の白い頬に都筑は指で温もりを伝え、美しい紫の瞳を揺らめかせながら再度、接吻を落とした。そして輝き、揺れ落ちる銀髪に指を通してしばらく離れなかった。そのまま、考えた風であった都筑は何かを言おうとしたが、喉元までくる言葉を堪えて立ち上がった。
「…俺、もう、寝ます」
「ええ、おやすみなさい」
灯火が完全に消える直前、彼はすっと踵を返した。
「…ひとつだけ、言ってもいい?」
邑輝は見送ろうと肩肘を突いて、都筑の瞳を見詰めた。
「寂しさだけで生きていけなかった気持ちが俺はすごくわかったよ…」
「何故、そんな事を?」
「俺は家族と死に別れてたった数年でも辛いのに、百年以上も独りで悲しんでいるのはもっと辛いと思う。…この先何年も苦しみが続くなんて二人とも可哀想。……それから、ここはいつも良い風が吹くよ。旦那様のお城は優しい風で守られてる。その人が唄ってくれた風のように澄んでいて、とても綺麗」
お願いしたいことが在るので早朝この部屋にきます、と言ってパタンと都筑は扉を閉めた。振り返ることも無く、そのまま静かに…
早足で都筑は出て行ったので、言い返す術を無くしたまま邑輝は目を閉じた。都筑に言い損なったひとつの望みを……
――旦那様、何で俺を撃ったの…
ふっと浮かんだ以前からのこの問いかけを、都筑も聞き損なったことを思い出し、ベッドに横渡った。目を閉じると思い出すあの時の銀の眼差し…。銃口を向けた時の邑輝の瞳が、物欲しげに色めいていたのを都筑は感じていた。行くな、と言っているようなあの哀しい瞳がその夜の都筑に夢を見させた。
この日、共同生活も終わりを告げる。
巽は、主を片時でも忘れ都筑を思い、都筑を捻じ伏せ強姦したことを酷く悔いていた。朝から彼は都筑の前に姿を現わそうとはしなかった。むしろ、都筑が近づくに連れては、城の中を逃げ去るようにしていたのだ。初めて犯した自身の罪…その罪悪感に彼の心は苛まれている。
「巽、待って!」
廊下の曲がり角で都筑は消え去る人影に向かって叫んだ。影はぴたりとそこに止まった。
「…俺、話が合って」
「……都筑さん、私は穢れています。貴方にあんなことをして、今更合わせる顔がありません。私は旦那様に全てを告白して懺悔をしにいきます。一瞬でもあの方に背いたことに、命を差し出します」
「本当に、旦那様が巽の“王様”なんだね」
都筑の目に悲愴と悲哀が映る。
「…一時でもあの方に背いた罪を私は忘れられません。貴方に対しても同じように」
「止めてよ、おかしいよ、こんなの!」
都筑は進み寄り、巽の手を取った。主に背いて、眠ることもできなかったのだろうか…巽の顔は酷くやつれている。目は疲労に満ちみちて…
――酷い顔…夜中、悩んでたんだ
「ね、落ち着いてよ。俺のことは、もう、気にしなくていいよ。好きなように心を開けていいんだよ」
「いいえ、いいえ……」
「もう何にも縛られないで…ふたりとも」
ブルーの瞳から一滴の雫が零れた。
――泣いている?何故、私が?
「俺にできることならなんでも言ってね。巽はどうしたいの?」
ごくりと唾を飲みこんだ巽は一つこう述べた。心の奥低で、楽園から追放された最初の罪の男を、未だ頭の中で思いながらも…
「許されるなら、貴方を愛したい」
――孤独の中に生きてきたがゆえに強まる、暖かい温もりへの渇望か、いや違う。欲しい…貴方が!
「ですが、私は奴隷なのです。箱の中で飼われる動物です。喜びも幸せも、夢すらみてはいけない身であるはずなのに、飢えも苦しみもないよう旦那様の与える言葉のもとで生きることが許されるのに貴方に縋り、叶わぬ夢を持ってしまったら……」
「いいよ。構わない……顔あげて」
床に跪いて巽は号泣しだす。その姿から昨日、自分を無情にも乱し散らした男である風情など全く感じられない。あまりにも卑屈に伏し、聞いていて虚しくなるような謝罪の言葉に都筑は巽の王であったその身からは信じられないほどの惨めさを感じ取って目を細めてしまった。
彼が犯した罪に、苦しんだのは邑輝や滅ぼされた人だけなのかどうか都筑は改めて疑問を持った。
――この人は、ずっとこうして生きて……いや、生かされていくんだろうか……こうしてみると本当に優しすぎるくらい脆い人なのに
「良かったら、俺を…今だけ、望んで…」
「…麻斗?」
――生きて欲しいと願うのは、やっぱり俺の傲慢……?
「貴方が欲しいと思うこの私を、受け入れて、くれるのなら…どうか……」
にっこりと微笑んで都筑はいいよ、と応える。
夕焼けが窓から差しこむ頃、二人は寝室で暖かい命を確かめ合った。都筑が初めて知った男の躰から迸る愛が激しく流れて来た。
情交が終わった頃、都筑の頭に枕を差し入れ巽は彼を横から抱擁していた。百年以上も、愛と人間の温もりを得られなかった男の泣く姿を都筑は暖かく見守った。泪を流しながら愛を乞う人に、都筑はこう囁いた。それは吟遊詩人であった彼の父親から受け継いだ一つの詩…
「唄ってあげる。死んだ父さんの教えてくれた唄…」
そよぐ風に吹かれながら都筑は巽の耳元でゆっくりと唄を紡いだ。懐かしい郷土の唄、美しい四季の唄、命の篭った人間の響き…巽の心に沸き上がる都筑への熱い思いが感動と共に駆け巡る。ずっと忘れていた記憶の彼方の風景が見えた。
「覚えていてね。俺の故郷に伝わる元気になる唄だよ。辛い時とか、唄ったらとっても効くんだ。少しでもいい、明日も頑張ろうって力が湧いてくるよ。…ちゃんと生きるために自分を信じていけるって」
滅ぼされた国に舞い込んだ風が、植物の種を運ぶ。やがて死んだ大地に芽が現れ、緑が生い茂る豊かな地が生まれた都筑の故郷は、…かつての邑輝の幻の恋人だった人の、今は亡き輿入れ先であった。
それはどこか、哀しみに暮れた王女のもとへ、風のように偶然舞い降りた白い魔物との出会いに似ている。苦しさを癒す天使が舞い降りた。
「無くなった所から新しい命が生まれる喜びを唄ってるんだよ。風が吹いて、心地よさを実感する。そういう時、何があっても生きてるだけで良かったって思えてくる。諦めないで生きててほしいんだ……」
――いつか、許されることを望みながら
それを言い終え、都筑は口越しに呑ませた睡眠薬で巽を眠らせ、起き上がって邑輝を招く仕種をした。巽が目を閉じる直前、都筑は泪を零しながらこう囁いていた。唇を重ね、切な気に…
「もう、大丈夫だよ。巽は自由に生きていてね。俺の分まで、お前がなくした人達の分も幸せになって…その道を受け取る強さを、お前はきっと持ってるよ」
邑輝は都筑に服を羽織らせ巽から離れるように言った。
「貴方はこれで良いんですか?」
「俺、もしかしたら、すごく残酷なことしてるって判ってる。でも、巽は奴隷じゃないんだよ。無くした時間を取り戻して、生きなきゃ駄目だよ。巽の命は巽のものなんだ。償うにはこれまでが十分の時間だったのかどうかわからないけど……目覚めてから旦那様のことを、思い返していく一生を持つ巽のほうが、よっぽど巽らしいと思う」
――いつか、突き放した俺を巽は恨むことになるかもしれない。でも、それでも
「今の私は、初めてあったあの人と同じなのかもしれませんね。闇夜に怯え、生きる意欲を無くして苦しみ、未来を怯えて臆病になってしまった姿と同じだ。……私は、あの人のためならどんなことでも厭わなかった。あの人が言った約束の意味に気づいても、自分から動く力を無くしてしまった」
「…………」
「私は復讐だけで生きれるほど強くない……むしろ、辛かった…残酷なまでに息ができないくらいほど…」
「俺があげるよ、ちゃんと大きく呼吸できるように…」
「振り返らないで歩いていくと約束したが、ただのひとつも守れていない……ささやかな抵抗と称して幾度も住処を変えて、彼に人助けの手伝いをさせてやっただけなこの私に?」
「大丈夫、俺がいるから…」
目頭を抑えて邑輝は都筑の肩に額を乗せた。寄りかかられた都筑はそっと、大きな背中に手を回す。邑輝の白い睫が少し濡れていることに気づいた後、都筑はぎゅっと強く力をこめて支えてやった。
「ほんの少しの勇気を振り絞るのに、随分かかるけど、旦那様は約束を守ろうと思ってることには変わらない……今からだって遅くないよ。きっと王女様もそう言ってくれるよ」
「では、貴方は?」
「傍にいさせてよ。もっとも旦那様が俺を巽の代わりの奴隷に変えるんならそれでかまわないよ。だから、巽だけは助けて欲しい。百三十年も束縛された巽の命をどうか…お願い。元に戻してあげて、そこからはじめよう。ね?」
「…私ははじめから貴方を狙って撃っていたんです。懐かしい人の面影に似ていた。一目で欲しくなった…欲しいものを、今度こそ手離したくはなかったという身勝手な振る舞いで、城の森に迷い込んだ貴方をわざと撃ってここに止まらせた」
「――知ってたよ」
都筑は重い声でぼそりと応えた。
「銃口を向けられた時、逃げようかと思ったけど…旦那様の目が、すごく悲しそうに見えて放っておけない人だなって思えたんだ…俺、そう感じたから。それだけじゃ駄目かな」
邑輝が屈んで、都筑の手を取りそこに接吻を落とした。なんという穏やかな存在がここにあるのだろう……
「尊い人よ、私の異界に来て下さるか」
――いいよ、連れて行って。こんなに哀しい人を俺、放っておけないよ
躊躇いの無い、真っ直ぐな瞳が邑輝の瞳に美しく輝いた。
二度目の恋、もう離さない
百年以上に渡る膿は拭き取られた。
『ここへおいで…一緒に針をすすめよう』
――さあ、この風達にも、伝えないとね……
どうか、安らかにいてくださいって
久方ぶりに開いた巽の両の目は、空気に触れた途端、乾きを感じた。
――眩しい、ここは何処だろう…
瞼にあてがった手、全身の動作が重々しい。苦痛ではなかったが、長い時間から覚醒した乾きと気だるさが消えそうにない。しばらく無言でいた巽…
「……」
周りを見回すと、二人の人物がこちらを覗きこんでいた。
黄色い髪の町医者である亘理と駆け出しの靴職人たる密である。
「ああ、気付いたわ。良かった良かった。息もしとらんかったしな、どうなることかと心配したで」
「先生、…俺、どこかでこの人を見たことがある」
「そうやなあ、そういえばあの王様にも似てるわな…昔、このあたりを治めていた人や。俺らの曾爺さんらが言うてた肖像画の人物や…まあ、いくら似てても百年以上前の話やけどな…」
「確か、王位を賭けて争った両家で、勝ったほうの王様ですよね。一夜で途絶えた謎の王家」
巽の心が白くなった。そして抱え込む頭の中に忘れた全てが蘇る。
「私、あの男と…ずっと……城で、苦しくて…死ぬことも許されなくて」
人形にされ、自分は奉仕することを誓わされた。そして、あの時が脳裏に浮かんだ。復讐の対象としてのみ生かされ続けたある日、いつしか従順に動く人形は、精神の均衡を失うまいと無意識にある行動を行っていた。
ろくに衣類も纏わぬまま、夢遊病のようにふらふらと汚された躰をひきずり、美しい風の舞う月夜に限って労働する巽を見て、あの魔物はよく後ろで泣いていたものだ。
『征一郎、何故、そうまでして穴を掘る。私の命令と、薔薇園の世話以外……お前は何もしなくていい。考えなくていい』
『お墓を掘っているんです。旦那様の失ったお心を埋めるには、もっともっと大きな穴を塞がなければなりません』
『もう、いい……』
『旦那様のお心はいつも乾いていらっしゃいます。埋めた後、水と肥料を撒いて、しっかりとした土をお作りします。そうすれば、お墓は』
『よせと言っている!余計なことはするな』
『…私は旦那様を埋めて尽きたところで、今度こそ、きっと…』
『もう、やめてくれ!』
巽はそう言われて、何度も頬を叩かれたものだった。辱められた自分への幾夜もの行為は、邑輝の渇きを受け取ることになったのだ。巽は、記憶は封じられたものの、主人への奉仕としてよくそんなことをしてもいた。
自身にも、邑輝の精神の奥低にある孤独と哀しみを躰を通じて…
天井を見ながら、巽は黒い髪のあの青年を脳裏に浮かべた。
――全て、思い出した…!
炎の中、私の胸を刺した魔王はあの時、何と言ったか?冷徹な復讐に満ちた銀の眼差しで…
『楽には殺してやりません。この世で最も屈辱的なことを味合わせ、それから殺してあげましょう』
――そして、私は周囲に殺害されたかのように見せかけられて…
あの魔王の存在する異界に引き込まれた。その時から、私の時間は百年以上止まってしまったのだ!
あの時、魔王は手を差し伸べ息絶え絶えの自分にこう言った。
『誓いなさい。貴方は王ではない。あなたの王は私だと…さあ、私に従い奴隷となって私を主とあおぐのです』
では、解放された今、何故、自分は生きている?時間を取り戻し、人生の続きを迎えようという今、あのときの、胸を刺されて瀕死の状態であった残り僅かな命の灯火はどこへ行ったのか?
その時、薄れる意識の中、聞いた都筑の涙声が浮かんだ…
『もう、大丈夫だよ。巽は自由に生きていてね。俺の分まで幸せになって…』
唇に残る彼の感触…自らの指でそこを宛がうと泪が零れた。
「私は、結局…あの人に救われたのか…私を生かしてやるということを都筑さんはあの魔物に請うたのだ」
「なあ、あんた、どないしたん?…気分でも悪いんか?」
「いいえ、いいえ…」
泣きながら巽は自分の胸の心臓の音を、聞き入った。
都筑さん、これは貴方がくれた命…僅か数日の出会いと別れで覚えた夢を私はずっと抱えなければならないんですね。貴方に恋焦がれたあの夢に、私は永遠とさ迷うわけだ
彼は私の生命を救ってくれた。だが、魔王はそう簡単に私を生かしはしなかった。この命の代償としてよりいっそうの苦しみを与えた。
――そのほうが私にいいのだろうと判断したのだ
あの人を忘れることができないという記憶を消し去ろうとしなかったのだ…!
銀の魔王は、百三十年という“奴隷”としての屈辱と都筑さんを愛した記憶を封印しないことで私を苦しめ、更なる屈辱を与えたのだ…。それでも魔物が、ぎりぎりまで譲歩した結果でもあるのだろう。
「麻斗…それでも私に生きよと?」
幾筋もの泪が溢れた。
――いっそ死のうか?こんな虚しい世界など要らぬ…
こんな誘いがふと浮かんだ。しかし、それも霧のように消えていく。
だが、貴方がくれた命を私は絶つことなどできやしない。
そう…ならば、私はこの生を全うしよう。生涯、もう逢うことも敵わぬ人を想い続ける苦しみでさ迷いながら…
――だがせめて、夢を見させて欲しい。
「――……」
巽はその時、窓から流れる風を感じた。心地よい陽の匂いと植物の香りを運ぶその感触に彼ははっとする。両膝を抱いてうずくまり、最後に聞いた都筑の唄を胸の中でかみ締めるようにして思い返した。
風が吹いて、種をまき、大地に緑が生まれることを……風が吹くと、素晴らしい喜びが実るその時をずっと感謝しようという歌詞に巽は生きる実感を風から体感した。一瞬、その風の源から都筑の匂いがした。暖かく自分を包む優しい流れ……
窓から見上げると、澄んだ空が見えた。
「空、…影の無い澄んだ天空」
涙も乾き、笑みが浮かんだ。
――いつか、行ってみようか…あの人の見た、あの人の愛した故郷の風を感じるために
百三十年ぶりに、人間としての喜びに対し、巽は希望に向かって微笑んだ。
あれから邑輝は居城を変えた。遠く離れた世界で都筑と二人、砂漠の果てに城を構え、魔物しか存在しえない時のなかにいる。結ばれた二人はこれからも永遠にここで生きていくのだ。都筑は、邑輝と共に行くことに躊躇いはなかった。むしろ背中合わせに敵対しあう巽と邑輝にどうにかして安らぎを与えてやりたいと望んだ。巽ならきっと立ち直れると都筑は判断し、そうすることで巽の命も繋がるのであるならば、と都筑は思い詰めて行動したのだ。たとえそれが巽に非難される行動であり、怨まれても仕方のないことだとしても意を決しての決断だった。
それに、邑輝の脆い、砕け散った瞳を放ってはおけなかった。彼のほうが巽よりも脆く危うい部分を秘めているように見えたのだ。都筑はこの先、邑輝が何百年も空虚の世界を漂うのを思うと胸が痛くなった。その結果、巽よりも迷わず邑輝を選んだ都筑は自らの全てをあげて邑輝を愛し、一生傍にいることを誓った。そして邑輝もまた、都筑に同じ事を誓った。
時々、窓の外から都筑は巽の住まう方角を眺めている。背中では邑輝がぴたりと寄り添い都筑を護るように付き添っている。
――俺の命は巽の命でもあるのかな…そうだとしたら、ごめんね、一緒にいられなくて…巽にはもっと自由に生きて欲しいんだ。稲穂の美しさや大樹の素晴らしさを、美味しい林檎や葡萄を作る楽しみも知ってほしいんだ。俺の育った山の美しさも見て欲しい。
緑の草原、黄色い花畑も…
産まれては消え、消えては産まれたたったひとつのものを大切にしてね…
俺の唄を忘れないで
ずっとここで見護ってるよ
あの風に何がみえるだろう
唄いなさい
夢をみなさい
その風の運んだ種に幸せが詰まっているかもしれないだろう
生き延びて、大気と共に還りなさい
あなたの息吹はここから始まる
いつか、夢の中で会いましょう
――私達は、夢を見る
風の音 優しい夢 空の色
いつまでも、永遠に
夢の続きを