超能力ロボハチ五郎外伝その4(ベガ)
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HAMSTER
TRAP
1 「超高速ロボ、ハム四郎、ここに見参ッ!」 ニヤリと笑って答えた。 即座に雨あられと、9x39mm弾が撃ち込まれる。 それを、ひらりひらりとかわしながら、ハム四郎が叫ぶ。 「はっはっー! 遅いぜ遅いぜ遅いぜ! 眠っちまいそうな遅さだぜ! こんなすっとろい鉄砲玉じゃ、このハム四郎さまから一本殺るのは無理だぜ!」 そう言いながら、弾丸をかわし、手近にいた男にハム四郎が蹴りを見舞う。 音速を超えるハム四郎の蹴りは、それだけで爆発的な破壊力を誇る。 顎を砕かれ吹き飛んだ男は、実験室の壁に激突し、そのままぶっ倒れた。 「俺をだれだと思ってやがる! ハムスターから生まれた高速戦士、 ハム四郎さまたぁ俺のことだぜ!」 ハム四郎の叫びが実験室に木霊した。 2 郊外。 田舎と呼ぶには都会じみていて、都会と呼ぶには田舎じみている。 そんな街。 再開発された駅周辺は無駄に広い車道が走り、ファーストフードが軒を連ね、 新築された駅ビルが街を分断する。 新たに延長された線路。 その線路を走り、疲れた都会の人間たちをどっさり乗せ、電車がやって来る。 駅ビルが彼らの衣食住を賄い、日曜日にはバーゲンセールが行われ、 若い家族連れがいつか見た映画の風景を真似て、小さな幸せを再現する。 地元の人間はほとんど見かけない。 ベッドタウン。 そんな街。 駅前の大通りから一本外れると、途端に赤茶けて寂れた工場が立ち並び、 その合間に木造作りの民家が、ぽつりぽつりと立っている。 さらにもう一本、道を裏手に入れば、緩やかなカーブを描いて坂道が伸びている。 その坂道を下っていくと、急に大通りがぷつりと途切れ、住宅街に入る。 駅前の新興団地とは違う、古びた町並み。 その丁度、境い目の辻。 再開発地域と旧市街の境い目の、その角に、完全に潰れかけた建物が立っていた。 商店のような民家のような建物。 一見、廃屋に見えるが、実は違う。 建物の前には錆びたドラム缶が並び、 なぜか自転車のゴムタイヤがいくつも積み重なって放置されている。 ガムテープで割れた跡を塞いだ曇りガラスの引き戸は、 完全に閉ざされ、塵と錆が積もっている。 ガラス戸の上に打ち付けられた看板には、 「ミシン修理の吉」と書かれているが、その後の文字は、錆びて剥がれて判別できない。 戸の脇にはコンクリを固めて作った箱のようなものがあり、 幾層もの赤茶けた苔に真新しい緑の苔の生えた側面には、 「防火用」と刻まれている。 中には澱んだ水が貯まり、水草らしきものが腐って溶けてたゆたっている。 明らかにミシン修理の店として営業はしていないが、 その建物こそが、ぷにぷにほっぺ団北海道支部・波多野研究所の入口なのだった。 3 「なぜですか所長!? 完成は目前なんですよ!」 ミシン修理の吉野から地下50階へ降りた先。 その所長室で、神原律子は波多野に詰め寄っていた。 「だからと言って認めるわけにはいかない。 君が提出したレポートにも、超光石線の危険性は明記されているじゃないか」 波多野は椅子に座ったまま、律子のレポートを手に答える。 「確かに超光石線には危険性があります! でも、でも、もう少しなんですよ!? 次の実験が成功すれば」 「すれば、じゃ困るんだよ神原君。絶対の確実性がない限り、 認めるわけにはいかない。それが私の判断だ。あれは処分したまえ」 研究所の責任者にそう言われては、さすがの律子も黙らざるを得なかった。 なんと言っても波多野はこの研究所のトップなのだ。 いかに大学院を主席で卒業しようとも、 研究所主任の肩書きがあろうとも、トップの言うことが絶対なのだ。 それを律子は思い知らされた。 今まさに、歴史的な発明がひとりの権力者によって踏みにじられた。 その誕生を握り潰されたのだ。 悔しさに下唇を噛み締めたまま、 律子はさっと振り返ると、声もなく部屋を出て行った。 その姿を黙って見送った波多野は、ほっと息を付く。 超光石線の危険性など知ったことではないが、 これでいくらか時間稼ぎができるだろう。 波多野はサーバー室を内線で呼び出した。 「ああ、私だが、例の不正アクセスの件はどうなっている?」 4 オフィスに戻った律子はデスクに突っ伏し、 「ぬああぁああ〜〜」 叫んで伸びた。 「あんちくしょー、なんて融通の利かない奴なんだ」 恨み言を言う。 主任として抜擢され、研究所に赴任したときは、波多野に感謝したものだった。 正直言って、北海道ぽこぽん大学は三流以下の四流大学だ。 その大学院を主席で卒業したところで、就職先に高望みはできない。 しかも、工学部生物アンドロイド科という胡散臭い専攻では尚更だ。 せいぜい駅ビルで受付でもやるしかないかと考えていたところへ、 好きな研究を好きなだけできる仕事が舞い込んで来たのだ。 飛び付かないわけがない。 以来、研究に没頭してきた。 そしてその成果が、ついに結実しようとしているのだ。 「なのにあんちくしょー」 律子は立ち上がると、書類やファイルがうず高く積まれ、 謎の器具や着古してぼろぼろになった下着類が雑然と放り出された部屋の中を、 苛立たしげに歩き回った。 タイプ3α。 それが律子の研究テーマである。 昨今流行りのロボット工学、 その中でもより人に近づけることを目的としたアンドロイド工学は、 大きく分けて、三つの分野にカテゴリされている。 それが、一型、二型、三型なのだが、特に三型は生体工学に近い研究と分類されていた。 その三型の中でもα型は、生物と機械の融合を目指す新たな生体工学の分野として、 当初は注目を集めていた。 基本的に生体工学というのは、生物の働きを工学的に模倣し、 あるいはそのシステムを利用し、有益な研究に活用するもののことを言う。 例えば蝙蝠の発する超音波を真似たレーダー技術などがよく知られるところだが、 タイプ3αは、生物の持つ長所とアンドロイドの持つ長所を結合し、 新たな人工生体を生み出そうという研究である。 故に、倫理的な批判は大いにあった。 だがそれ以上に大きな問題が、徐々に浮き彫りとなったのである。 それは、タイプ3α研究によって生み出された人工生体が、 「極めて短命である」という問題だった。 長くとも数十秒、短ければ一秒足らずの内に、 組織が拒絶反応を起こし、崩壊を始め、死に至る。 単に生物に人工物を移植するだけなら、これほどの拒絶反応は起こらない。 しかし生体を模して造られた人工物を組み立て、生み出されたアンドロイドたちは、 例外なく、いずれも瞬間的に死を迎えてしまうのだった。 当初は、単にパーツの相性だと考えられていたこの問題は、 だがしかし、いっこうに解決せず、その目処さえ立たなかった。 これはもはや、問題というよりも、大きな謎だと言えた。 そこで律子が目を付けたのが、超光石である。 強大なエネルギーを秘めたこの鉱石は、いまやロボット工学の基礎であり、 重要なエネルギー源として知られていた。 一方で超光石は、強力な放射線を発しており、それを焦点機で絞り込むと、 非常に興味深い効果を持つことが、まだ学院生だったころの律子によって明らかになった。 その効果こそが、タイプ3αアンドロイドの拒絶反応を抑え込む効果だったのである。 その理由、原因はまったく不明だったのものの、 律子は赴任以来、その研究をさらに発展させ、そしてついに、 一体のアンドロイドを完成させる目処が立ったのだ。 それが今、ひとりの権力者によって潰されようとしている。 容認できることではなかった。 布で覆われたゲージが、部屋の隅に鎮座している。 それに近づいた律子は、そっと布を撫でながら呟いた。 「おまえだけは、ぜったい守るからね…」 5 「ぷしゅー、わかったっしゅ。泳がせて監視だけすればいいんしゅね? ……わかってるっしゅ、このことは極秘っしゅ」 長く突き出た前歯の横から、ふしゅふしゅ言いながら内線を切った根津哲夫は、 デスクのモニターに目を戻した。 何重にも開かれたウィンドウに、次々とパラメーターが表示され、記録されていく。 モニター前に陣取った哲夫は、キーボードに指を走らせた。 サーバー室の室長にして、唯一の室員であり、サーバーエンジニアである哲夫にとって、 その日は胸躍るような出来事の連続だった。 第一に、趣味で開発していたハニーポット「The bud of the Ritsuko」、通称「TBot-R」が完成したこと。 第二に、早速起動させた「TBot-R」がクラッカーを探知し、 追跡し始めたことである。 「ぷしゅー! 見つけたでしゅよー!」 興奮した哲夫はお気に入りの安楽椅子をギシギシと揺らしながら、身を乗り出した。 身長187センチ、体重172キロの哲夫は、体格だけ見れば完全に横綱クラスだったが、 突き出た前歯に、まるまるとした童顔は、ある種のげっ歯類な愛嬌がある。 頬袋に餌を詰め込み、冬支度にいそしむげっ歯類だ。 ころころとした指がキーボード上を走り抜け、 上手く身を潜めていたクラッカーの動きを、あっという間に捉えた。 クラッカーは、哲夫の仕掛けたパスワードロックをなんなくクリアーし、 研究所サーバーに侵入した後、あちこちのファイルにアクセスしていた。 波多野研究所のサーバーは大きく分けると三階層になっており、 第一のロックを通過すると、「吉野サーバー」にアクセス可能となる。 そこにあるのは単なる業務上のファイルばかりであり、 メーカーに打ち捨てられた古い足踏み式のミシンを修理することで、 「ミシン修理の吉野」がわりとしっかり生計を立てている、という事実があるばかりである。 故に、クラッカーに侵入されたとしても大した被害ではない。 問題は、吉野サーバーに隠され、 ごく限られた人間にしかアクセスできない第二階層のサーバーへ侵入されたときである。 このサーバーには波多野研究所のあらゆる研究データが蓄積されており、 その概要を容易に知り得ることができる。 さらに、最下層であり、極秘扱いであるT3αサーバーへのポータルもこの第二階層に隠されている。 当然ポータルには、何重にもロックが掛けられ、 不正アクセスを試みた者には逆探知を行うシステムになっていた。 以上が哲夫の作ったハニーポット「TBot-R」の概要で、偽サーバーのシステムだ。 ハニーポットとは、不正アクセスを試みる者の動きを追跡し、 監視し、記録を取り、あるいは逆探知するソフトウェアのことであるが、 その最大の特徴は、クラッカーにとって美味しそうに見える情報が、 あたかもそこに存在するかのように見せ掛け、 引き寄せ、その動きを監視する、という部分にある。 つまり、吉野サーバーは本物だが、 そこから下のサーバーはすべて哲夫の作った偽のサーバーであり、 実はてんでデタラメな、しかしあたかも重要そうに見える、 そう作られた代物なのである。 実際、高度な分析能力があれば、 秘密研究所である波多野研究所の存在を知り得ることはできる。 その意味ではクラッカーにとって、美味しい餌だと言えた。 問題は、今現在、吉野サーバーに侵入したクラッカーが、 明らかに下層サーバーの存在を知っていて、かつ、 その侵入方法を模索する動きをしている、ということである。 これは正規のアクセス権限を持つ者の動きではないし、 たまたま迷い込んだ者の動きでもない。 故に、「TBot-R」が起動し、監視を続けているのだった。 そしていまや、哲夫の興奮は絶頂寸前、クライマックスを迎えつつあった。 「ぷしゅしゅー! なかなかやるっしゅ!」 侵入からわずか数秒。 クラッカーは遂に第二階層サーバーへと侵入を果たし、 所員の個人ファイルを漁り、第三階層への隠しポータルを探し始めていた。 「凄腕っしゅ!」 かつてハッカーとして名を馳せた哲夫も舌を巻く素早さだ。 無論、ロックは緩めに設定されてはいる。 ハニーポットの性質上、侵入してもらわなければ意味がないからだ。 しかし決して手を抜いた緩さではない。 むしろ堅い。 いくつかの脆弱性を持っているが、本来ならば問題になるようなレベルではないのだ。 それを軽々と突破してみせた。 しかも通常のセキュリティではまず発見不可能なほど、偽装が上手い。 ほとんど正規のアクセス者と見分けが付かない。 手練だ。 ひょっとすると個人ではなく、集団的な、あるいは組織立ったクラッカーなのかも知れない。 そうなると多少厄介だが、しかし哲夫も負けていない。 所長には監視だけするよう言われたが、ここまでの相手に黙っていることはできない。 既に哲夫はクラッカーが、上海、マカオ、ポーランド、 さらにイスタンブールのサーバーを経由して侵入を試みているところまで追跡を終えていた。 だがこれはクラッカーの偽装である。 迷い道に誘い込む罠だ。 それを哲夫は看破していた。 しかしそれも「TBot-R」の解析能力を持ってすれば、問題ない。 残り数秒で解析を終了すれば、相手の居場所を割り出すことができる。 少なくとも直接のアクセス元を割り出すことができる。 丁度クラッカーは律子の個人ファイルを探索していたが、 まさに「The bud of the Ritsuko」、すなわち「律子の蕾」は、 甘くて、深くて、そして何よりも危険なのだ。 解析終了まで、残り96%。 97%。 98%。 99…。 そこで唐突にクラッカーの姿がロストした。 ほんのわずかの差、コンマ何秒かの差で、ログアウトされ、逃げられたのだ。 「ぷしゅしゅー!」 身を仰け反らせ、前歯を突き出し、哲夫が盛大に息を吐き出す。 「…ともかく、報告っしゅね。所長は後回しにして、律子しゃんに直接報告っしゅ!」 そう叫ぶと、哲夫は力強く立ち上がった。 所長からこのことは極秘にしろと言われたが、そんなことは関係ない。 なにしろクラッカーは、偽サーバーとは言え、律子の個人ファイルを覗き見していったのだ。 報告しないわけにはいかない。 若干19歳の哲夫は、律子に恋をしているのだった。 6 「律子さ〜ん、律子さ〜〜ん、律子さあぁ〜〜〜ん! …りっちゃあ〜〜ん!」 突然の声に、はっとした律子はオフィスのドアを振り返った。 そこに色白で華奢な少年が、ぶかぶかの白衣を着て立っていた。 「もうさっきから呼んでるのにィ〜」 甘えたようにふてくされて少年が言う。 「ごめんごめん。ちょっと考えごとしてて」 律子はゲージから離れると、少年に詫びた。 「またどうせネズミでしょー、たまにはボクにも構ってくださいよ〜」 垂れた袖を振って少年が言う。 「やあー、はっはっはっ、申し訳ない」 合掌してみせた律子は、唐突に顔を上げた。 「ていうかネズミじゃねえし! つか、さっき『りっちゃん』言うたね、チミ」 「だって全然気づいてくんないんだもん」 「あのねえ、ここじゃそう呼ぶなって何度も言ってるでしょーが」 「だってだって」 「しょうがねえなー」 律子は少年に近づくと、その首に腕を回し、ヘッドロックをかけた。 「うりうり」 「イタイイタイ!」 少年は大袈裟に痛がり、律子に抱きつく。 ちなみに、少年と言っているが、実年齢は28歳である。 だがそう見えない。 せいぜい15、6といった姿だ。 名前を浦地千歳と言い、律子の大学時代からの後輩であり、 現在は助手として働いている。 「りっちゃん、くさいよ! 何日お風呂入ってないの!?」 「なにおー!」 さらに腕の締め付けをきつくしようとした途端、 するりと浦地は律子の胸から逃げ出した。 「くさいりっちゃんなんてきらいだよん!」 「この! また『りっちゃん』言うたな! しかも臭いとな!」 二人はきゃっきゃっ言いながら部屋の中を走り回る。 壁際に追い詰められた浦地を、律子が押し倒す。 「わあ!」 その上に覆いかぶさり、首筋にキスを見舞った。 「んん…」 途端に浦地はおとなしくなる。 「さあどうしてくれようかね、このボウズめ」 底意地悪く言いながら、律子の唇が浦地のきめ細やかな肌を這う。 「律子しゃーーん! 大変でしゅよ律子しゃ!」 開いたままになっていたドアを抜け飛び込んできたのは、根津哲夫だった。 7 「じゃ、じゃあ所長に報告してくるっしゅ……」 気まずい空気の中、報告を終えた哲夫は、 巨大な背中を丸めながら、オフィスを出て行った。 「…でもいったいだれなんだろう?」 浦地が呟く。 哲夫の報告によれば、先ほど侵入したクラッカーの手口、手際、 そして正規アクセス者との類似点から見て、明らかに内部の者、 あるいは内部の者と通じている者の犯行だということだった。 面倒なアクセスルートをわざわざ偽装していたのも、それで説明が付く。 「所長だ…」 「え?」 ぽつりと言った律子に浦地が聞く。 「聞いたでしょ、極秘扱いの上、監視だけの指示だったって。 それにクラッカーの最終的なアクセスポイント」 「うん、りっちゃんの個人ファイルだって…でも」 「ぜったい所長だ、所長が誰か雇ったんだ。 あたしが実験を諦めないのはわかってるから、それで証拠隠滅するつもりなのかも」 「ちょ、ちょっと、それってどういうこと?」 「あいつ、生体一号を処分しろって言ったんだ」 「え?」 「今回は運良く無事だったけど… ひょっとするとあたしの研究を別の奴に引き継がせる気なのかも、 そのために個人ファイルからデータを抜き出して」 ブツブツと呟いていた律子は、突然はっとして顔を上げた。 「急がないと!」 「ね、ちょっと、どういうことなのさ!?」 必死で訊ねる浦地を無視し、律子は部屋の隅のゲージを抱え込んだ。 「まだ時間はある! とにかく完成させればいいんだ!」 そのまま部屋を飛び出そうとする律子の肩を、浦地が意外なほど強い力で掴んだ。 「離せ! この子はあたしが守るんだ!」 身をよじる律子。 だが浦地は掴んだ手を離さない。 むしろその手に力がこもる。 「いたッ!」 「………」 「離せこの! 痛いだろが!」 「……………」 「…浦地?」 俯いたまま手を離さない浦地に気づき、律子はその顔を見た。 「…もうやめようよ…」 浦地の白い顔に、涙がこぼれていた。 「…なんでそんなにそのネズミにこだわるの? なんでいつもボクよりネズミが優先なの?」 「……」 「大事な研究だってのはボクだってわかるよ…助手なんだから。 昔からずっと助手なんだから。でもなんで? なんでそのネズミのことになると人が変わっちゃうの?」 「…それは……」 律子は窮した。 それは初恋だった。 ぽこぽん大学の学生だったころ。 律子は生まれて初めて恋をした。 光は律子の一学年先輩で、同じロボット工学を志す仲間だった。 ライバルは多かった。 ファンクラブまであった。 容姿端麗にして頭脳明晰、若くして超光石の研究で大成し、 財産も唸るほど持っていた。 だが律子が恋をしたのは、そうした理由だけではなかった。 出会ったその日、光は実験用のハムスターを前に泣いていた。 めそめそと。 鼻汁をこぼしながら。 実験の結果死んだハムスターの死骸を前に、天才と謳われ、 教授陣にさえ引け目を感じさせるほどの男が、だらしもなく泣いていたのだ。 窓から夕暮れの陽が差し、研究室をオレンジ色に滲ませていた。 弱い人間だ。 律子はそう思った。 そんなことで泣くぐらいなら、研究などやめてしまえばいい。 そう思った。 だが、律子はその考えを改めた。 奇跡を見たのだ。 死んだハムスターに光が手を触れ、なにかした。 するとハムスターは息を吹き返し、不思議そうに首を傾げ、光を見たのだ。 「ごめんよハム四郎、僕にはこんなことぐらいしかできないんだ」 光はそう言って、また泣いた。 「そんなネズミなんていらない! 処分でもなんでも、しちゃえばいいんだッ!」 泣きながら浦地は叫んだ。 「この…離せッ!」 その手を振り払い、律子は部屋を飛び出した。 今はまだ言い出せない昔の思いと、あのとき言い出せなかった昔の言葉。 「生体一号は……ハム四郎は! あたしが守るんだ!」 律子はゲージを抱えたまま、実験室に向け、走った。 7 暗闇。 暗闇の中で声がする。 変生せよ 得体の知れない支配力。 圧倒的な力強さ。 抗しがたいほどの力を、その声は持っていた。 変生せよ 生まれた瞬間から死へと突き進む生命。 崩壊する組織。 死滅する細胞。 その自然法則を捻じ曲げ、人の手によって生み出された異形の者ども。 生まれ出ることに絶望し、死によってしか拒絶を許されない非業の者ども。 変生せよ その苦しみから解放し、生に意味を、光を、自由意志をもたらす力。 声にはそれだけの力があった。 変生せよ 闇は切り裂かれ、意志が、自我が、そして光が、溢れた。 9 超光石線の大量照射が始まった。 実験室の中央に設置された特殊ガラスの容器には、一匹のハムスターが横たわっている。 その前面には三脚で固定された超光石線照射機が、 さながらレーザー砲のようにハムスターに照準を定め、二秒間に一度づつ照射を繰り返す。 律子は実験室の壁面に埋め込まれたコンソールに向かい、 照射を監視しながら、モニターに映し出された様々なデータ、 スキャニングされ擬似3D化されたハムスターの反応を、モニタリングする。 所長に妨害される前に、実験を終了させ、研究を完成させなければならない。 既に様々な実験の施されたハムスターを所外に持ち出すことはできないのだ。 故に、ハムスターを救う方法は唯一、完全なT3αアンドロイドとして完成させるしかない。 だが、超光石線は極めて強力な放射線だ。 一歩間違えれば、この研究所を吹っ飛ばすだけの力を持っている。 慎重に、だが素早く、実験を終えなければならない。 律子はそう考えながら、作業を急いだ。 「そうはいかんぞ、神原君」 波多野の声にぎくりを身をすくめ、律子はドアを振り返った。 そこに波多野、浦地、哲夫の三人が立っていた。 「浦地! おまえ!」 律子が叫ぶ。 「……」 浦地は黙って俯いた。 「…くそ!」 「いい加減諦めたまえ。このプロジェクトは凍結だ。 そうなれば、この研究所も間もなく閉鎖される。 君の研究は君自身で行えばいいだろう」 冷静だが、どこか諭すような調子で波多野が言った。 「だったらハム四郎の処分はどうなるんだ!?」 「ハム…ああ、そのマウスか。それは処分しなければならないな。 このプロジェクトの生産物なのだから」 「だったら関係ない! 出て行け!」 「りっちゃん!」 「うるさい! 浦地、おまえも出てけ!」 「…ええーっと、どういうことかさっぱりでしゅが」 「君は黙っていたまえ」 「ぷしゅー、黙ってはいられないでしゅ」 そう言うと哲夫は、律子の真向かいにある壁面のコンソール近づき、電源を入れた。 「律子しゃん、ひとりで実験は無理でしゅよ」 本来は十数人がコンソールで監視しながら行う実験である。 「律子しゃんはハムスターのモニタリング全般をしてくだしゃい、 こっちは照射全般を監視するっしゅ」 哲夫は言いながらコンソールを操作し、準備を始めた。 「…君、それがどういうことなのかわかっているのかね?」 波多野が硬い声で言った。 「首でもなんでもいいっしゅよ。どうせ閉鎖されるなら同じっしゅ」 気にもかけず、哲夫はサポート準備を進める。 「…やれやれ、とんだ研究所を作ってしまったものだな」 波多野は首を降り、ため息を吐いた。 だがそこには、どこか嬉しそうな響きがあった。 「まったくですね、こうなっては致し方もありません」 それまで泣きそうな顔で、いや事実泣きながら事態を見守っていた浦地は、 突然冷静な口調でそう言った。 「それはどういう…」 波多野の問いが終わるより先に、浦地はダボダボの白衣を一瞬にして脱ぎ捨てた。 その下には、しっかり丈の合った軍服が着込まれている。 さながら少年兵のようにも見えるが、その姿には不気味なほどの威厳と怖さがあった。 浦地は黙って耳元に手を当てる。 その途端、実験室のドアが開かれ、 突然、黒い覆面に黒い服を着込んだ数十人の男たちが、雪崩れ込むように突入して来た。 10 膝裏を蹴り込まれた波多野は、床に腹這いにさせられ、 首筋に銃口を突きつけられる。 哲夫は数人掛かりで壁に押し込まれ、同時に足をすくわれて床に倒れ込む。 すぐさま腕を捻り上げられ、首の後ろで手を組まされると、 銃口が後頭部に突きつけられる。 どうにか反応できたのは律子だけだったが、 相手が武装しているの見て、両手を挙げることしかできなかった。 「報告」 「拘束完了。被害なし。制圧成功」 浦地の声に、律子の胸元に銃口を向けた男が答える。 「よし」 「ぷしゅー! いったいど!」 言い掛けた哲夫の横っ腹を、銃を突きつけた男が蹴り込んだ。 「いい。言わせろ」 「…GRUか」 床に押し付けられながらも、波多野が言う。 「ほう、さすが所長、いや、ぷにぷにほっぺ団ヒットマン波多野、と言った方がいいかな」 「AS VALなんて抱えてくる連中はそうはいないからな」 男たちは、銃身が妙に太いわりに、マガジンやグリップはコンパクト、 というあまり見慣れないライフルを腕に抱えていた。 ロシア連邦軍参謀本部情報総局、 通称GRUが運営する特殊任務部隊スペツナズが使用する特殊消音ライフルである。 「君たちよりラングレーの方が早いと思ったがね」 「お調子者連中に何ができる。それに両方ハズレだ」 「なに?」 「CIAでもないし、GRUでもない」 「……SVRか」 「さあね」 ロシア対外情報庁、通称SVRは、ソビエト連邦時代、 KGBで対外諜報を行っていた機関の後継である。 「そう言えば昔、男ながらに色仕掛けの名手がKGBにいるというのを聞いたことがある、 分割後はSVRに移ったか」 それには答えず、浦地は制圧された実験室を横切り、律子の前に立った。 相変わらずその胸元には銃口が突きつけられている。 「だからあれだけ止めたのに。君は本当に強情だね」 にこりともせず浦地が言った。 「…スパイかなんかだったわけか…?」 「まあ、そう、かな?」 「このや!」 銃を突きつけた男の肘打ちが、律子の横顔を貫いた。 ふらついた律子は失神しそうになりがらも、なんとか耐えて踏みとどまる。 「わからなかっただろうから教えるが、今のはものすごく優しい対応だ」 丁寧だが感情のない声で浦地が言った。 飛びそうになる意識を必死で繋ぎ止めながら、律子は気丈に浦地の顔を睨みつける。 その口元に血が垂れた。 「もっと優しくしろ」 肘打ちを打ち込みながら、一瞬も銃口を律子から動かさない男に浦地が言った。 男は黙って頷く。 「君には研究を完成させてもらう。連れて来い」 後ろ手に浦地が指示すると、数人の男たちが哲夫の脇を抱え、立たせた。 引きずるように歩かせて、律子の前に連れて来る。 「彼に協力してもらってもいいし、ここにいる私の部下たちを使ってくれてもいい。 あるいは私が直接協力してもいい。なにしろ私は長年、君の助手だったわけだからね」 そう言った浦地の顔には、何の表情もなかった。 それが余計に律子の胸を抉る。 「ともかくT3αアンドロイドを完成させてもらう。承諾するかい?」 「断る!」 吼えるように言った律子の言葉が終わるより早く、哲夫の脇に立った男が引き金を引いた。 音もなく発射された銃弾は、真っ赤に熱せられた釘がチーズを刺し通るかのように、 いとも容易く哲夫の腹部を貫く。 「ああ! ああ、ああ…」 哲夫は自分の腹部からパタパタと溢れ出る血を見て、呟くような叫びをあげた。 「もう一度聞くよ? 承諾するかい?」 「…この、糞野郎!」 「……今のはなかったことにする。次に無駄口を叩いたら、 彼は死ぬ。答えなくても彼は死ぬ」 これもこいつ一流の「優しさ」なんだろうか? 「研究を完成させるかい?」 これも、この矢継ぎ早に人を攻め立てる言葉も、こいつの「優しさ」なんだろうか? そう律子は思った。 もはや浦地が自分の知っている、知っていた、 浦地ではない、ということは、頭ではわかっている。 そもそもあの浦地は存在しなかったわけだ。 だが、だとすれば、あの匂い、あの感触、あの温もりは、なんだったのか? それになぜ浦地は、実験を止めようとしたのにも関わらず、 今は強要しようとしているのか? スパイであることと何か関係がありそうな気はするが、 それがなんなのか、さっぱりわからない。 目眩がする。 今までの世界観がガラガラと崩れる。 それとも実験を止めようとしたのは、そうなれば、 浦地の立場上こうせざるを得なかったからなのか。 だから彼なりの「優しさ」で止めようとしてくれたのか。 そうした考え自体、騙された女の未練が生んだ妄想なのか。 二発目の銃弾は哲夫のこめかみを貫き、容易くその命を奪った。 若干19歳の命は、その瞬間、消滅した。 巨体が意外なほど静かに、ぐったりと、床に横たわる。 律子の心は千々に砕け散り、視線はあてどもなく彷徨う。 「次は君が死ぬ」 以前は好きだった聞き慣れた声が言った。 「無駄だ」 以前は嫌いだった別の聞き慣れた声がそう言った。 10 「ほう、どういうことだ?」 波多野の言葉に、浦地が問う。 「実験は成功しない。研究も完成しない」 床に押し付けられながら、波多野が答える。 「理由を聞こう」 「簡単だ。T3αアンドロイドなど、存在しないからだ」 「私は長年、助手の立場から見てきた。データも揃っている」 「ああ、そうだったな。だがあれは偽装だ。すべての研究結果は私が改竄したものだ」 「バカな、不可能だ」 「なぜだね? 私は所長だ。造作もない」 「……」 「つまり君たちの研究は、一ミリも前進していなかったわけだ。 重要なのは『そういう研究成果があると思わせる』ことだった」 「……ハニーポット…」 「そうだな、まさにハニーポットだ。ハニートラップ(色仕掛け)の名手が、 ハニーポットに引っ掛かったわけだ。 我々の周りを飛びまわる東西の蝿どもをおびき出す罠にな」 「…だが、あのハムスターはどう説明する。あれは間違いなく生体工学上の奇跡だ」 「確かに。あれだけは奇跡だよ。だが同じ奇跡は二度起こらない。 なにしろ神の御技だからな」 「……」 浦地の沈黙は、制圧された実験室に動揺を生んだ。 作戦は失敗した。 そもそも誤った情報に踊らされた作戦だった。 それを浦地の沈黙が、決定付けてしまった。 その機を波多野は逃さなかった。 床に突っ伏した状態から素早く踵を跳ね上げ、 銃口を向けていた男の股間にぶち込む。 男の身体がくの字折れ曲がると同時に、両腕で床を叩き、その反動で大きく跳躍。 逆立ちした状態で宙を舞う。 瞬間的に両脇にいる男たちが銃口を向ける。 が、それよりも早く、宙で開いた脚が猛烈な速さで回転し、 その顎先を捉え、銃口を吹き飛ばす。 軌道を逸れて発射された銃弾は、壁のコンソールに当たり、火花を飛ばす。 宙を切って足から着地した波多野は、そのまま地を蹴り、床すれすれを滑るように跳ぶ。 そして実験室のドアを背中から抜け、まんまと脱出に成功した。 一瞬遅れて銃弾が雨あられとドアに撃ち込まれたが、 時に既に遅く、波多野の姿はそこにはなかった。 浦地が手を振り払うと、即座に銃撃は中断された。 「…生体回収後、痕跡を消して帰還だ」 「女はどうしますか?」 「……」 暗い表情で俯いたままの律子を見やり、浦地は呟いた。 「私が処分する」 懐から手の内にすっぽり納まるほど小型で極薄の拳銃PSMを取り出した浦地は、 その銃口を律子の眉間に向けた。 小型だが、その特殊な弾丸は防弾チョッキをも貫通する。 「……先輩」 「…」 「先輩がくれたんだ…」 「なんだ? なにをだ?」 「おまえに一番懐いてるからって…ハム四郎、あんまり懐いてなかったのに」 「…」 「あれも優しさだったのかな、あたしの気持ち知ってて、 でも応えられなくて、だからくれたのかな」 「…」 「優しさってなんだろね?」 顔を上げた律子は、笑っていた。 酷い笑顔だった。 傷ついていた。 血がついていた。 涙がついていた。 泣いていた。 笑っていた。 困っていた。 悩んでいた。 怒っていた。 恨んでいた。 壊れていた。 酷い笑顔だった。 壊れた笑顔だった。 「ハム四郎、大事にしてよね」 「ああ、わかった」 浦地の指が引き金を引いた。 その刹那。 変生せよ 閃光が沸き起こり、瞬間的な爆発が実験室に起きた。 コンソールに当たった銃弾は、その機能を狂わせた。 超光石線のパラメーターが狂い、照射量は一気に設定の120倍にまで増加された。 それがまさにその瞬間、照射されたのだ。 風が疾り抜ける。 爆風が律子をさらう。 後から迫った爆音が浦地の耳を聾する。 立ち昇る粉塵の中、慌てた男たちは床に伏せ、 何が起きたのかと周囲を見渡した。 と、粉塵の中、実験室の壁際に、ひとりの男が立っていた。 学ランに白のスニーカー。 垂れた前髪の奥には、不敵な笑みが隠れてる。 その腕にはしっかりと律子が抱かれていた。 「誰だッ!?」 男はニヤリと笑って答えた。 「超高速ロボ、ハム四郎、ここに見参ッ!」 10 即座に雨あられと撃ち込まれた9x39mm弾を、 ひらりひらりとかわしながら、ハム四郎が叫ぶ。 「はっはっー! 遅いぜ遅いぜ遅いぜ! 眠っちまいそうな遅さだぜ! こんなすっとろい鉄砲玉じゃ、このハム四郎さまから一本殺るのは無理だぜ!」 実際、AS VALの弾速は遅い。 わざとそうしているのだ。 消音効果を残しつつ、威力を落とさないために開発された特殊な銃弾だからなのだが、 だからと言って、無論人間がかわせるような速度ではない。 だがハム四郎は人間ではない。 ロボットなのだ。 アンドロイドなのだ。 しかも超高速ロボであり、ハムスターとの合体アンドロイドなのだ。 しかもその腕には律子が抱えられていた。 律子はぐったりとしながらも、ハム四郎の胸にしっかり抱かれ、 ぼんやりとその顔を見つめていた。 「…ハム四郎…なの? 本当に?」 「あたぼーだぜ! 俺がハム四郎じゃなくて、だれがハム四郎だっての!」 「うそ!? じゃあ、本当に完成したんだ……本当に完成したんだっ!」 「おうよ!」 律子は泣いた。 ハム四郎の胸に抱かれながら、顔をくしゃくしゃにして泣いて笑った。 酷い笑顔だった。 だが、それはいい笑顔だった。 「今まで苦労かけちまったな、だがな、おまえの気持ちはしっかり受け止めたぜ」 「ばかやろー! おそいんだよ!」 泣きながら、笑いながら、律子はハム四郎の胸を叩いた。 「うっせー! 俺様が遅いはずあるわけねーだろ!」 銃弾をさっさとよけ、ハム四郎は手近にいた男の顎先に素早い蹴りを見舞った。 音速を超えるハム四郎の蹴りは、それだけで爆発的な力を持つ。 吹き飛ばされた男は壁に激突し、そのまま突っ伏した。 「おらおら! 次々いくぜー!」 その言葉どおり、ハム四郎は次々に蹴りを見舞い、男たちを倒していく。 弾丸は当たらないどころか、かすりさえもしない。 むしろハム四郎の姿を認識するのさえ困難なのだ。 男たちに勝ち目はない。 「…撤収だ。指示を待たず退避。帰還を果たせ」 腕を振り払い呟いた浦地の指示に、男たちが即座に反応する。 銃撃をやめ、素早く実験室のドアから出て行く。 「おいおい、おい! 無視すんじゃねー!」 「君の相手は私がしよう」 PSMを懐に戻した浦地が、その前に立ちはだかった。 11 「なんだ坊主、痛い目に遭いたいのか? やめとけやめ」 言いながら、ハム四郎は後悔した。 浦地の動きは、早かった。 一瞬で間合いを詰めたかと思う間もなく、腕に抱いた律子に手を伸ばしていた。 「うぉおりゃあ!」 飛び退き、回転しながら踵を叩き込んだハム四郎だったが、その蹴りは宙を切った。 その足首を掴まれる。 浦地はハム四郎の足首を掴みながらスライディング気味に地を滑り、 残ったハム四郎の片足に両足を絡ませる。 一方の足はハム四郎の膝上を狙い、もう一方は膝裏わずか下を狙う。 そのまま回転すれば、膝が折れる角度だ。 だが、わずかにハム四郎の方が速い。 一瞬の差で地を蹴り、ハム四郎の足が浦地のカニ挟みから逃れる。 それを察知した浦地が、今度は掴んだ足を捻り、足の甲に手を伸ばす。 ハム四郎は地を蹴った足の余勢でそれを蹴飛ばし、なんとか脱出する。 尻餅を突き、もんどりうって立ち上がるハム四郎。 一瞬遅れ、浦地もすくと立つ。 「や、やるじゃねえかサンビエスト」 ハム四郎は律子をその場に下ろすと、軽くステップを踏んだ。 「おい律子、危ねえからさがってろ、これからちょいと本気出すからよ」 屈伸しながら言う。 「う、うん…」 頷いた律子は、だが心配そうに二人を交互に見た。 「へっへー楽しくなってきやがったぜ」 ハム四郎がぴょんぴょん跳ねる。 それを黙って浦地が見つめる。 「なあ、おい、楽しいよな?」 「……」 「おまえもあれか、アンドロイドなのか? 「…」 「そうか、答えたくねえなら別にいいや」 実際のところ、浦地はアンドロイドではない。 サイボーグだ。 特にその視力は「摂理の目」と呼ばれるほどに強化されており、 あらゆる物象を見逃さず、あらゆる動きを捉える。 そして記録する。 諜報員としてこれほど有用なサイボーグ化もない。 それがあの爆発の中、唯一ハム四郎の動きを、 浦地が正確に捉えることのできた由縁である。 だが、いかに強化された視力があったとしても、 それに身体機能がついていけない。 どうしても一瞬のラグが出る。 そのため、結果的にハム四郎の方が一瞬速いのだ。 サイボーグの限界。 それが両者の差だった。 「んじゃあそろそろ、いっくぜー!」 言った瞬間、爆音が起こり、ハム四郎の姿が消えた。 ソニックブームが巻き起こり、衝撃が実験室を襲う。 律子を抱えていたときは、その身を気遣っていたハム四郎だったが、 本気を出せば、易々と音速の壁を突破する。 当然、律子にはその動きを追うことができない。 だが浦地にはその動きが正確に把握できた。 真正面から突っ込んで来るのが、はっきりと見える。 このまま行けば、そのまま吹き飛ばされる。 かと言ってかわしたところで、後方からソニックブームが襲ってくる。 そのダメージに耐えることは容易いが、確実に体勢を崩される。 そうなれば次の瞬間、ハム四郎の攻撃をまともに喰らうことになる。 おそらくそれに耐えることはできない。 そして、巻き起こるソニックブームをかわす術もない。 まったく何も考えていないハム四郎の動きだったが、その実、逃げ場はなかった。 だから罠を仕掛けた。 確実に相手を仕留める罠を。 ハム四郎が目前まで迫る。 浦地は耳元に仕込まれた起爆装置のスイッチを入れた。 「……バイバイ、りっちゃん」 12 突然ハム四郎の背後で爆発が起こり、律子が吹き飛んだ。 血が舞う。 すさまじいスピードで疾走していたハム四郎は、それを察知すると、一瞬動きを止めた。 隙が生まれた。 その隙を浦地は逃さなかった。 ロックが外され、腕の第二関節から下が、強力なスプリングによって射ち出される。 蛇腹状の腕が伸び、驚異的なスピードで射出され、鋭く、 だがわずかに指先を曲げた貫手が、ハム四郎の胸にぶち込まれる。 「なはっ!」 自分の胸元に突き立った腕を見て、驚きの声と共にハム四郎は血を吐いた。 最初の接触時、浦地は敢えてハム四郎ではなく、律子に手を伸ばした。 それは鼻糞ほどのプラスティック爆弾を仕掛けるためだった。 ハム四郎に仕掛けたのでは、すぐにバレてしまう可能性が高い。 なにしろ相手は浦地よりも素早い相手なのだ。 だから律子に仕掛けた。 ハム四郎は浦地の動きに驚き、また回転して逃れたため、気づかなかった。 単に腕が飛び出しただけなら、ハム四郎にとってかわすのは容易い。 だが強引に気を逸らされ、気づいたときには自分のスピードによって逃れる間もなく、 攻撃を受けていたのだった。 「や、やろう〜…」 「やはり受けに回ると脆いな」 浦地の目、「摂理の目」は、ハム四郎の弱点、 精神的、身体的なあらゆる脆弱性を正確に分析していた。 深々と突き立った腕を捻り、さらに深く捻じ込む。 「ぐあぁッ!」 「…なるほど、アンドロイドは神経系も活きているのか」 浦地は呟いて、さらに腕を捻じ込んでいく。 それらの光景は、「摂理の目」を通し、記録され、衛星を介して本国へと送られている。 ハム四郎は蛇腹に伸びた腕を掴み、なんとか引き抜こうとする。 だが浦地が軽く腕を振るだけで、容易く振り払われてしまう。 「ぐああぁッ!」 そしてその浦地の動きが、さらに腕を奥へ奥へと捻じ込んでいくのだった。 「ち、ちきしょうがぁあ〜…」 ごぼごぼと音が聞こえるほどに、ハム四郎の肺に血が溜まり、口元から泡となって溢れ出る。 「……ハ、ム四郎…」 血まみれで床に横たわった律子が呟く。 爆発がごく小規模であり、またプラスティック爆弾の仕掛けられた場所が大腿部だったため、 死には至らなかったが、重傷であることに変わりない。 濁々と溢れる血は留まることを知らず、黒く濁った血が床を覆っていく。 「へっへっ…待ってろよ律子、これから俺の大逆転がはじまるんだからよぉ〜…」 「……ばか………つよ…がりばっかり…」 「へっへっ」 「……で、でも…待って、る…よ……」 そう言ったきり、律子は静かになった。 「お、おい…」 律子は答えない。 その口元には笑みが浮かんでいた。 「…逝ったか」 「………………ぬああぁっぁぁぁぁあっぁぁぁあああッ!! ばっきゃろおぉおおおぉおおおおぉおおッ!!」 再び突き立つ腕に手を掛けたハム四郎は、今度はそのまま浦地を押し込んだ。 「無駄だ」 言いつつ数歩後退した浦地の足が、巨大な物体に引っ掛かった。 「なっ」 振り返った浦地は、驚愕した。 そこには、こめかみを撃ち抜かれ死に絶えた、哲夫の巨体が横たわっていた。 涙のこぼれたその死に顔には、長い前歯が突き出ている。 いつも間にそこまで押し込まれたのか。 あるいはこれもなにかのトラップなのか。 体勢を立て直そうとするが、ハム四郎が馬鹿力で押し込む。 ずぶずぶと腕がハム四郎の胸を抉る。 それをものともせず、さらに押し込むハム四郎。 「このクソったりゃああぁぁああああああああああっぁぁぁっぁぁっぁぁ あああああああああっぁぁあ!!!」 ついに浦地は哲夫の巨体によろけ、尻餅を突く。 その上に覆いかぶさったハム四郎が、渾身の力を振りかぶり、 全身を預け、頭から突っ込むかのように、裂帛の気合と共に拳を打ち込んだ。 「だああああぁぁぁぁっぁぁっぁああああああぁぁっぁぁっぁぁ あああああああああああああああぁぁぁっぁぁ ああああああああああああぁぁっぁぁぁっぁ ああああああああああああああああ!!!!」 白く美しい浦地の少女のような顔面は、ハム四郎の音速の拳よって、 頬骨を砕かれ、頭蓋を粉砕され、床にめり込んだ。 その直後、研究所が大爆発を起こし、跡形もなく吹っ飛んだ。 波多野の仕掛けた「罠」が起動したのだ。 13 エピローグ。 大爆発の中、ハム四郎は胸に風穴を開けられながらも、 重傷の律子を抱いたまま、脱出に成功した。 律子の傷は深く、ハム四郎の超高速応急処置によってむしろ悪化したが、 救急病院にわずか三秒弱で到着したため、一命を取り留めた。 足の負傷が激しく、杖を突いての生活を余儀なくされたが、 それでも元気に暮らしている。 ハム四郎の胸の風穴も、彼自身の超高速治癒能力によって、 わずか一週間足らずで完全にふさがり、跡も残っていない。 攻撃されると弱いが、回復は早い。 それが彼の持ち味である。 律子は事情聴取の名目で公安当局に捕らえられそうになったが、 旧知の仲であった春日光ことワリト博士に庇護され、難を逃れた。 それが縁でハム四郎は超光石研究所所属となり、再び春日の元へ戻ることになる。 だが律子は超光石研究所所属にはならず、春日も無理に誘ったりはしなかった。 風の噂では工業高校の教師になったという話もあるが、いずれにしろ、癒えない傷というのがある。 月日が経って痛みが薄まっても、癒えない傷というのが。 「それを認めて思いやれるのが、優しさなのかもしんねーな」 回復の早いハム四郎はそう思ったりしたのだった。 完 |