昼の残光、夜の前哨、つまるところの夕暮れ。

 障子も、畳も、袴も、額も、そこに伝う汗さえも仄かに赤い。

 その赤く透ける汗が目尻から沁みそうになったので、私は右の掌でぐい、と拭い上げた。

 どうにもこの汗というやつは塩辛く沁みるのでいけない。

 

「おい、君。はやくしたまえよ。」

「へぇ、へぇ、今すぐに。」

 

 答える女は、がくんがくんとコメツキムシのように首を振った。

 先ほどの答えとは裏腹に、女の動きは鈍い。どうしてこの女は私の癇に障ることしかしないのだろう。

 がたがた擦りながら右足が遅れて歩行している。そうだ、私の上着を紅で汚したときに右足を捩じ上げてやったからだ。

 それ以来、女はこの癇に障る歩き方になった。

 

「おい、君。私はとても急いでいるのだよ。」

「へぇ、へぇ、今すぐに。」

 

 がくんがくんとムシのように首を振るのだ、この女は。

 私は障子にもたれながらじりじりと女の背中を見つめた。

 そんな視線も気にせず女はだらだらと着替え始めた。その背中には卑しい痣が二本線になって走っている。

 そうだ、私の好きなタバコを切らしていたので熱く焼けた火箸を押し付けてやったからだ。

 それ以来、この女は着替えるとき背中を見せるようになった。

 

「おい、君。言葉が通じていないのではあるまいな、もしや。私は一刻も早く出かけたいのだ。」

「へぇ、へぇ、今すぐに。」

 

 女はがくんがくんとネジの外れた動きで答える。

 体重をかけていた右足がしびれてきたので、左足に体重を移すことにした。

 女は見ているのもモドカシイ動きで、服を着替えている。が、服を落とした。しっかり五本指で掴まないからだ。

 そうだ、私の嫌いなニシンを夕餉に出したので、出刃ですこうし小指を押さえつけてやったのだ。

 それ以来、この女は小指を使わなくなった。

 

「おい、君。支度はそろそろにして、はやくしたまえよ。」

「へぇ、へぇ、今すぐに。」

 

 がくんがくんとそれしか知らぬ返答を返す。

 ようやくにして振り返った女の顔は醜く腫れ、歯が無い。

 そうだ、昨日私の好きなレコォドを落として割ったのでしたたかに殴ってやったからだ。

 それ以来、この女はこの顔で微笑むようになった。

 

 昼の残光、夜の前哨、つまるところの夕暮れ。

 障子が、畳が、袴が、額が、そこを伝う汁さえも赤い。

 

「おい、君。」

「へぇ、へぇ。」

 

 だらだらと赤い汁が私の肌をすべり、落ちる。

 そうだ。

 

「おい、君。」

「へぇ。」

 

 この女が先ほど私をペェパァナイフで刺したのだ。

 

「おい。」

 

「へぇ。」

 

 それ以来、私はお医者に行くためにこうして女を急かしているのだ。

 こんなに支度が遅くなるのなら、足はねじらなければ良かった。

 指を押さえつけなければ良かった。顔はしたたかに殴っても問題は無いだろうな。

 

「おい、君。もう行かねばならないよ。足が痺れてしまう。」

 

 

「・・・へぇ。」

 

 

 どうにもこの血というものは苦くていけない。

 

 

 私は右の掌でぐいと、割れた腹を押さえた。

 

「お。」

 

「へ。」

 

 それにしても、この女は役に立たない。