≪喫茶店にて≫
何故、こんなにイライラとした気分を抱えなければならないのだろうか、この自分が。
しかも、理由も何もあったものではない。
ただ、突然の雨に遭ってしまい手近な喫茶店に駆け込んだところ、そこに先客としてあの成歩堂龍一がいたこと。
その隣には、当たり前のように綾里真宵がいたこと。
綾里真宵が自分に気付き、笑顔でこちらに手を振り、招きよせたこと。
……自分に気が付いた成歩堂龍一が、一瞬、ギョッとしたような顔をしたこと。
この短い間に起こった事は、たったそれだけなのだ。
別に、意味もなくイライラする理由は何もない。どこにもない。
何か理由があるとすれば……そう、服が少し、雨で濡れてしまったこと。
きっと自分がイライラしている原因は、それなのだろうと思う事にした。
考えれば考えるほど、気がつきたくもない、不愉快極まりない結論に近づいてしまいそうだった。
「狩魔検事、こっちこっち!」
ぶんぶんと手を振り、周囲の目などお構いなしの大声で、綾里真宵は自分を呼んだ。
喫茶店内の視線が一斉に私に向く。
――理由もなく悪い意味で目立つのは納得がいかない。
イライラを内心に押し隠し、私は綾里真宵が座っている席に近づいていった。
「……何か用かしら?」
「えっと、用事は何もないんだけど、狩魔検事も雨宿り?」
「そうよ。それがなにか?」
言葉に含んだ素っ気無さをきれいに無視して、綾里真宵は笑いながら続けた。
「あ、やっぱり! あたしとなるほどくんも雨宿りなんだ、奇遇だね」
奇遇。偶然。
ああ、そうなのだ。言ってしまえばこの状況、確かにそれだけのことなのだろう。
でも。
「雨が降ったときに、手近な店で雨宿りしようと考えるのは、別に珍しいことではないわ」
「え? あ、そうだね。でも、同じ場所で雨宿りって、珍しいことだよきっと!」
綾里真宵は何のつもりか、妙に食い下がってくる。
いったいナニを言いたいというのだろうか?
そして……もっと神経を逆なでするのは、綾里真宵の隣で、何かを諦めきったような顔になっている成歩堂龍一。
成歩堂龍一にとっても、もちろん私にとっても、この偶然が好ましいものではないことは当然だ。こんな表情になるのはおかしい事ではない。
……おかしくは、ない。けど。
「だから、狩魔検事さん、一緒にお茶しよう! ね!」
くいっと私の服の袖を引っ張り、綾里真宵は自分達が座っていたテーブルへと私を引っ張った。
私に拒否権はないとばかりの強引な態度。それを、やれやれ……とでも言いたげに見ている成歩堂龍一。
もちろん、断ろうと思ったその瞬間、綾里真宵はこんなことを言った。
「もちろん、お茶代はなるほどくんがおごってくれるから、好きなもの食べて!」
「え?」
何を言いだすのだ……とばかりの成歩堂龍一の表情が見えた。
もちろん、綾里真宵のそんな申し出は断るはずだった。
法廷の外であろうとも、検事が弁護士と同席などありえない。
でも、成歩堂龍一のその表情が……きょとんとした顔が何だか無性におかしくて。
「……そう。ならごちそうになろうかしら」
私がそう言うと、綾里真宵は嬉しそうな顔になり、成歩堂龍一は深いため息をつきながら、何とも言えない表情になった。
ああ、やっぱりそうだ。どうやら、私は、嫌われているらしい。
好かれようとも思わないし、好かれたいとも思わない。
だいたい、成歩堂龍一と私の関係を考えれば、仲良くお茶をするような関係ではないのは確かなのだし。
そう。弁護士と検事は本来殺伐とした犬猿の仲であるべきなのだ。でもそれを、この綾里真宵は無邪気に無視してくれる。
私は、綾里真宵の隣、成歩堂龍一の向かいの席に腰をおろした。
法廷の外で成歩堂龍一と顔をつき合わせて座っているこの状況……外に出た時は予想もしなかった。
だいたい、成歩堂龍一と私とは、こんな風に一緒に食事をするような仲ではないのだから。
「何がいい、狩魔検事?」
私にメニューを開かせて、横から綾里真宵が口をはさんでくる。
向かいの成歩堂龍一は、私と極力目をあわせないようにと、あさっての方向を向いている。
「そうね……」
何となく、そんな成歩堂龍一の態度を崩してやりたくなり、私はわざとにっこりと友好的に微笑んだ。
「成歩堂龍一、貴方のお薦めはなに?」
「え?」
いきなり私に名前を呼ばれ、成歩堂龍一は少し狼狽したような声でこちらを向いた。
「この店のお薦めはなに? 私はこの店に入ったのが、今日が初めてなのでわからないわ。貴方が教えてくれないかしら?」
「教えるっていっても……」
「あのね、ここのお店はモンブランがおいしいんだよ!」
その会話に、綾里真宵が割り込んできた。
にこにこしながら私に笑顔を向け、メニューのデザートのページを開かせた。
「狩魔検事、栗って好き? 好きならこれお薦めだよ!」
綾里真宵が私の会話相手となった事に、成歩堂龍一はあからさまな安堵の表情を見せていた。
よほど私と会話するのが嫌ならしい。
とはいえ、一瞬だけでも成歩堂龍一が狼狽する表情が見られて、何だかひどく愉快な気持ちになれた。
成歩堂龍一の前には、冷めかけたコーヒーがある。香りはそれなりにいい。
「……そう、ならそれにするわ。あと、コーヒーを」
通りかかったウェイトレスにオーダーを告げ、メニューをテーブルの横に片付けると……何だか少し、静かになってしまった。
……そういえば、今日は確か、成歩堂龍一は裁判があったはずだ。
婦人警官による、警官の殺害事件。私が担当できなかったものだ。
容疑者が婦人警官ということで、世間の注目を集めている事件だ。早期解決が望まれるのだけど……私が担当できなかったのは、失策かもしれない。
この裁判は勝てない。自分の担当ではない事件の資料に目を通して、直感でそう思った。
資料を見る限り表面上は完璧に見えた。でも、検察側の分が悪いと思った。証人の証言も、証拠も、現場の状況も完璧とはほど遠い『穴だらけ』だと思った。
その穴を成歩堂龍一が見逃すわけはない。この事件は立証できない、崩される、と。
私の直感はよく当たる。その漠然とした不安を突き止め、完璧な立証に足りないピースを探すのがいつもの私のやり方なのだ。
法廷に立つ前に、その不安感を完璧に無くす。それでいつも私は勝ってきた。
自分の担当ではない事件に、あまり口を出すわけにはいかない。
それに……正直、亜内検事が成歩堂龍一に勝利するという図式は、私にとって好ましくない。
成歩堂龍一の連勝記録にストップをかけ、狩魔の名誉を回復し、そしてなにより――御剣怜侍に対しての復讐を果たすのは、この自分でなければならないのだから。
こんな事件で、私以外の検事に敗北する成歩堂龍一など、その後に勝利したとしても、レイジに追いつく事にはならないのだ。
でも。
私があの事件を担当できなかったの
は、世間体という厄介なものを気にした警察のせいかもしれない。
私が担当すれば、相手が成歩堂龍一だとしても、もう絶対に負けない。狩魔の名に恥じる事なく、二度目は屈辱を覆い隠すほどの完璧な勝利を手にすることが私の義務だからだ。
でも、それは警察にとっては、自分達の中から起こった不祥事を完璧に立証されてしまう事になる。
婦人警官が、痴情のもつれから、同僚の警官を殺害……警察からしてみれば、弁護士が逆転してくれる事を望みたくなるかもしれない。
それは、矛盾している行動としかいいようがない。
婦人警官が犯人だとすれば、それは立証されなければならない真実なのだし、もし成歩堂龍一に逆転されてしまったとすれば、婦人警官は真犯人ではなかったということなのだから。
警察の威信だの面子だの評判だのを気にするのなら、その前に、自分達が真犯人を逮捕すればいいのに。
誤認逮捕などというバカな真似をせずに、最初から真犯人を逮捕すればいいことなのに。
……その矛盾に検事も加担することになるというのは、ひどく皮肉な事実なのだけれども。
私が注文したコーヒーとケーキは、すぐに運ばれてきた。コーヒーは作り置きなのだろう。香りはともかく、味の方はあまり期待できないらしい。
「今日もなるほどくん裁判があって、それの帰りなんだよ!」
綾里真宵が、嬉しそうな声でその話題をふってきた。
「もちろん、勝ったのでしょうね」
「うん! ちょっと危なかったけど」
「そう。当然ね」
きっぱりと言い捨てて、私はコーヒーを一口飲んだ。
やっぱり、味は予想通りだ。
「……貴方に勝つのは私だもの。それまでは他の検事に負けては困るわ。狩魔の名誉のためにも」
「狩魔の名誉って……」
「真犯人を捕まえられなかったのは、捜査段階での警察のミスね。それで有罪判決を勝ち取れたら、その検事は完璧に貴方よりも上という事になるもの」
きり……と、コーヒーカップを持つ指に、無意識に力がこもった。敗北の記憶が蘇りそうになる。
「だから今日の裁判で貴方が勝つのは当然でしょう? 成歩堂龍一」
「当然、か……」
小さく肩をすくめて、成歩堂龍一は私の言葉に苦笑した。
「誰より上とか下とか、そうは思わないけどね。でも、僕が勝てた理由はたった一つだと思うよ」
「……それは何だと貴方は考えているのかしら?」
「簡単だよ。僕の依頼人は無実だった。だから無実を立証できたんだ。それだけだよ。狩魔の名誉なんて無関係なんだ、きっとね」
そう言って、成歩堂龍一は私の目をじっと見た。少し、怒っているような色がその中には見えた。
……弁護士から威圧される事は、職業柄よくある事だ。今まではそんな視線に負けた事なんてない。
でも……何故かこの成歩堂龍一の視線には、静かな怒りと哀れみさえ混じっているようなその色には、心のどこかがどきりとした。
まさか、怯えているのだろうか、この私が?
何か言おうとしたけれど、うまく言葉が生み出せないような気がした。
喉の奥がきゅっと締め付けられているような気がして、息が苦しい。
それでも、何も言わずに黙っているのは、成歩堂龍一の言葉を肯定してしまう事になる。
声を震わせてはならない。
怯えている事を悟られるなんてもってのほかだ。私は別に、この男に恐怖を感じているわけでもなんでもない。
あくまで対等な関係であるはずなのだ、今は。
私はコーヒーを一口飲んだ。
「……今、私が鞭を持っていない事を、幸せだと思いなさい。バカな事をバカバカしく言うそのバカな口を閉じさせてあげられないのが残念だわ」
唇の端に、冷ややかな笑みを浮かべるようにする。
「狩魔検事……」
隣の綾里真宵が、困ったような声をかけてきた。
「――今度法廷で会った時、今の貴方の言葉を私は全部否定してあげる。貴方に勝って復讐を遂げるのは、狩魔の一族であるこの私の義務だもの。それは狩魔の名誉にかけて誓うわ」
「そんなものに誓われても、僕は嬉しくもなんともない」
ガタン。
私は乱暴に席から立ち上がった。
イスがテーブル席に当たって、嫌な音をたてる。
テーブルの上のコーヒーの水面が揺れて、褐色の液体がこぼれた。
「…………」
「――気を悪くしたなら、それを狩魔検事の前で口にした事に関してだけは謝るよ。でも僕はそう思ってる。それに関しては訂正できないし、謝ることはできない」
「は……」
声が震えそうになり、息を飲む。そして、つとめて冷静に、そして冷ややかに。
「話にもならないわ。ここで会った事は互いにとって、無意味で無益だったようね。バカバカしい時間だったわ」
テーブルの上にコーヒーとモンブラン代の紙幣を1枚置き、成歩堂龍一の顔から目を逸らして喫茶店を出て行った。
「あ、狩魔検事……」
背中に綾里真宵の声がきこえたけど、無視した。
外はまだ雨がやんでいなかったけど、そんなものは気にならなかった。
これ以上成歩堂龍一の近くにいるくらいならば、雨の中歩く方がマシだ。
「…………ジ」
「……レイ、ジ、パパ……」
「どうして……どうして……あんな弁護士に……負け……たの?」
頭の中には、ぐるぐると矛盾が渦巻いている。
父であり、検事としての師である狩魔豪。
そして、その父を敗北させた成歩堂龍一。
その時の被告人であった……御剣怜侍。
自分が望んでいたのは、狩魔の完璧な勝利。
だが……もし父が勝利していたら、自分にとって大事な存在である御剣怜侍は破滅していたのだ。
父の敗北は、そのまま父の破滅にもつながった。
そしてそれは、狩魔の名誉を地に堕としたのだ。
そこに介在した弁護士、成歩堂龍一。
父を破滅させた彼が心から憎いのか、それとも御剣怜侍を救ってくれた彼に感謝したいのか。
もう、よくわからなかった。
確かな事は、自分は狩魔の一族である事。
検事であり、弟弟子であり、そして自分にとってかけがえのない大切な存在である御剣怜侍はいない事。
自分は成歩堂龍一と戦わなければならない事。
……自分しか、いない事。
成歩堂龍一を憎まなければならないのは、狩魔の名誉を汚し、父を破滅させた敵であるからだ。
しかし憎んでしまえば、それは同時に御剣怜侍を切り捨てることにもなる。
どちらが自分にとって大切なのだろうか……。
そしてあの弁護士は、狩魔の名誉を否定する。
13歳から今まで、アメリカでたった一人で生きてきた自分を……否定する!!
でも。
何かを否定しなければ、全てを憎まなければならないような気もした。
狩魔の名誉、父、御剣怜侍、そして自分……何も捨てたくはないのに、すべて大切なものなのに。
……成歩堂龍一と戦い、完璧な勝利を手に入れれば、何か答えは見つかるのだろうか。
いや、違う。答えが見つかる見つからないは、所詮二次的な自分の我侭に過ぎない。
成歩堂龍一に対して勝利する事は、自分にとって義務なのだから。
だから。
「――見てなさい、成歩堂龍一……!」
自分の中の矛盾はこの雨と共に洗い流してしまう事に決めた。
次は、次の法廷こそは、成歩堂龍一に。
その為に自分はこの日本にやってきたのだから。
…………。
完璧な勝利をおさめれば、あの成歩堂龍一も、狩魔の名誉を認めてくれるだろうか?
2003.11.01.
【2003.03.09発行:メールアドレスより】