≪声≫
『成歩堂法律事務所』
少し古びたビルに、まだ新しそうな看板が掛かっていた。
……成歩堂龍一の師である、綾里千尋弁護士が、とある事件で不帰の人となり、その後を事務所ごと継いだ…という話は、事前に調べてある。
あの年齢には不釣合いなほど、それなりの事務所をかまえている。
狩魔冥は事務所の入ったビルの前に立ち、その看板を見上げていた。
あの法廷で――霊媒などという説明のつかないモノが絡んだ事件など、もちろんノーカウントだが――自分に対して敗北という屈辱を味合わせた人物、成歩堂龍一。
『異議あり!』の声と共に、証言の中のささやかな綻びを広げ、矛盾をつき、ついには事件の全てを引っくり返してしまった男。
完璧であったはずのあの法廷は、ほんの一本の釘が曲がっていた部分から、歪み、崩れ、倒れてしまった……。
あの法廷を認める事は、冥には到底できない事だった。
認めてしまえば、今まで自分が築いてきた事が瓦解してしまう。
自分には、進むしかないのだ。自分を置いていったあの男に追いつき、そして追い越すためには、成歩堂龍一という存在を打ち負かすしか……。
迷いは、あってはならないものだった。
被告人を有罪にする事、それが成歩堂龍一に対する勝利なのだから。
だから……法廷中に感じた、被告人に対する疑い、証人に対する疑い……そんなモノは、感じてはならなかったのだ、決して。
迷いが心を掠めるごとに、自分はそれをムチの一閃で打ち消していた。
自分が間違っているなどという事は……完璧でなかったなどという事実は、あってはならない、考えてはならない。
でも。
もしも。
あの法廷の相手が、成歩堂龍一でなかったとしたら。
自分は……あの少女を有罪にしてしまっただろう。
その後の調べで、新たな被疑者である葉中ミミの容疑は、疑いようのないレベルで固まった。
皮肉にも、本人の自供と合わせて完璧に。
最初から、真実を見抜いていれば、成歩堂龍一に勝てたのだろうか。
それとも、成歩堂龍一の打ち出す『真実』に、破れてしまったのだろうか。
父、狩魔豪ならば、どうだったのだろうか。
狩魔豪ならば、成歩堂龍一の弁護をことごとく打ち破り、被告に有罪を与える事ができただろうか。
それとも、父ならば真実を初めから見抜き、成歩堂龍一の姑息な弁護など歯牙にもかけなかったのだろうか。
今は、遠く、離れてしまった父。
そして、その父の血をひく自分――狩魔冥という存在。
天才検事、狩魔豪の娘という宿命。
勝利こそが、その証。
もう、負けられない。
「もう、負けないわ、成歩堂龍一」
見上げた看板に向かってそう呟き、冥はそのまま背中を向けた。
あの法廷は……自分の心にあった矛盾も突かれ、何かを逆転されかけた事は、決して忘れられない。
だからこそ、認めてはならない。
今までの自分を、狩魔の血を、決して逆転させるわけにはいかない。
この場所に来て、何をしようというわけでもなかった。
ただ、成歩堂龍一の事務所を見てみたかった。
この時間ならその事務所にいるであろう本人と会う気はなかった。
きっと、会う勇気もないだろうから。
「ああっ! ダメだよなるほどくん!!」
その時、成歩堂龍一の事務所の窓から、そんな明るい声が飛び出した。
「こんなに散らかして、ほら、ちゃんと片付けなきゃ……」
その声は風に乗って、冥の耳に届いた。
若い、少女の声。成歩堂龍一が弁護した、綾里真宵の、声。
釈放された後、成歩堂龍一のアシスタントのような事をやっている少女。
胸の奥に、じり……と、何か気持ち悪いモノが押し込まれた気がした。
今、成歩堂龍一の隣にいるであろう少女の声。どうしてその声をきいて、こんなにもよくわからない気分を抱えねばならないのだろうか?
成歩堂龍一本人の声がきこえたというのならばともかく。
……そう、成歩堂龍一本人の、声、ならば―――
冥はその場からかけだした。
成歩堂龍一の声をききたくなかった。
成歩堂龍一が、綾里真宵にかけている声が、ききたくなかった。
法廷でない場所では、ききたくはなかった。
きいてしまったら、このよくわからない気分が弾け飛んで、きっと自分はおかしくなってしまうだろうから。
2003.11.05.
初めて書いた逆裁SSがこれだった気がします。
これ書いてた時点では、まだ「←」が「×」でも大丈夫だったような。
世の中わからないものです。いやあ、不思議不思議(おい)