それは本当に一瞬のことで、彼は何が起こったのか理解できずにいた。
「うーん」
 目の前の赤いジャケットの男は何事もなかったかのようにすやすやと寝息を立てている。
 今、何が起こった?
 山海高校2年、風紀委員長広瀬 海は混乱という名の迷路に一人、放り込まれてしまった。
 
 
 澄み渡る空の下、これもまた澄み渡った声が響く。
「不純異性交遊はいかんと、何度言ったら解るんだ、森!」
 ふわふわとしたパーマのかかった栗色の髪の少女と、しっかりとした体格のこちらも茶髪の男の間に割って入った竹刀は、ぴくりとも動かず、それはこの竹刀の持ち主の意志の強さの現われのようであった。
「海ぃ、固ぇんだよお前は〜、今時の高校生なら恋愛ぐらいするだろ?」
 森、と呼ばれた男が大きく溜息をついた。沢邑 森、目の前で竹刀を構えている男の友人で、スポーツマンではあるが、軽い性格の持ち主である。
 突然の風紀委員長の出現に、決して素行が良いとはいえない少女は、森に「じゃあね」とだけいうとそそくさと立ち去ってしまった。
「あっ、ミカちゃ〜ん!」
 森が「そりゃないよ〜」と情けない声を上げる。
「森! 大体、お前は……」
 海のお決まりの説教が始まったと、森は恨めしそうに少女が去って行ってしまった方向を見つめた。
「こら! 森! 聞いているのか!」
 
 
「ったく、海の奴がじゃましなけりゃなぁ」
 彼らの溜まり場となっている超常現象研究会の部室で、森は昨日あった出来事を話した。
「そうそう、オレもさぁ、今日の朝、ちょっと遅刻しただけで竹刀が降ってきたんだぜー。信じられないよなぁ、全く」
 行儀悪く机の上に腰掛け、赤いジャケットの少年、大堂寺 炎は相槌を打った。
「俺も……そう思う。」
 ぼそりと呟いたのは、窓からすっと現れた黒い長髪の美形で、彼の名は刃柴 竜といった。
「竜も海の被害にあったのか! 全く、あいつはやりすぎだよなぁ」
 炎の言葉に森が大きく頷く。
「海先輩は、この学校の風紀と、皆さんのためを思って言っておられると思うんですが……」
 おずおずと言い出したのは、明るい水色の髪と、くるくるとよく表情の変わる可愛らしい少年、しかし、実はれっきとした宇宙警察機構の刑事だったりする宇都美 雷だった。
「なんだよ、海の肩持つのか〜?」
 炎が不機嫌そうに雷の頬っぺたを引っ張った。
「い、いひゃいでふよ、えんせんふぁーい」
 雷が情けない声を上げる。
「後輩を虐めるな!」
 ばしっ!と炎の頭上に竹刀が降りてきた。
「いてぇ!!」
 雷を離し頭を抱える炎。余程痛かったのか目には涙が浮かんでいる。
「海先輩! あ、あ、炎先輩大丈夫ですか?」
 助けられたものの、目の前で頭を抱えている炎の姿に戸惑ってしまう雷。
「放っておけ。手加減はしている」
「どこがだよ! いってぇなぁ!!」
 痛みを堪えて海に食って掛かる炎。
「大体、海が昨日俺のナンパを邪魔したのが悪いんだよ」
 それを雷が肩を持つから……、と森が口を尖らせた。
「不純だ、と言っているのだ。健全な高校生が婦女子をかどわかし、不純な行いをしようとするのが間違っているのだ」
「かどわかし…って………。お前いつの人間だよ。大体なぁ、可愛い女の子見かけて声をかけない奴なんて健全な高校生じゃないんだよ。せっかくミカちゃんとキスしようとしてたのに……」
 白い学生服に手には竹刀、びしっと背筋の伸びた風紀委員長と、スポーツマンであるもののナンパな森が言い争うことは珍しいことではなかった。
 とはいうものの、いつも海と衝突しているのは炎である場合が多く、当然、海の肩を持つはずもない炎は「言ってやれー」と森の応援をしていた。
「せ、接吻だと!! 森! お前はどこまでだらしがないんだ! その女子と生涯添い遂げる覚悟があってのことか!」
 顔を赤く染め、森に竹刀を突きつける海。
「だから、それが古いっての。今時キスぐらいで結婚とか言う奴いねぇって」
 炎が机の上に胡座をかいて肩をすくめた。
「炎! 机の上に座るな!」
 海が叫んだのとほぼ同時に、部屋の戸が音を立てて開かれた。
「あんたたちー! また勝手にあたしの部室に入ってるー!!」
 超常現象研究会、唯一の部員であり、炎の幼馴染みである戸部マリアの叫びに、勝てるものは誰もいなかった。
 
 
 そう広いとも言えない部屋の中に所狭しと標本やら水槽、飼育ケースが並んでいる。
「海の奴、本気でそんなこと言ってるんだぜ?」
 先程の超常現象研究会での出来事を、森はその場にいなかった彼の親友とも言えるような少年に話していた。
「ちょっと海は行き過ぎですよねぇ」
 くるっと振り向いたのは高校生に見えない童顔に小さな眼鏡、そして服は半ズボンという少年、風祭 翼であった。
「だろ〜? やっぱりそう思うよなぁ?」
 森は大げさなぐらい大きく首を縦に振った。
「さて、翼の同意も得られた事だし。ナンパしてくるかな」
「森」
「ん?」
「ナンパ中に海に会ったからって僕の名前を上げて同意したというのは止めてくださいね。海も海ですが、森、貴方のナンパは海でなくても注意したくなるほど無節操なんですから」
 やれやれと翼は溜息をついて机の方に身体を戻した。
 彼が振り返った先には、もう既に友人の姿はなかったのだ。
 
 そして、ちょうど翼と森のそんなやり取りがあった頃、炎は彼に全くといって良いほど似合っていない場所、図書館にいた。
 目の前の問題集とにらめっこをしながらシャープペンを顎に当てる。
「出来るわけねぇよ、こんなの……」
 この間の中間テストで赤点を取ってしまった炎は、「正義のダグオンがそんなことでどうする!」と海に勉強を半ば強引に教えられていたのだ。
 風紀委員会があると席を立った海に、自分が戻ってくるまでに終わらせておくようにと言われたのは、基礎の問題ではあったが海の説明を聞いていなかった炎にとってはかなり難しいものであった。
 海の説明を聞いていない、いや、聞けなかったというほうが正しいのだが。
 森とのやり取りからして、今まで海はキスをしたことがないのだろう。
 こんなに綺麗な顔してるのに……と思ってしまった炎は、まともに海の顔が見れず、しかし、自分でも気がつかないうちに目線は唇に行ってしまい、話を聞く事が出来なかったのだ。
「炎。聞いているのか?」
 そう言って不意に自分の方に顔を向けた海と、自分の唇の距離のあまりの近さに驚いて、思わず後ろに逃げてしまった。
 全く集中できないまま、丁寧に教えてくれていた海は席を立ってしまったのだ。
「初めに、海とキスする奴はどんな奴なんだろう……」
 美しいという形容詞が見事に当てはまるその整った顔立ちで、普段は真一文字に閉じられているが、たまにくすっと口の端を上げて微笑む。
 その柔らかそうな唇に触れるのは…………。
 そんなことを考えながら、炎はいつのまにか眠っていた。
 
 
 柔らかな夕日が図書室をオレンジ色に染め上げる。
 窓際の一番奥で、机に突っ伏している姿を見て、困った奴だ、と微笑んだ。
 カウンターの図書委員は真剣に本の世界に没頭していて、周りのことはまるで目に入らないようだ。
 そのため、秀麗な風紀委員長の微笑みを見て頬を染めるものは誰もいなかった。
 カツカツと眠っている炎に近づく。
 どうやって起こそうかと考え、1度手にしている竹刀を見たが、1日に3度も同じ人物に面を食らわせるのはあまりに可哀相かと、机にそれを立てかけた。
「炎、おい、炎」
 妥当なところで、肩を揺すって起こすという手段に出た海だったが、炎は全く起きる気配を見せなかった。
 炎の夢の中で、確かに彼の声は響いていたのだが、意識を覚醒させるまでには至らなかった。
「炎、炎!」
 少し強く揺さぶると、うーんという声と共に身体が少し反応した。
 起きているのか寝ているのか判断のつかないぼんやりとした表情で海を見上げた炎は、次の瞬間、信じられない行動に出ていた。
 海の唇に触れてみたい。
 その思いを、寝ぼけた頭と重たい体が行動に移していたのだ。
 決して早くない速度で海の首に手を掛け、自分の方に引き寄せて、触れるか触れないかぐらいに、唇を重ねる。
 それだけで満足した炎は、また夢の世界に落ちていったのだった。
 
 後に残されたのは夕日のせいか顔を赤く染め、呆然と立ち尽くす海の姿だった。
 
 
                                 終わり
地下泉に戻る 地下水トップに戻る