空が一瞬白く光る。そして大きな音が響く。
ノアの箱船を思わせるような激しい雨。
そして、雷。
半屋は昇降口でただ、立ち尽くしていた。
今日は7月5日。明後日から期末試験が始まる。
こんな時期に傘も差さずに帰れば間違いなく風邪を引く。
別に試験を受けたいわけではないのだが、少しだけ、ほんの少しだけ、今まで自分のために放課後時間を割いて勉強を教えてくれた奴等に悪いと思って躊躇してしまう。
雨は止みそうもない。
「半屋くん、傘ないの?」
電灯の明かりがその身長によって遮られ、半屋に影を被せる。
「関係ねぇだろ」
あまり気にしないほうだとはいえ、同じ男としてこの身長差は少し恨めしく、また羨ましく思ってしまう。
半屋は下からすくい上げるようにその人物を睨み上げた。
「確かにね」
半屋の言葉をあっさりと肯定し、ぱちん、と持っていた折り畳み傘を開ける。
「でも、風邪を引いたら梧桐君が心配するよ」
「するわけねぇだろ」
即座に否定する半屋の言葉に、苦笑とも同情とも付かぬ笑みを浮かべて背を向ける。
「また明日。風邪引かないようにね」
振り返ることなく去っていく背中を少し眺める。
降りしきる雨にかき消されるように遠ざかっていく背中。
空が割れるような雷鳴。
わくわくするような、それでいて落ち着くような矛盾する感覚。
しばらくその不思議な感覚に身をゆだねていた半屋だったが自分の背後に感じる気配に眉を顰めた。
「セージがこれを貴方にって」
「あぁ?」
半屋の後ろに立っていたのは伊織だった。
彼女の差し出す黒い折畳み傘を視界の隅に認め、目を反らした。
「風邪を引くわ」
無視して雨の中に跳びだそうとする半屋を抑揚のない冷めた口調で止める。
「関係ねぇだろ」
「あるわ」
間髪入れずに答えられ、少し怯んでしまう。
「貴方に渡すように頼まれたのだもの」
「じ、自分で渡しに来たらいいだろっ!」
背後に現れた気配が梧桐のそれでないと気がついたとき空白感が言葉になってしまう。
「忙しいのよ、生徒会って」
真っ直ぐに自分を睨み付けてくる瞳から反らすことなく続ける伊織。
「目立つようなこともしているけれど、生徒のために地味な雑用もたくさんしているの」
引くことのないその態度に半屋は少し構えを緩める。
「例えそれが試験の直前であっても。ましてセージは会長だから…………」
バカだバカだと言われる半屋でも、梧桐がそこまで忙しくなってしまっている一因が自分にあることに気がついた。
梧桐の性格からすれば半屋に全ての教科を自分で教えるはずである。
それをしないのは、しないからではなく、出来ないからであるのだ。
しかし試験直前の今、他の面々の試験勉強の時間を削ってはならないと、ないに等しい自分の時間を割いて教えてくれていたのだ。
もちろん生徒会の仕事もこなしている。
だから、来れない。
「…………」
止むことのない雨を見つめ、半屋は伊織に向かって手を出した。
穏やかな微笑みを浮かべ、その手に預かり物を渡す。
「風邪を引かないようにね」
伊織の言葉は、もうすでに小さくなっていっている影には届かなかった。
自分が如何に梧桐に負担をかけていたか、自分がどれだけ梧桐に愛されているのか少しだけ理解した半屋は、釈然としない表情で雨粒を蹴り分けていた。
「忙しいって、迷惑だって言えよ…………わかんねぇだろ…………」
それを言わなかったのは梧桐の配慮。それをわかっていても、やはりそんな言葉を漏らしたくなる。
黒い傘に弾かれる雨粒。
その傘の柄の部分には梧桐勢十郎と彫ってある。
浮かんでくるのはあの無敵の笑い。囁かれる、声。
鳴り止まぬ雷のように、半屋の鼓動は高くなっていた。
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