ー 203号室 菊池譲司 古川光雄 −
「ここで、間違いないよな」
 オレ達の階より1階上にあるからといって特に何の代わり映えもしない廊下の、何の代わり映えもしないドアの前に和人が立っていた。
 オレが和人を見つけるとほぼ同時に、矢尾がエレベーターから降りてきた。
 ドアに耳を近づけても中の音は聞こえない。
 防音がしっかりしていると言うわけではないが、ドアの外から室内の声が聞こえることもなかった。
 オレはこんこん、と戸を叩いた。
 何だか胸騒ぎがして、小さく手が震えた。
 ぐっと左肩に人の手の感触がした。見上げるとオレのほぼ真後ろに岩永がいて、オレの肩を抱くようにしていた。
 ちょっと驚いて、でも背中に感じる人の体温が気持ちよくて、オレは今度は少し強く、ドアを叩いた。
 中からの返事はなく、ノブに手をかけても鍵がかかっていた。
「寮長を呼んでこようか?」
 和人がそう言って階段の方へ身体を向けた時、中から低い呻きが聞こえた。
 息を呑み、顔を見合わせる。
「柊二! 柊二! そこにいるのかっ!?」
 矢尾が激しく戸を叩き、叫んだ。
 何事かと周りの住人が顔を出す。
 しかし、問題の扉は一向に開かない。
「柊二っ!」
 もう一度矢尾が叫んだ時、ドサっと戸の向こうで何かが崩れる音がした。
 矢尾をオレの方に押しやり、和人が戸に体当たりをかました。
 2,3回それを繰り返すと、ばきっと嫌な音がして、戸が破られた。
「柊二!!」
 靴を脱ぐことももどかしく、矢尾が部屋に上がりこむ。
 そこでオレ達が見たものは、目を伏せたくなるような光景だった。

 体育会系のようながっしりとした体付きのこの部屋の主らしい男は、上半身裸で、床に膝をついて呆然としている。
 そしてその視線の先には本棚が崩れたのか、山積みになっている重そうな参考書類、辞書と、赤い、血液があった。
 呆然と立ち尽くすオレを他所に和人と矢尾が本の山に駆け寄った。
 1冊。
 たった1冊除けるだけで、下敷きになっている人物が誰なのが明白になった。
「柊二っ!柊二っ!!」
 手は2年生が締める色のネクタイで一つに縛られ、上半身は裸にさせられ、肌には赤黒い痣、頭からは、血が、流れていた。
「救急車を呼んでください!」
 すぐ後ろで岩永の声がした。野次馬な先輩たちの1人が慌てて自分の部屋に飛び込み、余程慌てたのか、携帯を手に再び飛び出してきた。
「借ります」
 その先輩が慌てているのを見て、岩永は携帯を奪い、119をコールした。
「柊二っ、しゅうじっ!!」
 叫び、目を開けない幼馴染みを揺すり起こそうとする矢尾を必死で押さえ、
「動かすな! 頭から血が出ているんだ! 矢尾!」
 と柊二から引き離す和人の姿が、現実のものとは思えなかった。
 ぼんやりとした不安。
 夢のような、もうすぐ目が覚めるんじゃないかと思えるような不安定さ。
 オレは何もすることが出来ず、そこに膝をついた。
 
 
 蛍光灯の灯りが清潔にされている廊下を白々しく照らしている。
 救急車が到着するまでの長い長い時間。
 柊二から離れた矢尾が、いまだ呆然とする上級生に「あいつの傷をえぐるなっ!」と掴みかかり、その顔に数発、拳を埋め込んで抑えられたのは夢だったのかとまで感じられる。
 柊二と共に救急車でここに来たのは矢尾と和人で、気持ちが昂ぶっていた矢尾は鎮静剤を打たれ、無茶をした左足を、もう一度検診されたらしい。
 オレはというと、岩永に手を引かれ、いつ呼ばれたのか、寮の前に止まっていた岩永のマネージャーが運転する車で救急車から十数分遅れてここに着いた。
 震えるオレの肩をずっと抱きしめていた腕があったと気がついたのは、頭に包帯を巻かれベッドに眠る柊二が「命に別状ない」と医師に言われた時だった。
 しかし、目覚める様子のない柊二の傍は離れたくなくて、柊二の両親、双子の兄さんたちが現れてようやく、オレ達はベッドの脇から離れた。
 柊二の病室はエレベーターから近いところにあり、オレ達はエレベーター前のソファに腰かけた。
 オレの隣には岩永が。向かいには鎮静剤の眠気でうつらうつらとする矢尾と、それに肩を貸す和人がいた。
 どうも病院と言うのは好きになれない。
 病院が好きと言う人も中々珍しいと思うのだが、オレは珍しくない方の人間で、この雰囲気、消毒液の匂いのする空気と妙な白々しさが苦手だった。
『ひっく、ひっく。…………ママぁ……』
 ふと脳裏に過ぎった子供の泣き声に、オレは顔を上げた。
 今と同じように消毒液の匂いのする廊下で、目の前の病室から出てきた子供を抱きしめるイメージが浮かんだ。
 なんだろう?と考えた時に柊二の病室の戸が開き、中から柊二の両親と兄弟が出てきた。
「ご迷惑をおかけしまして」
 柊二によく似た雰囲気のおばさんがオレ達に頭を下げた。
「柊二、は……」 
 目を2,3度瞬かせてから矢尾が聞いた。
「疲れていることもあるのか、まだ……」
 おばさんの表情は暗い。
「脳波も呼吸も安定していますし、すぐに目を覚ましますよ!」
 しんみりとした空気を看護婦が持ち上げようとする。
「そうですね」
 まだ若そうなおじさんが優しくおばさんの肩を叩いた。
「あらあら、面会時間はとっくに過ぎてますよ」
 エレベーターから上がってきた年配の看護婦がオレ達に声を掛けた。
「あ、すいません。じゃあ、失礼します」
 おじさんの言葉に柊二の家族は暗い空気を背負ったまま、年配の看護婦が出てきたエレベーターに乗り、降りていった。
「ほら、あなた達も! お友達はすぐに良くなるわよ!」
 若い看護婦の言葉に、オレは笑おうと努めた。
「帰ろうか」
 しかし、そう声を掛けても、矢尾だけはその場を動かなかった。
「矢尾?」
 和人が腕を掴むが、矢尾は動かない。
「柊二が目覚めるまで、ここにいたい」
 小学校の頃からの親友で、柊二にとって矢尾、矢尾にとって柊二は、傍から見ていても解るほどの誰よりも信頼しあう仲だった。
 矢尾がどれだけ柊二を大切にしていたかこの3年間でよく解っているオレと和人は複雑な表情で顔を見合わせた。
「完全看護ですんで、親族の方でも付き添いはお断りしているんですよ」
 申し訳なさそうに言う若い看護婦の言葉にも、矢尾は動こうとしなかった。
「……俺が、俺が悪いんだ! 俺が怪我なんかしなければ、病院なんて行かなければ、ずっと柊二の傍にいれば、こんなことにならなかったんだ。柊二が目覚めるまで、柊二が目覚めた時、傍にいたいんです!」
 若い看護婦に頭を下げる矢尾。
 若い看護婦は困ったように年配看護婦の方を見た。
「頭を下げられてもねぇ、困るのよぉ」
 こういう付き添い願いは何度も経験しているような風に、年配看護婦が矢尾の顔を上げさせようとした。
「どうしても、ダメですか?」
 ずっと頭を下げている矢尾の代わりに言ったのは、今まで沈黙を守っていた岩永だった。
「えっ」
 岩永の顔を見て、若い看護婦が年配看護婦の白衣を引いた。
「婦長! 岩永くんですよ、岩永マコト!」
「岩永マコト? あら! 「終焉」の結城 芳之(ゆうき よしゆき)役の!」
 婦長と呼ばれた年配の看護婦と若い看護婦が岩永の顔を見て、ひそひそと話す。
 芸能人なんだよなぁ、と改めて納得してしまった。
「マコトくんが、そう言うならねえ……」
「婦長! いいんですか!?」
「許可していただけますか?」
 岩永がもう一度言い、にこりと笑ったとき、二人の看護婦はぽーっと頬を赤くし、首を縦に振った。
 
 
 薄暗い部屋。
 ベッドが2つあり、片方は空だった。
 その空でない方のベッドの脇に、背もたれのない丸いパイプイスが二つ並べられた。
「じゃあ、オレ達はこれで」
 オレの言葉に、矢尾と和人はこっちを向き、小さく笑った。
 明るい廊下を岩永と並んで歩く。
「ありがとう、な」
 オレの言葉に、岩永はオレの方を向いて柔らかく微笑んだ。
 付き添いの許可は貰ったものの流石に4人も付き添うのは、という話になり、矢尾と和人に決まった。
 岩永はというとナースセンターに引っ張られ、サインやら握手やらを求められ、さっき解放されたばかりなのだ。
「こんなことしか出来ないからね」
 何を話そうにも言葉が出てこず、でもなんだか沈黙していたくなくてオレは言葉を吐き出した。
「なんかさ、オレは病院って嫌いなんだよなぁ。なんか独特の雰囲気があるしさ」
「そうだね。消毒液の匂いとか、なんだか妙に清潔なところとか、苦手な人多いよね。僕はそんなに嫌いじゃないけどな」
 2人で並んで病院を出ると岩永のマネージャーの車がまだそこにいた。
「佳巳さん……。もう帰っていいって言ったのに」
 岩永が車に駆け寄ると、うぃーんと運転席の窓が開いた。
「何言ってるの! 貴方は看板アイドルなんだから、きちんと送り迎えするのはマネージャーの仕事よ。熱狂的なファンとかに捕まって怪我でもしたらどうするの。さあ、乗って」
 良いマネージャーさんだなぁ、と思いながらオレも一緒に送ってもらった。
 また明日な、と言って岩永は和人の部屋に、オレは自分の部屋に入る。
 部屋の中には適当に丸められたオレの体操服が転がっていた。
 そういえば今日は球技大会だったんだ……。
 はるか遠くのことに感じられて、でも身体はその疲労を抱えていて、オレは倒れこむようにベッドに沈んだ。
 
 


オリジナルトップへ戻る BACK  NEXT

地下水トップへ戻る