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真白い世界の中。
これは夢なんだ、と解っている僕がいる。
いつも見る夢。
ママが、死んでしまった日の夢。
切なさに胸が締めつけられて、喉元に熱いものが込み上げてくる。
また、泣いてる。
泣いている僕を、遠くから見ている僕がいる。
だって、これは夢だもの。
僕はもう小学生だよ。
泣き虫は卒業したもん。
『もう、なかない?』
とことこと男の子が走ってきて、僕に飛びつく。
泣かないよ、僕、強くなったもん。
『ヤクソク、は?』
やくそく……約束?
『まこちゃん、わすれちゃったの? だから、とおくにひっこしちゃったの?』
男の子の顔が見えない。
泣いている?
君は、誰……?
『まこちゃん?』
ピピピピピピッと無機質な音を立てる目覚ましを止めてゆっくりと体を起こす。
頭がぼんやりしている。
「おはよう、なおくん……」
机の上に飾ってある写真の男の子。
毎日毎日見ていて、おはようもおやすみも言っているのに、どうして夢の中のなおくんは顔が見えなかったんだろう?
写真立てを手に取って、なおくんの顔を見つめる。
おむかいの山口さんちの尚輝くん。
明るくって、元気で、いじめられっ子だった僕を庇ってくれた、一つ年下の男の子。
僕より背が低くて、小さいはずなのに、いじめっ子の前に立ってくれるなおくんの背中は大きく見えた。
僕のママが病気で死んじゃったその日もずっと一緒にいてくれた。
ずっと僕を助けてくれた、支えてくれた、優しい男の子。
今度会ったときは、僕がなおくんを助けるんだ。
強い子になるんだもん。
お父さんのお仕事の都合で、僕は引っ越しちゃったけど、もうちょっと大きくなったら、僕が強い子になったら、なおくんと同じ学校に通わせてくれるってお父さんと約束したもん。
「真理(まこと)さん、学校に遅れますよ」
部屋の戸を開けずに家政婦の和子(かずこ)さんが声を掛けてくる。
「今行きます」
僕は写真を机の上に戻し、ランドセルを肩に掛けた。
「マコトくん、今年で卒業だっけ?」
「うん。来年から中学生になるんだよ」
控室にランドセルを置いて、撮影場所に行った僕にカメラマンさんが話し掛けてきた。
「この天使みたいに可愛いマコトくんが成長して喉仏が出て、髭が生えてくるなんて、あたし、信じられないわぁ〜」
深々と溜息をつくのはメイクさん。
「僕は強くて格好良い男になるんだよ。可愛いままじゃ嫌だもん」
なおくんより格好良くなって、なおくんを驚かせてやるんだ。
なおくんより強くなって、なおくんを守ってあげるんだ。
牛乳をたくさん飲んで、小魚をいっぱい食べてカルシウムを取って、運動して、筋肉をつけるんだよ。
「社長。どうかされましたか?」
メイクさんの声が変わる。あ、お父さんだ。
「マコト、新しい仕事だ。雨宮 涼平(あまみや りょうへい)監督の映画の子役だ。それと、今日からお前にマネージャーがつく。これからは行ったこともないようなスタジオの仕事も増えるし、1日に3つ以上の仕事に行くこともあるからな」
1日に3つ以上!? じゃあ、学校は? マネージャーって?
不思議そうな顔をする僕の前に背の高い女の人が現れた。
「初めまして、マコトくん。私は川上 佳巳(かわかみ よしみ)、今日から貴方のマネージャーよ」
僕は気が付いていなかった。
お父さんが本格的に僕を売り出そうとしていたなんて。
でも、これからは今まで以上に仕事が多くなるって言うことだけは、解った。
中学に入ってからは身長がぐんぐんと伸び始めた。
あれだけ大きく見えたカメラマンさんたちも、メイクさん達も、マネージャーの佳巳さんも、いつの間にか僕より小さくなっていた。
「アサダチ……って何?」
きょとんと目を丸くする僕に、クラスメートは悲鳴とも雄叫びともつかない声をあげて、騒ぎ立てた。
「うわー、流石は皆の王子様、違うなぁ」
「いくらアイドルでも、やることはやってんじゃねぇの?」
大はしゃぎするクラスメート。
有名になって、背も伸びて、女っぽさがなくなった僕をいじめる奴はいなくなったけど、あまり学校に行けない分、たまに行くとお客様か、さもなければ珍獣扱いだ。
「お前さぁ、ほんっとーに、知らねぇの?」
にやにやと笑う同級生。僕は首を傾げた。
「保健で習っただろ?好きな女の子の夢見たりとかさ」
「そうそう。夜見たエロ本思いだしたりとかさ」
「そういえば、こいつ、この間コンビニで買ったんだってよ」
「すげー。どう?良かった?」
「それがさー、肝心なところが見えなくって……」
わいわい盛り上がる同級生に、クラスの女の子が冷ややかな視線を送っている。
僕は溜息を一つついて、席から離れた。
好きな人っていえば、なおくん以外いない。
夢にも出て来る。でも、セイヨクがどうこうっていうのは、違うと思う。
だって、僕もなおくんも、男の子じゃないか。
なおくん、会いたいなぁ。
ー キーンコーンカーンコーン ー
昼休み終了のチャイムに、皆が慌ただしく席についていく。
そうだ、今度の木曜日、なおくんの学校に行ってみよう。
久しぶりになおくんに逢えるんだ。
なおくん、僕のこと覚えているかな?
「はい、今日はここまで。ここからここまでの練習問題やっておいてね」
殆ど行けない中学校のかわりに、佳巳さんが勉強を教えてくれて、僕はよく仕事場で勉強していた。
「佳巳さん、今日ってこれからオフだよね?」
そうね……と、佳巳さんが手帳をめくる。
今日は木曜日、最近木曜日といえば午前中にいつもラジオの収録が入ってる。
だから午後から学校に行くこともあるんだけど、大抵は仕事が終わってからこうして佳巳さんに教わって終わり。佳巳さん、学校の先生よりよっぽど教え方が上手いんだもん。
「明日、朝9時からポスター撮りがあるわ。ほら、日高製菓のアイスの」
「それまでは、何もないんだよね?」
嬉しそうに聞く僕に、佳巳さんがやれやれと溜息をついた。
「ないわよ。でも、解ってる?マコトくん。貴方は有名人なんだからね、ふらふら出歩いちゃ危険よ」
「わかってるよ」
お父さんの計画通りに顔と名前を売り有名になった僕は、素顔で街を歩けなくなった。
僕の顔のポスターがあちこちに貼られ、駅前の巨大スクリーンには僕が映っているCMが流れる。
文房具屋さんに消しゴム一つ買いに行くのも、変装しなければいけない。
もっともそういう文房具や日用雑貨は、佳巳さんや家政婦の和子さんが買ってきてくれるんだけど。
今日は人に任せてどうにかなることじゃない。
なおくんの行っている学校に行く。
なおくんに、逢うんだ。
「それじゃあね」
振り返って手を振ろうとした僕の肩に、ぽんと手が置かれる。
「何処まで行くの?車で送るわ」
車のキーを人差し指にかけてくるりと回す佳巳さん。
「ありがとう!」
僕は思わず笑顔になった。
「ここが皐月凉学園……」
なおくんの家から電車で3時間の羽勢駅から、徒歩15分。
傾斜が急な坂道を上ってようやく正門が見える。私立皐月凉学園。
小学校を卒業したなおくんは、春からこの学校に入学して、寮に入っている。
「ありがとう、佳巳さん。じゃあ、行ってくるね」
キャップを目深にかぶり、眼鏡をかけて、運転席の佳巳さんに手を振る。
なおくんに逢えるんだ。
ドキドキするなぁ。僕が幼稚園の年中さんの時だから……もう7年にもなるんだ。
7年の前のことなのに、なおくんと別れたあの日は、昨日のことのように思い出せる。
7年間、なおくんのことを忘れた日はなかった。
「すいません。学校を見学したいんですけど」
「じゃあ、このノートに名前を書いて。あー、家の電話番号もね」
「あ、はい」
門衛のおじいさんは僕が岩永マコトだって気が付かない。
結構、有名人なはずなんだけどなぁ。
まあ、いいや。
僕は出されたノートに「岩永真理」と書いて、家の電話番号を書いた。
どうせ出るのは和子さんぐらいだけどね。
「ああ、この札を持っていきなさい。不法侵入じゃないことの証拠になるから」
最近物騒だから警備がちゃんとしてるのかな。
僕は渡されたプラスチックのカードをポケットに入れた。
「ありがとうございます」
門衛さんにお礼を言って、僕は校舎に向かった。
ー キーンコーンカーンコーン ー
チャイムが鳴って、静まり返っていた校舎が騒めきに満ちた。
どこの学校も変わんないなぁ。
なおくんは1年生だから……どこだろう?
廊下をうろうろしていると、制服を着ていない僕が目立つのか、ちらちらと不審人物を見るような目で見られる。
あぁ、そうか、僕はキャップをかぶって、その上眼鏡までかけてたんだ。
怪しい人に見えても仕方ないね。
ここは男子校だし、そんなに騒ぎにはならないだろう。
僕はそう思って帽子を外して、ちらちらと僕を見ていた子達ににっこりと笑って見せた。
その時、わーっと遠くから歓声が聞こえた。
何だろう?
「喧嘩だ!4組の山口だって!」
「また山口かぁ!? 今度はなんだって」
「よくわかんねぇ、行ってみよう!」
山口?
もしかして、なおくんのこと?
違うかもしれない。
でも、目の前の男の子達のジャージには1年1組って書いてあったから……1年生の山口くんってことになる。
珍しい名字じゃないから違う人かもしれないけど、なおくんの可能性もある。
僕は声の聞こえたほうに向かって走り出した。
「大体なぁ、影でこそこそするなんてやり方が気にくわねぇ!」
聞こえてきた声に、足が止まった。
「うるせぇ!お前は関係ないだろ!」
「そうだ!隣のクラスからわざわざ来やがって!何様のつもりだ!」
「関係あるっ!柊二はオレの友達だ!クラスも何も関係ねぇ!」
なお、くん……。
幼稚園の時のまんま。身長はお世辞にも高いなんていえないけど、弱いものいじめや卑怯なことが大嫌いで、正義感が強くて、喧嘩も強かった。
なおくんの背中の後ろで怯えているのが僕じゃないのが不思議なくらい、あの頃のまんま。
「やる気かっ?」
睨み合いの均衡を崩したのは相手の方で、なおくんの顔面、目掛けて拳が繰り出される。
危ないっ!
そんな声も出せないような緊張感。
拳をよけたなおくんに二人目の蹴りが入る!
「3対1は卑怯だよな?」
ギリギリのところでそいつの腹に拳を埋めたのは茶色い髪の背の低い男だった。
背が低いと言っても、なおくんよりはちょっと大きい。
でも、なおくんと退治していた3人と比べると明らかに大きさが違う。
「矢尾!柊二を教室に!」
茶髪の男が教室の入り口で立っていた黒髪眼鏡の男にそう言って、一度なおくんの方を向いて、笑った。
それを合図にして、喧嘩の続きが行われた。
一瞬にも思えるような、時が流れ。
「先生、こっちこっち!」
生徒の声が聞こえて、ばたばたと先生が走って来たときには、もう、なおくんの前に立っている敵はいなかった。
蜘蛛の子を散らすように野次馬達が散っていく。
「山口!上田!何やってるんだっ!」
数人の先生が駆けつけてきて、倒れている生徒を起こし、なおくんと茶髪の男に怒鳴りつける。
「ケンカ」
なおくんの顔が嬉しそうに破顔して、隣の茶髪の男を見た。
ちく。
僕の胸が少し、痛んだ。
「とにかく、職員室まで来なさい。ほら、早く!」
「はーい」
不服そうな、でもどこか誇らしげな顔。
2人は先生の後について行きながら、顔を見合わせて笑った。
「……っ…………」
先生が僕の横を通りすぎ、なおくんが、横を、通り過ぎた。
一瞬だけど時が止まったかのようにゆっくりとした動きに感じられ、でも、その長い時間、僕の体は全く動かなかった。
声を掛けられなかった。
通り過ぎたなおくんが残した汗の匂いに、目の前がくらくらする。
これは、何?
僕はどうしたんだろう?
ドキドキと速い鼓動を打つ心臓。
顔は血が上っていて熱い。
「君、学校見学?」
先生らしき人に声を掛けられる。
「あ、はい」
ぼんやりとする頭でポケットから門衛のおじいさんに貰ったカードを見せる。
「慌ただしいとこ見せちゃったね……。えっと、あ、矢尾くん。この子に学校案内してあげてくれない?」
「……はい」
矢尾と呼ばれた男の子が近づいてくる。
なおくんと同じ制服。
同じ学年。
「ぼ、僕、もう、帰るんで、いいです!」
気が付くと僕の口からそんな言葉が飛び出していて、逃げるようにその場を立ち去っていた。
久しぶりに見たなおくん。
格好良かった。
僕より小さな体で、大きな敵に怯むことなく挑んでいく。
日に焼けた腕、首、汗の匂い。
体が金縛りにあったように動かなかった。
いや、動かしたら、なおくんを抱き締めそうだった。
それが解っていたから、僕の体は自分の体を動かなくしたんだ。
ドキドキする。
この気持ちは、何?
なおくんの隣にいた茶色い髪の男。
誰?どうしてなおくんの隣にいるの?
いらいらする。
喉の奥が熱くなって、泣きたくなってくる。
ちく。
胸が、痛む。
僕は…………なおくんが、好き。
僕もなおくんも、男の子なのに、おかしいね。
でも……好き。
ねえ、なおくん、僕おかしいかな?
その夜見た夢のなおくんは、幼稚園児のなおくんじゃなくて、中学生のなおくんだった。
なおくん、好きだよ。
にっこり笑うなおくんに手を伸ばす。
『ずーっと一緒だよ』
そう言ってなおくんがキスをくれる。
ドキン、と胸が熱くなる。
頭がぼーっとなって、夢中でなおくんを抱き締めた。
蘇るのは汗の匂い。日に焼けた肌。変わらない眼差し。
『まこちゃん、ばいばい』
しっかり抱き締めていたはずのなおくんはするりと僕の腕を抜けて、緑色の制服を着て、茶色の髪の男と嬉しそうに笑いあって、遠ざかっていく。
なおくん!
なおくん!
僕の声は届かない。
そこで、目が覚めた。
それから毎晩、なおくんの夢を見た。
最初は一緒にいてくれるのに、最後はいつも、あの茶髪の男と遠くに行ってしまう。
「岩永!」
顔をあげると、嬉しそうに笑う同級生がいて、初めてここが教室だったと思いだした。
「何?」
「いいもん貸してやるよ。兄貴のだから、絶対に返せよ?」
にやにやと笑っているのが気になる。
ぐっと押し付けられたのは茶色い紙袋。
開かないようにセロハンテープがベタベタと貼ってある。
「いいものって何?」
疑問を口に出してみても、その答えは返ってこなかった。
首を傾げた僕は数時間後、家に帰って、絶句した。
一見すると何処の家にもある普通のビデオテープ。
でも、再生ボタンを押した瞬間、裸の男女が現れた。
居間じゃなくて、自分の部屋でよかった。
和子さんしかいないけど、でもやっぱりびっくりするもの。
初めて見るエッチなビデオに、僕はちょっとドキドキした。
でも、ビデオの中の女の人より、なおくんの方がよっぽど魅力的……。
そう考えた瞬間に僕の体に電流が流れた。
ビデオの女の人が勝手になおくんに置き変わる。
抱き締めて、キスをして、それから……。
その日から、夢の中のなおくんは僕とエッチをしてくれるようになった。
後ろめたいような申し訳ないような罪悪感にさいなまれながら、僕は中3になっていた。
「最近、マコトくん、なんか色気出てきたね」
「前まで格好良いけどどこかお子様って感じだったけど、ぐっと大人っぽく、格好良くなったわよね」
「好きな子でも出来た?」
「そりゃあ、スクープだって」
撮影現場のスタッフが楽しそうに話す。
心の中はこんなにもなおくんのことでいっぱいなのに、笑顔を作らなければならない仕事が苦しい。
でも皆、気が付いているみたいだ。
流石はプロ。でも、好きな、女の子じゃないよ。
そう言ったら、どんな顔をするだろう?
自分の考えの下らなさに呆れる。
「マコトくん! 大変!」
控室にばたばたと入ってきたのは佳巳さん。
普段は大人で落ち着いている佳巳さんが大変というぐらいだから、すごく大変なのだろう。
「どうしたの?」
「ドラマの仕事よ!雨宮 涼平の息子の霧雨 紫(きりう ゆかり)の話題作!」
ドラマの仕事なんて今までも何本もあったし、雨宮涼平の映画にもいくつか出たことがある。
霧雨紫は聞いたことないけど、何故そんなに大変なのだろう?
「タイトルは『終焉』、マコトくんの役はその主役の大学生の男の子よ!」
「えっ?」
僕、まだ中3なんだけど。
そりゃあ、もう少し老けたように見えるし、ドラマの役の年が自分よりかなり上って事も何回かあったけど、大学生なんて出来るのだろうか?
「それに相手役は今、注目の癒し系女優の伊倉 瑠美(いくら たまみ)よ」
伊倉 瑠美って確か今、僕と同い年ぐらいだったはず。
芸能活動を始めたのが遅かったからそんなに芸歴は長くないはずだけど、確かに最近注目を浴びているらしい。
一度CMで共演したけど、別になんとも思わなかった。
だから相手役は別に良いとして、問題は15歳になったばかりの僕が大学生を演じられるかどうかということ。
「それと、もう一つ!」
「?」
「マコトくんが前から言っていた皐月凉学園への編入、社長が「仕事をしながら自分で受験勉強して勝手に入れ」って」
「本当に!?」
ドラマのことなんて本当に小さなことのように吹き飛ばされてしまう。
だって、なおくんが皐月凉に入学したって知った中2の春からずっと編入したいって言い続けてきたんだから。
秋にこっそりなおくんに会いに行って、この気持ちに気が付いてからはどうしても傍に行きたいという気持ちと、傍に行ったら大変なことをしそうで行きたくないという気持ちがあって、あまり皐月凉のことは言わなかったんだけど……。
「ただね、この仕事をちゃんとこなすことが条件だっておっしゃってたわ」
佳巳さんが複雑な表情をする。
普通に考えて、いくら外見が大人っぽくなったとはいえ、たかだか中学生の僕が大学生の役なんてできっこない。
でも、お父さんが入れとすすめていた高校にはあまり行きたくないし、なおくんの学校に、行きたい。
僕は息を吸って、吐いた。
やれる。大学生の役だって、社会人の役だって、なおくんの傍に行けるなら。
ハードな仕事の合間を縫って受験勉強をし、高校からは、たった10人しか取らないという皐月凉の狭き門をなんとかくぐれた。
皐月凉からの封筒が届いた日はわざわざ和子さんが携帯に電話してくれて、沖縄から最終の飛行機に乗って家に飛んで帰ったんだ。
でもせっかくなおくんと一緒の学校に通えるのに、なおくんは中学生、僕は高校一年生。体育館やグラウンド、特別教室は一緒だけど、教室は校舎まで違う。
それに、入学式の日は何とか行けたものの、次の日からは「終焉」や他のドラマの撮りで、1週間に1日ぐらい、2日行ければいいほうだった。
でも、なおくんが近くに感じられるから、僕は頑張れる。
なおくんが着ていたのと同じ皐月凉の制服。
あれだけなおくんを遠い存在に感じさせていたこの服が、今は逆になおくんとの繋がりを表しているみたいで嬉しい。
まだ、なおくんに逢いに行っていない。
『岩永マコト』が皐月凉に入学したことはニュースにこそならなかったものの、かなり有名になっているはず。今でも校舎を歩いていると驚いた顔をされたり、サインを求められたりする。
中学生のなおくんは、知らないのかな?
それとも、『岩永マコト』が『まこちゃん』だってわからない?
僕のことなんて忘れてしまった?
中学生の校舎に向かおうとしても、不安で足が動かなくなる。
それに、毎日のように見ているなおくんの夢の、罪悪感もある。
皐月凉に入って初めての夏休みも終わり、僕は職員室に呼びだされていた。
夏休み中は映画のロケで奈良の山奥にずっと篭っていたから面談もしていないんだ。
廊下を擦れ違う生徒達は皆、文化祭の用意で慌ただしく働いている。
いいなぁ。
春にあった球技大会や写生大会にも参加出来なかったんだ。
文化祭も、体育祭も、多分、無理。
準備の段階から全く手伝えないんだし、仕方ないよね。
「くそっ!」
不意に聞こえてきた声と、何かを叩く鈍い音に驚いてそっちを見ると、背の低い男の子が壁に握りこぶしをぶつけていた。
目はいっぱいに見開かれ、ぐっと歯を噛みしめている。
……なお、くん…………。
声が、掛けられない。
懐しさと、愛おしさで胸がいっぱいになって、深刻な表情に、全てが飲まれてしまって。
なおくんはこっちに気が付いていない。
僕は、一歩、足を踏みだそうとした。
「尚輝」
僕の後ろから茶色い髪の男がやってきた。
「かず……とぉ……」
握りしめられていたなおくんの拳が、ゆっくりとほどけて男の腕を掴んだ。
そしてそのまま、なおくんはその男の胸に顔を埋めた。
また、この男だ。
こいつ、誰?
なおくん……僕のことは、忘れてしまった?
そいつが、いいの?
痛い。
胸が、痛い。
喉元に熱いものが込み上げて、瞬きすれば涙が零れそうだった。
その場を立ち去ろうと振り返ったところに、黒い髪の整った顔立ちの眼鏡をかけた男が立っていた。なんだか、なおくんたちを睨んでいたみたい。
なおくん……。
「岩永、ちょっと欠席が多すぎるなぁ。いくら成績が良くてもこのままじゃ留年決定だぞ?」
締めつけられる胸の痛みを「痛くない」と自己暗示をかけて、「普通に元気」な演技で職員室に入った僕を待っていたのは担任の先生の困った顔だった。
留年?
来年も、高1?
なおくんと…………。
「留年、します。もう一回、一年生をやらせて下さい」
僕の言葉に先生が目を丸くした。
なおくんと同級生になりたい。
なおくんの隣に戻りたい。
でも、なおくんが僕を覚えてなかったら?
約束も、覚えてなかったら?
あの茶髪の男が好きだったら?
他に彼女がいたら?
そんなの、嫌だ。
僕は9年間、なおくんのことを思い続けて来たんだ。
でも、怖い。
なおくんが僕を覚えていないなんて……考えたくもない。
「なおくん」って言葉は封印しよう。
なおくん、と呼んで解って貰えないほど寂しいことはないから。
あの男が言っていたのと同じ呼び方でも僕を解ってくれれば、「約束」果たしてもらう。
ずっとずっと、傍にいるって。
ね、なお、き。
END
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