「あー!! タカシー!!!」
 遅刻して入ってきた山口の叫びに、俺の身体が小さく跳ねた。
 俺を呼んでいるわけではないだろう。バカ女の遺伝のせいか感じやすい身体を持って生まれてしまった俺は幼なじみの柊二にしか名前で呼ばせていない。
 山口には初対面の時に「絶対名前で呼ぶな」と言ってある。
 状況から察するに季節外れで珍しい、しかも女の格好をした転校生が山口の知り合いで、しかもタカシという名前だったというところだ。
 俺には関係ない話だ。
「あーっ!!!! タカシじゃねーか!!」
 後ろから叫び声が上がり、ガタンと大きな音がする。
 俺は耳を塞ぎたい衝動に駆られた。
 よりによって、こいつまで転校生の知り合いとは……。
 つい一昨日、騙し討ちのような形で抱かれた身体は奴の呼んだ名前に確実に反応を示していた。
 不覚だった。
 完全に油断していた。
 こいつを信頼していたなんて、なんて俺は甘かったのだろう。
 いくら失恋で落ち込んでいたからと言って、やすやすと抱かれてしまった自分が憎い。
「…………この学校へは愛する和人を追いかけて来ましたぁ」
 転校生が自己紹介をしたらしいが、考え事をしていた俺には最後の部分しか聞き取れなかった。
 いや、しかし、それだけでもう十分だった。
「和人ーやるじゃん!」
「よっ、色男!」
 次々とクラス中から冷やかしの声が上がる。
 俺と同じ名前の転校生が……上田を好き……?
 どうでもいいことじゃないか。
 いっそのこと、くっついてくれれば俺に被害が及ばなくていい。
 一昨日の晩のように、抱かれることもない……。
 ふと頭を過ってしまった痴態に身体が震える。
 許す許さないじゃない、怒る怒らないじゃない。俺は二度と上田に関わらない。
「和人ぉ、よろしくねっ」
 俺の横を長い黒髪が通り過ぎた。
「お、おい、隆史!」
 やめろ! 名前を呼ぶな!
 自分が呼ばれているわけじゃないと解っていても、耳元で囁かれた声が蘇り、身体が反応する。
「和人ー、もう新しい嫁さんかー?」
「にくいねぇー」
 振り向いて上田を殴り倒したい。
 机の上に肘を突いていた腕が小さく震え、拳に力が入る。
 いっそのことくっついてくれれば、と思ったことを取り消そう。
 絶対にくっつくな。
 至近距離でタカシ、タカシと連呼されたら、俺の身体が持たない。
  
  
 
 ガタンっと大きな音を立てて立ち上がってから、俺は自分が立ち上がったのだと気が付いた。
「……矢尾」
「もう少し静かにしたらどうだ。クラス中に響き渡ってるぞ」
 出てきた言葉はそんなもので、俺は振り向かずに廊下に出た。
 もうすぐ授業が始まることもあって廊下には慌てて移動教室に向かう奴等ぐらいしか居なかった。
『それに俺の好きなやつは、』 
 あの後、上田は誰の名前を言おうとしたのだろう?
 多分自分の名前だと思うと、胃がムカムカする。
 小学校の時に子安って転校生と結婚の約束してただぁ?
 小学生にもなれば男同士で結婚できないことぐらい解るだろ。
 いちゃいちゃいちゃいちゃしやがって、隆史、隆史って何度呼べば気が済むんだ!
 俺に嫌がらせしてるんじゃないかとまで思える。 
ー キーンコーンカーンコーン ー
 チャイムの音で教室に戻る。後ろから2番目の俺の席は当然後ろの扉から入ったほうが近い。
 上田の横を通るのは嫌だが、前から入って自分の席に着くまでに真後ろの上田の顔が見えないはずがない。
 奴の顔を見るぐらいなら横を通ったほうがましだ。
 俺はすたすたと上田の横を通りすぎ、自分の席についた。
 この時ほど隣が岩永で良かったと思ったことはないだろう。他の奴等なら絶対にさっきの上田の話を持ちかけてくるに決まってる。
 俺はぱらぱらと古典の教科書をめくった。
「では、今日は25ページの2行目から。矢尾くん」
「はい」
 いらいらとしている間に久川がやって来ていて授業が始まっていた。
 俺は教科書を持って立ち上がった。
「宮もあさましかりしをおぼし出づるだに世とともの御もの思ひきなるを、さてだにやむなむ、と深うおぼしたるに、いと 憂くて、いみじき御気色なるものから…………」
 源氏物語が好きな先生は学校に2人ぐらいは必ずいるもんだ。
 久川はその1人でこうしてこの教材を使っている。
「……またいかなるにか、と御心動かせ給ふべかるも、恐ろしうのみおぼえ給ふ」
「はい、そこまで。流石は矢尾くん、しっかり予習してきてあるのね。座っていいわよ。この場面は……」
 久川の声で俺はようやく腰を下ろした。
 義理の母親を好きになって勝手に抱いておいて寂しい寂しいと泣き伏してるんだから、最低なやつだな、光源氏も。
 義理の息子に抱かれる女も女だけど。
「じゃあ、今読んで貰ったところに二つ歌が出てくるけど、初めの方の意味を、上田くん」
 久川の言葉で後ろのやつが立ち上がる。
「はい」
「一度読んでから意味を言ってみて」
「見てもまた あふよまれなる 夢のうちに やがて紛るる わが身ともがな」 
 奴の低い声が上から降ってくる。
 まずい、こんな静まり返っているところじゃ、声を聞いただけなのに身体が反応する。 
 これが久川じゃなくて他の教師の授業なら、私語をかわしたりしているやつがいっぱいいるから誰が発言していようと教室中にその声が響くなんてこともないのに。
 抱かれていたときに聞いた低い声がしんとした教室に満ち、とりわけ俺の周りを包んでいるように感じる。
 やめろ、やめてくれ。
「『あうよ』には逢う夜の意味と「世が合う」という夢が現実になるという意味がかけられていて、藤壺に逢っている、この恋の夢の中で溶けてしまいたいという意味が込められています」
「そう、それと『見る』『逢う』『夢』は縁語になっているわね。この歌の前に出て来ている『くらぶの山』が歌枕になっていて……」
 歌の説明を補足する久川。久川が座っていい、というまでは決して座ってはいけないことになっているから当然、上田は立ったままだ。 
 立っていることで息は遠くに聞こえるが、その威圧感と存在感に、俺は自分の腕でぎゅっと身体を抱き締めた。
「ということで、光源氏がどれだけ藤壺を思っていたのかが解るのよね。皆さんももう高校生ですから、恋をしたことない人なんてあんまりいないでしょうけど、夢の中で溶けてしまいたいと思うほど好きになるって凄いことよね。上田くんはそういう恋はしたことある?」
 俺の目が大きく見開かれた。
 何てこと聞くんだ、このババアは。
 いくら生徒だからって、これは完全なセクハラだ。
 俺の思いとは裏腹に、上田が息を吸い込んだのが聞こえた。
「してますよ、今」
 あの整った顔で笑ってやったのだろうか、久川が少し赤くなりながら、若いっていいわね、と言い、席に着くように指示した。
 音を立てることなく席に座った上田に、子安が何かを囁いた。
 転校生のこいつは私語をしているだけで教室の前に立たせる久川の厳しさを知らないのだろう。
「俺が好きなのは、矢尾貴志。俺の前の席の奴だよ」
 俺の耳にそんな声が飛び込んできて、俺はびくっとしないように身体を押さえた。
 ちらりと前を見ると久川は山口をあてていて、ちゃんと予習をしてこいと説教しているところだった。
 横の岩永はそんな山口を心配そうに眺めている。
 上田の声が聞こえたのは、俺と子安と、上田本人だけだったのだろう。
 ほっとすると同時に恥ずかしさが込み上げてきて、力が入ったシャーペンは、ぱきっと芯を飛ばした。 
 
 


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