| 検証:関ヶ原 (Verify:The war of SEKIGAHARA) |
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科目番号:4000
開講年次:4 単位数:2
江牟礼安芸守
西暦1600年、慶長5年の9月15日(現在の10月21日)、天下を二分する大合戦・関ヶ原の合戦が行われたことは、皆さんも周知の通りであろう。しかし、多くの人は「関ヶ原」という合戦の名前を聞いたことはあっても、その内容までは知らないだろう。日本史の授業でも、担当教員がよほどの好き者でなければ詳しい話など聞けるはずもない。しかし、それではあまりにももったいない。というのも、この関ヶ原の合戦をもって徳川幕府成立の足がかりとし、のちに江戸幕府270年の基を築いた戦いであるからだ。また、そうした歴史的な価値を考えるのも一つだが、単純な「人間ドラマ」としてこの合戦を見やるのもまた一興である。実に様々な人間が、それぞれ様々な役割を演じ振る舞う。そして、その帰結するところは常に一つ。ここに歴史の妙があると思うのだが、皆さんはどう思われるだろうか。
1.豊臣政権の成立と衰退
関ヶ原の合戦の主役となった東西両軍。その陣容・人間関係を語る上で、豊臣政権下における人々の役割・立場についての記述は、外すべからざるものであろう。ここではその豊臣政権の成立と衰退を見ながら、各人物の相互関係などを洗い出していく。
2.秀吉死亡
豊臣政権の主宰者・秀吉の死亡により、政権の中枢部は大きく揺らいだ。すなわち現存する勢力である豊臣派と、政権奪取を狙う勢力である徳川派による派閥争いである。それがやがて関ヶ原、大阪の陣へと繋がっていくわけだが、その転機となった秀吉の死亡。このことについて、政治的意義を中心に話を進める。
3.会津・上杉景勝の討伐
陸奥・会津120万石を領有する上杉家。三成への友誼から、この家は西軍方につくことになった。そうした関係を背後に、時の上杉家当主・景勝は家康の発した上洛要請に応じなかったため、会津討伐へと発展したわけである。ここでは会津討伐へ至る経緯と、歴史の次なるステップへと繋がる、一つの歯車としての価値を浮き彫りにする。
4.三成の挙兵と小山の評定
会津討伐により、軍事的に真空状態となった京・大坂。その間隙を縫って、三成はついに挙兵を敢行する。総大将に戴くのは安芸・120万石を領する毛利輝元。その「三成挙兵」の報は直ちに家康の元に届き、今後の東軍の進退を決定するために、かの有名な「小山の評定」が行われた。ここではその評定について重点を置き、話を進める。
5.家康の工作、各地の情勢
物事を、自分の思う結果へと結実させるために必要不可欠なる裏工作。家康の勝利の影には、実に多くの調略があった。それら一つ一つについてひもときながら、また同じ時間軸で全国各地に起こった戦闘についても解説を加える。
6.関ヶ原前哨戦・岐阜城攻め
小山の評定で豊臣系大名の協力を得た家康。自身は江戸城にあり、先発隊を尾張・清洲城に送りこんだ。そうして、織田秀信(信長の嫡孫)の守る岐阜城攻めが始まり、家康自らの出陣へと繋がっていく。今回はその攻城戦について解説をする。
7.徳川秀忠隊の遅参
徳川家の主力を率い、中山道を進行中であった徳川秀忠隊。しかし、信州・上田城に籠もる真田昌幸に行く手を阻まれ、関ヶ原に遅参するという大失態を演じた。ここでは、秀忠が率いていた徳川家主力部隊の内容と、その軍事的・政治的役割を元に「秀忠遅参」が及ぼした影響について述べる。
8.赤坂・大垣の睨み合い
関ヶ原の合戦前日、家康は岐阜を発ち赤坂の陣所へ入った。大垣城に拠り籠城の構えを見せる西軍。家康は秀吉とは対照的に、城攻めを不得手としていたため、平原における会戦での一大決戦を望んでいたのである。結果としては家康の思う壺へ落ちたわけだが、そこに至るまでの過程を浮き彫りにする。
9.関ヶ原の合戦〜両軍の陣容〜
慶長5年9月15日、東軍7万、西軍8万、計15万余という空前の大兵力をもって関ヶ原の合戦が幕を開ける。ここでは、両軍の位置関係、陣容を中心に合戦時の相互関係を明らかにする。
10.関ヶ原の合戦〜両軍の衝突〜
豊臣政権の凋落、徳川幕府勃興を決定付けたとも言える関ヶ原の合戦。その成り行きについてつまびらかなる解説を加える。
11.戦後処理〜西軍諸将の処置〜
世紀の大合戦は、夜明けから日暮れを待たず決着がついた。そして、西軍に与した諸将に対し厳しい処置がとられる。ここでは、各大名家にとられた処置について解説をする。
12.戦後処理〜東軍諸将の処置〜
西軍諸将の大幅な改易・減封により、東軍諸将には莫大な領地が新たにあてがわれることになった。その配置・石高について、政治的な意味合いをも含めた解説をする。
13.徳川幕府成立と権力の二元化
1603年、家康は朝廷から征夷大将軍の宣下を受けた。しかし、関ヶ原の合戦を「豊臣家の長老として逆臣を討つ」という名目の元に行った事実より、家康の立場はいまだ「豊臣家大老の筆頭」でしかなかった。そのため生じた二重公儀体制、ここではこの時期における、徳川・豊臣両家の微妙な関係について述べる。
14.大坂の陣と家康の赤心
大坂の地を舞台に行われた大坂冬・夏の陣。この戦いに敗れることにより、豊臣家は滅亡した。ここでは、大坂の陣に至るまでの過程と戦いの模様に触れながら、家康の本心について考察する。