CRAZY NIGHT,CRAZY MOON
どうして。
初めに脳裏をよぎったのは、単純な疑問だけだった。
どうして。どうして。
何故自分がこんな目に会わなくてはいけないのだろう。
何も変わらない1日が始まるはずだったのだ。
あの扉が開くまでは。
「・・・え、して・・下さい」
自分でも酷い声だと思った。
ガラガラに擦れ、弱ゝしく縋る様にしか出ない声に情けなさを覚えるほど、
今の自分には以前の自我の強さは残っていない。
「何だって?」
それでもなんとか頭の中を襲う、抵抗しがたい闇を振り払い、目の前のソファに
くつろいでいる男へと意識を向ける。
「私を・・・帰して下さい・・・っ」
自分の居るこの家が、どこにあるのかすら分からない。
すでにここへ連れてこられる前から、意識は失っていたのだ。
ただ一つ確かなのは、男はここから自分を帰すつもりはないだろう、ということ。
しかし、それに従順に従えるほど、まだ希望を捨てたわけではなかった。
「お願いですから・・・私、を・・・帰して・・・」
「それは無理な相談だな」
冷酷ともとれるほど淡々とした彼の口ぶりに、ある種の恐怖を覚える。
「お前を今帰したら、あの男の所へいくんだろう?年上の恋人のところへ・・・」
何も言葉は返せなかった。
ただとにかく、ここから連れ出してもらえるなら、どんなことをしても構わない。
そう思った。
「・・・っ」
「そんなこと、出来るわけないだろう」
この人は、こんな人間だったろうか。
少なくとも、今までの自分の認識には、彼にこんな狂気的な面があるなんて、知らなかった。
自分が、変えてしまったのだろうか。
そう思い立った時、何かおぞましいほどの感情に全身が襲われるのを感じた。
「オ・・・スカー・・・様・・・っ」
「やれやれ。まだ諦めてないのか?」
終わりの無い、時間の流れをも止めた彼のその想いは、自分の存在の所為なのだろうか。
彼を暗い狂気へと導いたのは・・・。
+ + + + +
いつもと変わらない朝だった。
女王試験も無事終わり、他の研究員達と自分の研究室へ戻ってきた後、
それまでと変わらない生活を毎日送ってきたのだ。
星を観て、それを記録する。
傍には、誰にも変えられない友がいて。
幸せな時間だけ、通りすぎていった。
毎日に不安などは感じていなかったのに。
ある朝。
いつものように研究院へと出勤したエルンストは、専用のコンピューターの電源を入れ、
腕の中の関連の資料をサイドデスクに置くと、まだ誰も来ていない部屋を
ぐるりと見回した。
特に異常はない。
それを確認すると、他の研究員たちが訪れるまで、しばし自分一人の時間へと
没頭する。
視線の先には細かく書き詰められた文字の並ぶ書類。
自分で煎れたコーヒーを片手に、それらの文字に目を通していた時。
ふいに、扉の開く音がした。
気がついてはいたが、エルンストは視線を文字から外すことはせず、
「ロキシー?今日はいつもよりはやいのですね?」
年上の同僚へと語りかけた。
返事はない。
ただこつこつと自分のほうへ無言で歩み寄る靴音を聞きながら、エルンストは
返答の無いことに不審な顔をして、先ほど入ってきた人間へと初めて視線を向けた。
先に視界に入ってきたのは赤。
その人間が誰であるかを認識して、エルンストは驚きの表情を浮かべた。
「・・・オ・・・スカー様・・・?!」
ここにいるはずのない人物を確認すると、それ以上何も言葉は出ない。
オスカーはそんなエルンストの反応にも眉一つ動かすことなく、彼の目の前まで
近づいた。
「・・・久しぶりだな」
そうして、笑みを浮かべる。
「どうして、貴方がここにいらっしゃるのですか?」
彼は守護聖なのだ。
本来なら聖地で執務についていなければならないはず。
それがどうして、この下界に降りてきているのか。
「ちょっとな。用事があったのさ」
「用事?下界の様子を観にいらしたのですか?」
守護聖が時々、そうやって一般人のような格好をして、様子を見に来ている
らしいことは、女王試験に関わっていた時、聞いたことがある。
「まあな。そんなところだ」
彼のその様子に、エルンストは納得する。
「でしたら、もう少しここでお話していかれませんか?聖地でもお話した、私の同僚が
そろそろ出勤してくるはずですので・・・」
その言葉を聞いた瞬間、オスカーの表情に険しいものが走る。
エルンストはそれに気付くことなく、オスカーの分のコーヒーも用意しようと席を立ちあがった。
「・・・そいつがお前の「年上の恋人」か?」
「え?」
不意に後ろから掛けられた声に、エルンストは思わず振り返る。
その瞬間。
エルンストの鳩尾に、オスカーの拳が入った。
「ぐ・・・っ・・・」
僅かなうめき声を残して、エルンストはそのまま気を失ってしまう。
完全に失神しているらしいことを確認すると、オスカーは、彼の身体を抱き上げ、
誰もいない研究院を一度見まわすと、そのままくるりと踵を返し、もと来た
扉へと向かって歩き出した。
+ + + + +
「どうして・・・こんなこと・・・っ」
「どうして?」
さも当たり前のことのように、オスカーは不思議そうに笑う。
「好きだからさ。愛しているからに決まってるだろう」
そう笑って語る彼に、正気はない。
「だからといって、こんな・・・っ」
必死で食い下がるエルンストに、オスカーはそっと腕を伸ばし、頬に手を当てて優しく
語り掛ける。
「お前を愛しているんだ。だからこうして一緒にいたい。当たり前のことだと思わないか?」
「私は・・・私にはその気はありません!」
「ロキシーがいるからか?」
予想していなかった問いに、エルンストは言葉を無くす。
「あいつはそんなによかったのか――――」
言葉が終わる前に、エルンストの手のひらが飛ぶ。
オスカーは打たれた頬を押さえ、彼のほうに再び向き直った。
瞳には狂気。
エルンストは心底、恐怖に襲われていた。
「お前・・・。もう、逃げられない」
その言葉にビクリと震える。
「悪いな・・・。もう、離してやれないんだ」
愛情と。
狂気の。
違いは、どこから生まれるのだろうか。
純粋で強いこの想いを、間違いに気付かせてやれるのは、一体何なのだろう。
自分には、わからない。
それを知る術すらないのだ。
この、時間に見放された空間では。
再び自分へと圧し掛かってくるオスカーに、すでに抵抗することも忘れ、
エルンストはそんなことをぼんやりと考える。
誰か。
誰でもいいから、この人に時間の流れを取り戻して欲しい。
全てを捨てて、閉じられた未来を選んだこの人に。
脳裏に浮かんだのは、年上の金髪の人。
またいつか会えるだろうか。
会わせてもらえる日が、これから先来るのだろうか。
慣らされた身体が理性を手放さないでいられる時間は、もう少ない。
弄られながら、自分を選び、そして闇へ堕ちた人を、初めて抱きしめる。
これから、享受されるであろう運命を予測しながら。
endless end...