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おもしろ歴史感

・林羅山・・・江戸初期の儒学者。徳川家康から家綱まで四 代の将軍に仕え、外交文書や諸法度の起草にもあたった。日本の朱子学を確立さ せた。

林羅山は、どうして徳川家の御用学者になれたのか?

学者は一般に、世間知らずで世渡りが下手といわれるが、こと林羅山に限っては 、そんな傾向はどこにも見られない。彼が当時、儒教の中では異端とされていた 朱子学に目をつけたのも、義を重んじ、君臣の道を説くこの朱子学が、封建政治 擁護の理論として、いかにもふさわしかったからではないか。このため朱子学は 、長期安定政権を目指す徳川幕府に他派を押しのけて採用され、彼もめでたく幕 府に就職することになるのである。
徳川家には、お抱えの儒者は坊主になるという風習があり、羅山ももちろん頭を まるめた。これは便宜上とはいえ、中江藤樹が彼を非難したように、「儒者には あるまじきこと」だが、羅山にとっては、幕府に雇われるという大事から見れば 、こんなことなど、ほんの小事にすぎなかったようだ。
以後、250年の長きにわたって、林家は幕府の保護を受けている。ふつう学者 の登用は1代限り、子供によほど学力があれば、また採用されることもあるが、 羅山の子孫が秀才ぞろいだったにせよ、異例の厚遇ぶりだ。これには、幕府が羅 山に大きな借りがあったことが関係しているようだ。というのは、彼は家康の命 を受けて、徳川家に箔をつけるため、ニセ系図作りというきわどいことをやって のけているからだ。
徳川家の祖先は上州新田郡徳川村出身で、「鐘たたき」と軽蔑されていた時宗の 遊行僧。これが諸国放浪の末、三河国に住みついて、徳川氏の祖となったのだが 、これでは天下の将軍家の権威も何もない。そこで羅山は博識ぶりを発揮して、 新田郡に目をつけた。新田義貞の子義興(よしあき)に隠し子がいたことにし、こ れを徳川家の祖先にでっちあげたのである。徳川氏のルーツを清和源氏嫡流と結 びつけたのだから、これには、家康もさぞや喜んだことと思われる。
だが、しょせんニセ系図はニセ系図、この秘密を守るために、徳川家は林家に大 きな負い目をしょってしまったのである。

・柳生宗冬(やぎゅう むねふゆ)ーーー江戸時代の大名。飛騨守と称する。独眼流で知られる十兵衛の弟で、十兵衛の後 、柳生家を継ぎ、徳川家の兵法師範役をつとめた。

柳生宗冬は、なぜ、15才にして総入れ歯となったか? (ニューハーフな剣豪!?)

「虎は死して皮を残す」というが、徳川家の剣術指南役・柳生宗冬が残したのはなんと入れ歯。彼の菩提寺の東京・下谷 の広徳寺から発掘された総入れ歯は、つげの床に歯はロウ石 で、材料の点を除いたら、まったく現在のものに近いという 精巧なもの。それにしても、入れ歯の剣豪とは、なんともしまらない感じがするが、彼は、寛永12年(1635)、わずか15才で総入れ歯にしている。しかも、悪くもない歯を 抜いて入れ歯にしているのだから、おかしな話だが、彼が若くして入れ歯にせざるえなかったのは、実は柳生家に生まれ たがためだったようだ。
柳生家の出身地奈良県添上郡柳生村は、月ヶ瀬渓谷をはさんで、伊賀の山地と隣あっている。伊賀といえば、忍者の里だ が、こんな地理的関係上、柳生家も忍者とは縁が深く、代々 の当主は、将軍家に剣を教えると同時に、忍者の役目も果たしていたのである。宗冬の先代十兵衛が若い頃、武者修行として、全国を放浪したのも、諸大名偵察のためだった。
宗冬も、忍者として変装の必要上、入れ歯にしたわけで、黒い歯の入れ歯まで用意している。当時の女性はお歯黒をしていたから、これは女装用だが、この剣豪、どんな顔をして、 女になりすましたやら。

・沢庵(たくあん)−−−江戸初期の臨済宗の僧。京都大徳寺の住職だったが、幕府の寺院政策を批判して山形にながされる。のち許されて、家光、柳生宗矩などの帰依を受ける。

沢庵和尚が日本全国の寺を荒らして回ったのはなんのためか?

吉川英治の小説『宮本武蔵』の中で、武蔵に重大な影響を与えた人物として描かれている沢庵和尚は、武蔵と同様もちろん実在の人物で、「沢庵漬け」などにも名を残すように、庶民的人気も高い高徳の僧だった。
その偉大さを伝えるエピソードには事欠かないが、僧侶の教育、しかも修行中の僧だけでなく寺を構えてその中におさまりかえっている僧たちの、いわば、”生涯教育”に果たした役割も、見逃せない功績の一つだ。
仏教の学校で、僧達が受ける試験に「問答」というのがある。「禅問答」ともいわれるように、禅宗の僧にとっては、大切な修行の一つで、学校だけでなく、各地の寺を巡り、「問答」を挑みながら、僧としての修行を積んでいくのである。江戸時代には、この「問答」は武士の武者修行や道場荒らしのような厳しいものがあった。寺の住職は、修行僧から「問答」を挑まれれば断ることはできず、もし敗れたら、寺を明け渡さなければならなかった。
沢庵和尚は、この「問答」による寺荒らしを、大徳寺ほかたくさんの寺を持つようになってからも、積極的に行った。沢庵ほどの”達人”になると大抵の場合、”道場主”である住職に勝ってしまい、名目上は、その寺は沢庵のものになる。しかし、彼はその寺の住職を小僧にすることにして、住職にそのまま寺をあずけていった。つまり自分自身のさらなる修行のためもあっただろうが、住職として一家を構えてしまった僧たちが、つねづね修行を怠らないよう、再教育して歩くのが目的だったともいえるのである。
72才で死ぬまで、一生のすべてが沢庵にとっては修行であり、死後は無に帰すとして、墓石には何も彫らない漬け物石同然の石ころを置かせた。ここから、石の重しで漬ける漬け物を「沢庵漬け」と言うようになったというが、沢庵和尚、死んでまで人々に教訓を残したことになる。

・庄司甚内(しょうじじんない)−−−武田家に仕えた忍者。武田家滅亡後、江戸に出て、元和6年(1620)幕府から官許の遊廓を作ることを許され、吉原遊廓の名主となった。

庄司甚内は、忍者を失業後、どうやって華麗なる変身を遂げたのか?(吉原成立の謎)

信長、秀吉、家康三代にわたる天下統一の課程で、多くの大名がつぶれ、失業武士が急増した。彼らの再就職への道はきびしかったが、これは特殊技能者の忍者とて例外ではなく、 やむなく技術を生かして強盗団を結成、江戸の町を荒らしまわっていた。おかげで江戸の治安は悪く、幕府は頭を痛めて いたが、ここに一人の知恵者が現れた。鈴が森の遊女屋の亭主、庄司甚内で、「犯罪者は遊廓に集まる習性をもっている。だから彼らを有効に取り締まるには、江戸中の遊女屋を一ヶ所に集めるのが得策」と幕府に進言した。
彼が犯罪者の習性に通じていたのも、「蛇の道は蛇」の諺ど おり、彼自身が武田家の忍者くずれで、一時は強盗の仕事に 手を染めていた過去もあったからだ。
しかし、いかんせん犯罪者に未来はない。そこで遊女屋に転身した甚内がさらなる飛躍をはかって行なった一大デモンストレーションがこの提案だった。彼の思惑どおり、幕府は彼に遊廓を作る許可を与えた。彼は、今の東京・日本橋に吉原遊廓を作り、遊女からは親父さんと慕われ、幸福な晩年を過ごしたそうだ。ちなみにこの吉原遊廓、後の明暦の大火で焼け、現在の台東区の地へ移転する。


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