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徳川三代
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徳川三代
徳川家康は、なぜ、側室を身分の低い女に限ったか。
徳川家康・・・江戸幕府の初代将軍。幼少時代は人質に送られるなど辛苦
をなめたが、信長・秀吉時代から卓抜した政治手腕を発揮
し、徳川300年の治世の基礎を築いた。
300年にわたる徳川の治世の祖徳川家康の、何事によら
ぬ緻密な計算、深謀遠慮は人のよく知るところだが、盛ん
だったという女性関係にも、この態度が貫かれていたよう
だ。
例えば、彼は、側室に決して身分の高い女、権勢を誇る家
柄の娘を迎えることをしなかった。そばにおいたのは、ほ
とんど身分の低い女であり、ときには夫に死なれて生活に
困っている未亡人を迎えたりもした。これはなぜだろうか
。
家康は、幼少の頃から人間関係では苦労を重ねている。今
川家に人質にとられている時に正妻築山殿と結婚して長男
信康をもうけるが、のちにこの母子が敵武田信玄と通じて
いるという噂がたったため二人を殺さなくてはならなくな
ったり、その後、秀吉の妹を無理に押しつけられて妻にす
るなど、不本意な経験もしている。そこから、一人の側室
を迎えるにも慎重なる彼一流の見識が生まれた。
つまり、身分のある女は、とかく政争の種になる。逆に身
分の低い女なら感謝されこそすれ、反感を買うことはない
。身分の高い女を迎えて自尊心を満たした秀吉とは対照的
で、「家治まって国治まる」の理を、よくわきまえていた
といえる。
なお豊臣家の滅亡の一番の理由が正妻北政所と愛妾
淀君の女の確執であった事を考えるとこうした歴史の裏事
情も見逃す事はできないのではないだろうか。
徳川秀忠は徳川15代中で、なぜ一人だけ正室の子に将軍
を継がせたか
徳川秀忠・・・江戸幕府の2代将軍。家康の三男。家康の偉業をついで、法令、組織の整備化をすすめ、キリシタンの取り締まりを
強化した。
徳川の歴代将軍は、色の道でも名だたる強者が多かったが
、その中にあって、2代目秀忠だけは意外な堅物だったと
いうことになっている。たとえばあるとき、父家康を隠居
先にたずねて数日逗留したことがあるが、家康は自分の若
い時を思いくらべて、何日も女っ気がないのはさぞ寂しか
ろうと、侍女の一人に因果を含めて、秀忠の部屋へ菓子を
運ばせた。すると秀忠は、かしこまって侍女を迎え、「大
御所さまのお使い、ご苦労にございます」と丁重に挨拶し
て侍女を送り返してしまったという。
こういう秀忠だったから、側室との情事にもかなり潔癖だ
ったようで、9人の子のうち、正室以外の女に生ませた子
はたった2人である。そして徳川15代のうち、正室の子
に将軍をつがせたのは、なんと彼一人であった。
なぜ秀忠がこれほどの堅物になったかは定かではないが、
上の息子は甘やかしすぎるからと、三男を世継ぎに選んだ
家康の厳しい教育を受けたためか、父の女好きに嫌気がさ
した秀忠の自制心によるものか、いずれにしても、結果と
しては、二代目という大切な時期に、徳川の正統を守る一
助にはなったといえよう。
徳川家光は、なぜ、正妻と一度も交わりを持たなかったか。
徳川家光・・・江戸幕府の三代将軍。秀忠の2男。武家諸法度や参勤交代による諸大名の制圧、鎖国令、天草の乱の平定などで徳川家隆盛のもとをつくった。
徳川三代将軍家光は、家康以来の江戸初期の名将軍として名が高いが、その女性関係では、徳川15代の中ではやや特殊な位置にある。
というのは、正室に摂政鷹司(たかつかさ)家の娘房子を迎えるが、彼女とは生涯別居生活を送り、のちにもうけた7人の子はすべて側室に産ませた子だった。2代秀忠とはまったく対照的なおもしろい事実だが、なぜこんなことになったかというと、そこに彼の乳母で猛女として名高い春日局がからんでくる。
春日局はもと小早川家の家臣の妻だったが、新婚時代にすでに二人の賊を長刀で斬り殺したり、夫の情婦を呼び寄せて斬殺するなどの猛女ぶりを示し、家光の乳母の募集があると、さっそく応募して合格し、家光に徹底した厳しい教育を施した。そのおかげで、家光は将軍としては立派に成長するが、一方で女性にまったく関心を示さない男色家になってしまったのだ。そのため、正室はまったくの形ばかりの飾りものだったが、これでは世継ぎの問題もあり、まずいということになり、春日局は自ら側室を養成して家光に与えた。
こうしてはじめて、家光は女を知り、子をもうけることもできたのである。
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