三国志の兵法


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仮道伐カクの計
道を借りてカクを伐つ

「仮道伐カク」とは、小国の窮状につけこんでこれを併呑 する策略である。ただし、軍を動かすには、それなりの大 義名分がなければならない。相手が他国の攻撃を受けて救 援を求めているような時こそ絶好の機会だ。そんな時は、 ためらわずに軍を送って影響力を拡大し、機をみて併呑す る。そうすれば、国際世論の非難をかわしながら労せずし て勢力圏を拡大する事ができる。

大義名分を用いて弱者を飲み込む

仮道伐カクの計は。別称を”仮途減カクの計”ともいう。「韓非子」や「佐伝」に出典のエピソードが載っている。
「カク」は春秋時代に存在した国である。
紀元前658年、大国晋の献公は、このカク国を討伐しよ うと考えた。だがここに一つの問題があった。カク国にい たるためには、途中にある虞国の領内を通らねばならない 。
もとより、他国の軍勢を自国領内に入れ、あるいは通行さ せる国などあろうはずはなかった。とはいえ、カク国に加 えて、虞国までを敵にまわして戦うには、負担があまりに も大きすぎた。
さて、どうしたものであろうか、と献公が思案していると 大夫のジュン息が次のように進言した。
「曲産の良馬と垂キョクから出土した玉(宝石)を、虞国に 贈って領内通過を黙認してもらうのはいかがでしょうか。 」
二つの至宝を与えられよといわれて献公は渋った。万一、 宝は贈ったものの、通行を認めてもらえなければ、大きな 損失となるではないか。
「虞には宮之奇(きゅうしき)という忠臣もいる。思うよう には運ぶまい。」
献公は進言をしりぞけようとするが、ジュン息はなおもね ばった。 「たしかに宮之奇は立派な人物ですが、性格的には弱いと ころのある人です。決して、顔を露(あらわ)にしてまで己の意見を 主張したりはしますまい。それにかの人は、虞公と幼馴染 みとか。身内意識がつよければ、虞公は何の気がねもなく 宮之奇の忠告をしりぞけることでしょう。」
献公は折れた。ジュン息を虞国へ使者として派遣する。虞 公に謁したジュン息は二つの至宝を捧げて虞公を説いた。
虞公は至宝に目がくらみ領内通過を許したばかりか、虞軍 の兵を援軍として出す厚意を示した。無論、宮之奇は事の 危うさを諌めたが虞公は取り合わない。晋虞連国軍はこの 年の夏、カク国を攻めて下陽(かよう)を陥れた。
三年後、晋国はふたたび虞国に、カク国再征を口実に領内 通過の許可を求めた。
宮之奇は前回にも増し、執拗に諌言(かんげん)をおこなっ ている。
「カク国はわが国の城壁同様です。カク国が健在なればこ そ晋はわが国に野心を示さないのです。万一、カク国が滅 びるようなことがあれば、虞国も滅ぶでしょう。」
宮之奇はここで「輔車相衣、唇亡歯寒」の諺(ことわざ)を ひいた。
だが虞公はこうした諌言に耳をかさず、またしても晋軍の 自国領内通過を許してしまう。宮之奇は、もはやこれまで とみたのであろう、家族を率いて国外に亡命した。
「虞国は明年を待たずして、滅亡するであろう。。」
宮之奇の予言は的中した。この年、カクを討伐した晋軍は 勢いをかって、帰りの駄賃でもあるまいが、安心しきって 無防備であった虞国を、瞬時にして亡ぼしてしまった。 献公は「宝石はもとのまま、おまけに馬の大きくなったこ とよ。」と喜んだという。

この計略は、たとえ僅かであろうとも、他者に口実を与えてしまうと、取り返しのつかぬこととなる、との教訓である。 つまりは、強者が弱者を併合する策謀といっていい。しかも、この々仮道伐カクの計は、大義名分を立てることで、効率よく弱者をのみこむことを敢えている。

蜀に学ぶ弱者の領土経営術
では、仮道伐カクの計から逃れる方法はあるのであろうか。
諸葛孔明は、この謀計を三国志演義で見事うち破っていた。
赤壁の戦いののちである。戦局のどさくさにまぎれて、荊州(正確には南半分)を
占拠した劉備に、呉の孫権は繰り返し返還を求めてきた。
劉備にすれば、この地を失えば拠るべきところがなくなる。劉表の嗣子であった劉奇を
口実に使って逃げたこともあったが、その劉埼もあえなく病没。
次には、孫権の妹を妻に娶ったがそれでも呉の追及はやまなかった。
無理もなかった。呉は莫大な軍馬兵糧等を消費して、赤壁の戦いに勝利したものの、
荊州を獲得しなければ、実際の戦果を得た事にはならなかったからである。
劉備のもとへ、たびたび使者にたった魯粛は、『三国志演義』の世界では、その都度、
孔明の計略にかかり、呉の大都督・周瑜に、その軽率をたしなめられるのだが、その過程で、
次のごときくだりがある。
孫権の妹と婚姻した劉備に、あらためて魯粛が、荊州譲渡の件をもち出したところ、劉備は
嘆き悲しみの声をあげた。勿論、これは孔明の差しがねであったが、
声を洩らして泣く劉備に、魯粛が呆然とするところへ孔明が現れる。
孔明は劉備の泣く理由を、荊州を返すためには蜀を攻めとらねばならないが、
蜀の劉璋は漢朝の同姓。ゆえなく兵を入れては、主君劉備の不徳を世人に罵られ、
進退きわまったからだと説明した。
魯粛は、なるほどと一度は納得し、このときも空手で帰国の途についている。
が、途中、柴桑(さいそう)に駐留していた周瑜のもとに立ち寄って、ことの次第を話した。
すると周瑜は、またしても孔明に、一杯くわされたのだといい、劉備の涙は単なる遷延策で
あり、荊洲を呉に返還しないための言い訳だと見破る。
青くなる魯粛に、周瑜は一大秘策”仮道伐カクの計"を授けた。
魯粛はその足で再び劉備を訪ね、劉備の名で蜀へ侵攻するのがまずいのであれば、呉の
大軍をもって蜀を攻めるから、その節は、荊州を通過することと、多少の軍需品・兵糧を
補給する旨を確約してほしいといった。この時、劉備にかわって、孔明はこの申し出を
快諾している。
間もなく周ユが五万の兵を率いて、柴桑から荊州の夏口に上陸してきた。出迎えた糜竺 
は、軍需品・兵糧を準備して、劉備も荊州の城を出て到着を待っていると告げる。
だが、先触れの糜竺 が去ってからというもの、荊州城にいたるまでの問、
何処にも出迎えの将士の姿が見えない。
いぶかりながらも周瑜は、劉備が荊州を明け渡して逃げたと思い込んだ。
ところが劉備軍は、荊州へ深く周瑜を引き入れると、完全に包囲する態勢をと
っていたのであった。荊州城を守備していた遁雲は、周瑜を見おろしていう。
「わが軍師孔明殿には、はやくから都督の仮道伐カクの計”を見抜いておられたがゆえに、
それがしを此処に留め置かれたのだ」
ついでに記すと、周瑜はこれを開いて、あまりの口惜しさに矢傷が再び開き、それがも
とで、やがて生命をおとしている。
と三国志演義ではなっているが、実際周瑜の死因は不明であり、またこの計も実際は劉備との融和策をとる孫権によって実行されなかったという。 むしろ、これをうまく利用したのは、官渡の戦いの後荊州を攻めた曹操や劉璋にうまくつけこんだ劉備だといえそうである。

ソ連の出兵作戦

1968年、ソ連が自由化を求めるチェコスロバアに出兵 し、つかのまの「プラハの春」に引導を渡した時にも、同 様の手口を使っている。まず、ソ連は、出兵する三カ月前 東ドイツ、ポーランド、ハンガリー、チェコなど五カ国の 軍をチェコ領のボヘミアの森林地帯に集めて合同軍事練習 を行った。これは、侵攻の予行練習のようなもので、事実 三カ月後の侵攻ルートはこの地域から選ばれ、投入された 軍も練習に参加した部隊が先陣をうけたまわった。
侵攻にさいしても、迅速にプラハを制圧するため、まずプ ラハ国際空港占拠をはかった。まず、ソ連の輸送機一機が 空港上空にさしかかった時、機器に故障が発生したといつ わって、緊急着陸を求めた。空港側が国際慣行にしたがっ て着陸を求めたところ、機内から突然、武装した70名の 先遣隊が姿を現し、あっというまに空港を占拠した。そし てかれらは空港職員に通常どおりの執務を命じ、後続部隊 の着陸を円滑ならしめたのである。



実際問題大国から”仮道伐カクの計”を仕掛けられた場合これを回避するのはかなりの困難がつきまとう。これを回避する為には情報収集を率先して行い、他国と協調して大国につけいられないようにするのが肝要であるが、国の独立性を保ちながら、これができればまず名宰相といっていいだろう。