では、仮道伐カクの計から逃れる方法はあるのであろうか。 諸葛孔明は、この謀計を三国志演義で見事うち破っていた。 赤壁の戦いののちである。戦局のどさくさにまぎれて、荊州(正確には南半分)を 占拠した劉備に、呉の孫権は繰り返し返還を求めてきた。 劉備にすれば、この地を失えば拠るべきところがなくなる。劉表の嗣子であった劉奇を 口実に使って逃げたこともあったが、その劉埼もあえなく病没。 次には、孫権の妹を妻に娶ったがそれでも呉の追及はやまなかった。 無理もなかった。呉は莫大な軍馬兵糧等を消費して、赤壁の戦いに勝利したものの、 荊州を獲得しなければ、実際の戦果を得た事にはならなかったからである。 劉備のもとへ、たびたび使者にたった魯粛は、『三国志演義』の世界では、その都度、 孔明の計略にかかり、呉の大都督・周瑜に、その軽率をたしなめられるのだが、その過程で、 次のごときくだりがある。 孫権の妹と婚姻した劉備に、あらためて魯粛が、荊州譲渡の件をもち出したところ、劉備は 嘆き悲しみの声をあげた。勿論、これは孔明の差しがねであったが、 声を洩らして泣く劉備に、魯粛が呆然とするところへ孔明が現れる。 孔明は劉備の泣く理由を、荊州を返すためには蜀を攻めとらねばならないが、 蜀の劉璋は漢朝の同姓。ゆえなく兵を入れては、主君劉備の不徳を世人に罵られ、 進退きわまったからだと説明した。 魯粛は、なるほどと一度は納得し、このときも空手で帰国の途についている。 が、途中、柴桑(さいそう)に駐留していた周瑜のもとに立ち寄って、ことの次第を話した。 すると周瑜は、またしても孔明に、一杯くわされたのだといい、劉備の涙は単なる遷延策で あり、荊洲を呉に返還しないための言い訳だと見破る。 青くなる魯粛に、周瑜は一大秘策”仮道伐カクの計"を授けた。 魯粛はその足で再び劉備を訪ね、劉備の名で蜀へ侵攻するのがまずいのであれば、呉の 大軍をもって蜀を攻めるから、その節は、荊州を通過することと、多少の軍需品・兵糧を 補給する旨を確約してほしいといった。この時、劉備にかわって、孔明はこの申し出を 快諾している。 間もなく周ユが五万の兵を率いて、柴桑から荊州の夏口に上陸してきた。出迎えた糜竺 は、軍需品・兵糧を準備して、劉備も荊州の城を出て到着を待っていると告げる。 だが、先触れの糜竺 が去ってからというもの、荊州城にいたるまでの問、 何処にも出迎えの将士の姿が見えない。 いぶかりながらも周瑜は、劉備が荊州を明け渡して逃げたと思い込んだ。 ところが劉備軍は、荊州へ深く周瑜を引き入れると、完全に包囲する態勢をと っていたのであった。荊州城を守備していた遁雲は、周瑜を見おろしていう。 「わが軍師孔明殿には、はやくから都督の仮道伐カクの計”を見抜いておられたがゆえに、 それがしを此処に留め置かれたのだ」 ついでに記すと、周瑜はこれを開いて、あまりの口惜しさに矢傷が再び開き、それがも とで、やがて生命をおとしている。と三国志演義ではなっているが、実際周瑜の死因は不明であり、またこの計も実際は劉備との融和策をとる孫権によって実行されなかったという。 むしろ、これをうまく利用したのは、官渡の戦いの後荊州を攻めた曹操や劉璋にうまくつけこんだ劉備だといえそうである。