三国志の兵法


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称薦の計
称めそやして推薦する

曹操を追い払ったほめ殺しの秘策
曹操の本籍ははい国しょう県(安徽省はく県)である。
父の曹崇は"売官制度"-----賄賂や献金一億銭をもって、後漢帝国の「大尉」(軍事担当宰相)にまで登りつめた人物で、養祖父は四代の帝に仕え、「大長秋」(皇后侍従長)となり、列候 にも加えられたかん官の巨頭・曹騰であった。
曹操は環境にも恵まれ、なに不自由なく育ち、将来に有為の人材と評される反面、わがままで、強引であり、権術謀数を 弄する性格が、多くの人々に怖れられる理由ともなっていた。
ところで後漢の末期、官吏の採用試験「科挙」は未だなかった。しかしそのひな型ともいうべき制度は存在している。
「選挙」といった。これは六つの徳目−−−「賢良方正」、「直言」、「明経」、「有道」、「茂才」、「孝廉」ーーー によって、地方の郡の太守や国相、中央の大官が、これはと 思う"人材"を中央に推薦できる制度であった。
「孝廉」=孝心厚く"清廉な士"として、推薦を受けて中央政府の官僚となった曹操は、任官すると、直ちに都・洛陽県の 北部尉(北部地方の警察署長)に起用された。
曹操は赴任すると、役所の門を補修して、犯罪者の処罰用に使用される五色の棒を並べ立て、取り締まり強化の宣言を行った。
曹操はおよそ、手加減という事をしない男である。
今をときめくかん官派の大物でケンセキの叔父にあたる人物がたまたま夜間通行禁止令を破ってしまったときも、逮捕のために出動した曹操は、この人物を捕らえると容赦なく打ち すえ、あげくは叩き殺してしまった。
曹騰の孫、曹崇の子でなければ、おそらくすぐにでも逆襲されて殺害されていたであろう。都中は震えあがり、法令違反 者は激減した。
曹操を苦々しく思う都の者は多かったが、その背後関係をみれば、どうすることもできなかったようだ。そのおり、反曹操派で結束した朝廷の有力者が用いたのが"称薦の計"であった。
有力者の一団は口々に曹操を「称薦」(賞賛)し、より有能な手腕を発揮できる職責を与えたいとして、曹操を頓丘県( 河南省清豊西南)の県令に栄転させたのである。
つまり、体のよい追放であった。
とてもかなわないほど、手強い相手と対決した時、真正面から争っても 勝てぬなら、下手に出て相手を持ち上げ、いい気分にさせて追い払うと いう戦法がある。高度な敬遠とでもいえようか。
もっとも曹操の場合はやがて「議郎」(帝の顧問官)として中央に戻り 時代は「黄巾の乱」へと移って、官僚生活からも遠のいていくのだが・・・。
このやり口は、古来よりいろいろ用いられている。

司馬仲達も曹爽一族により太フに封ぜられ危機に落ちた事もあったようだ。



相手を持ちあげ、毛の先ほども不信をもたせず、それでいて態よく自分の前から去らしめるわけだ。それが結果として、相手の栄転であっても こちらの前から消えてさえくれれば、文句はない。


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