三国志の兵法
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まん天過海の計
天をあざむいて海をわたる
まん天過海の計
「まん天過海」とは、カモフラージュ(偽装)の手段を用いて相手をさそい、そ
れにつけこんで、勝利を収める策略である。やるぞやるぞと見せかければ、相手
も警戒を怠らない。ところが、やるぞというのは見せかけだけで、いっこうに行
動を起こさない。これを繰り返しているうちに、やるぞという構えを示しても、
相手はまたかと思って警戒しなくなる。そこで、相手の油断をみすまして、一気
に叩く。これが、「まん天過海」である。単純といえば、単純な策略だが、たく
みに、人間の心理の盲点を利用しているので、意外に成功する確率が高い
太史慈の機略
三国志の時代、呉の孫策に仕えた名将に太史慈という人物がいた。字は子義。そ
の若き日のエピソードに、次のようなものがあった。
後漢帝国末期、北海国の宰相である孔融が、駐屯地の都昌で黄巾賊の大軍に包囲
され、下手をすればせん滅を余儀なくされる、といった局面に追い込まれた。
太史慈は老母の命を受け、かって孔融から深い恩義を受けた事があったから、さ
っそく都昌にかけつけると、ひそかに城内に潜入して孔融と接触した。
「われわれが助かるためには、緊急を要する。近くの平原県に救援を要請するし
か方法はないのだが、包囲がかくも厳重では、どうすることもできない。」
ついでながら、この時点での平原県県令は、のちに蜀を興す劉備であった。
孔融の嘆きに太史慈は、いまこそ旧恩に報いるときとばかり、すすんで困難な使
者の役目を買ってでた。まさに、火中の栗を拾うに似ている。
しかし、太史慈にはそれなりに勝算があった。
まず、腹ごしらえをすませて、明け方を待った太史慈は、部下二人を従えて城門
を開いた。すわ、脱出か、と黄巾賊の兵が色めき立つなかを、なんと太史慈は悠
々と馬から降り、城のざん壕のなかに入ると、標的を地面に突きさし、のんびり
と弓矢の練習をはじめたのであった。
賊兵たちはあやしみながら注目していたが、太史慈は準備しておいた矢を全部射
終わると、そそくさと城内に戻った。翌日の朝も同様、太史慈は射撃の練習に現
れたが、黄巾賊のなかには、「ああ、また練習か」と警戒心を柔らげ、注視しな
い兵までではじめた。
三日目がきた。賊軍の将士たちは、ほとんど太史慈の射撃練習に注目することも
なく、むしろ、長引く包囲にうんざりした様子で、口々に雑談している。警戒の
目を向ける者は一人もいなかった。
太史慈はそうした敵の状況を確認したうえで、突如、馬に一鞭いれるや、一気に
包囲網を突破し、軽走長駆。平原県へいたって劉備に援軍を要請し、関羽・張飛
以下三千の精兵を引き連れ、みごとに大役を果たしたのであった。
このエピソードは、守りは万全、と思い込むところには必ず油断が生じること、
どのような場合にも、"完璧"な守りのないことを如実に物語っている。
ヒットラーの電撃作戦
この策略は、古代だけでなく、現代でも使われて効果をあげることがある。たと
えば、第二次世界大戦で、ヒットラーがフランスに対して電撃的な進攻予定日をひ
そかに同盟国に流し、相手側が「すわ開戦!」と応戦態勢をととのえたのを見は
からって、しばしば予定日を変更した。その結果、同盟国側は、ヒットラーが新
しい攻撃予定日を設定するたびに、「またか」と思って徐々に警戒心をゆるめて
しまった。
ヒットラーが実際にマジノ線を突破してフランス領内になだれこんだのは194
0年5月14日のことであるが、このときも、フランス、イギリスの情報機関は
正確にドイツ側の動きをキャッチしていた。だが、両国の政府はまたもや、ヒッ
トラーの「神経作戦」だとみなして注意をはらわなかった。その結果、ヒットラ
ーに電撃作戦の成功を許してしまったのである。
ちなみに「銀河英雄伝説」の中では、メルカッツ達が、イゼルローン攻略のおり
、偽の2種類の通信を送って敵の艦隊をおびき出したのもこの応用といえるだろ
う。
ルッツもイゼルローンの守りを信用すればこそ、挟撃しようという気になったの
だ。まさか要塞飽が無力化されているとは思わなかったであろう。それこそがヤ
ンの真の罠であったのではあるが・・・。
人間の心理として目的の物を見つけると思考を停止してしまうという。トラップの名人と呼ばれる人達が好んでダブルトラップを仕掛けるのもそのあたりに理由があるといえるだろう。
ルッツにしても敵がヤンである以上は罠を仕掛けぬはずはないと思ったであろう
。そしてダミーの罠を見破ったとき、まさかそれ自体が罠であると、きずくこと
もなくまんまと乗せられたのである。
まさにペテン師の面目躍如である。
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