三国志の兵法
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囲魏救ちょうの計
魏を囲んでちょうを救う
「囲魏救ちょう」とは、戦国時代、斉の国の軍師であった孫びんが、魏軍を討っ
たとき採用した作戦である。そもそも、敵が強大である場合、当たってくだけろ
とばかり、正面から戦いを挑むのは賢明な策とは言えない。そんなことをしても
、勝利する確率はきわめて低いし、かりに幸運にめぐまれて勝ったとしても、味
方の損害が大きすぎるからである。
では、敵が強大な場合は、どんな策略で戦うべきか。
「兵ヲ治ムルハ水ヲ治ムルガ如シ」、すなわち、戦争のやり方は治水の要領と同
じだという。逆巻く激流には、容易に近寄りがたい。だが、その流れを分散すれ
ば、水の力を弱めて、どうにでも料理することができる。
それと同じように、強大な敵に対しては、まずその勢力を分断し、奔命に疲れさ
せなければならない。そのうえで攻撃をかければ、比較的簡単に打ち破ることが
できる。
あくまでも、力づくの対決を避け、分断して攻めるーーーこれが「囲魏救ちょう
」の策略である。
孫子の兵法のこれが真髄
囲魏救ちょうの計は『史記』の「孫子・呉起列伝」が出典のようだ。
戦国時代の中期、魏は大国であり、しかも、さかんに拡張政策をとって他国を併
合していた。紀元前353年、魏はチョウの首都を包囲。
ちょうはあわてて、斉に救援を要請した。このとき斉の軍師であった孫ぴんは、
斉の威王の命によって将軍田忌(でんき)に従った。孫びんは、ちょうの首都かん
鄲を目指すとみせて、いきなり、魏の首都大梁(たいりょう)[現開封]を奇襲す
るよう進言した。
田忌は驚いて、その真意を孫びんにたずねる。
「たとえば、もつれあっている糸を解くのに、むやみに引っ張ればどうなるでし
ょうか。喧嘩の助太刀とて同様です。やみくもに殴り合いに加わっては、うまく
収めることはできません。相手の虚を衝いてこそ、形勢は自然とわが方に有利に
なるものです。いま、魏はちょうどの戦いに精鋭部隊をすべて投入し、国もとに
は僅かな兵力しか残していません。このさい、手薄となっている魏の都・大梁を
一挙に衝くことです。そうすれば、魏はあわてて、かん鄲の包囲を解き、自国に
軍を返すでしょう。これこそ相手に包囲を解かせるとともに、相手を疲弊させる
一石二鳥の策ではありませんか。」
魏軍は、孫ぴんの洞察したとおりに動いた。
祖国の危急をきいた魏軍は、かん鄲の包囲を解いて引き返したものの、ときすで
に遅く、斉軍は魏の拠点をことごとく陥落させたあとであった。
関羽が命を落とした恐るべき計略
劉備が漢中王に即位して間もなく、荊州を預かっていた関羽は、大軍を動員して
、魏の征南将軍・曹仁の守るはん城を攻略すべく、陣触れをおこなった。
この前年に(216)の10月、南陽郡の郡治である苑城(河南省南陽市)の守将候
音が魏軍に反乱し、関羽に帰順の意思を伝えてきたことがある。この謀反自体は
、曹仁によって鎮圧されたが、関羽のはん城攻撃はこのころから、周到に準備さ
れてきたのであろう。
関羽は南都の大守・び芳に江陵の留守を、将軍・ふ士仁に公安の守備を任せて、
自身は北方へ軍をすすめるとはん城を包囲した。
西への劉備の領土拡張にともない、関羽は荊州北部の地を改めて、劉備政権のも
とに奪回しようとしたのであったが曹操はこれを見のがさなかった。
曹操は宿将のう禁とほう徳を差し向けて、はん城の北に布陣させ、内外から関羽
軍を挟撃しようと画策した。が、おりしも大雨のため大洪水となって、う禁らの
援軍は濁流のために前進不能となった。関羽はこの大洪水を予期していたのであ
ろうか。予め準備してあった船で、う禁らを攻撃。このとき、う禁を捕虜にし、
ほう徳を討っている。
はん城は関羽軍の船団包囲されて、風前の灯となった。
ところで、これより少し前、陸こん県の孫ろうという者が県の役人を殺害して謀
反し、関羽軍に帰順していた。関羽はこの孫ろうを登用して陸こん県令に任命し
、遊撃戦を展開させたところ、魏の許都以南の各地の人民がこれに呼応。いっせ
いに曹操に反旗をひるがえしたため、関羽の勇名は中原に鳴り響いた。
支援部隊は壊滅し、後方は撹乱されてしまって、はん城は落城寸前となった。さ
すがの豪勇・曹操も、このときばかりは、帝を許都からギョウに移そうとしたほ
どである。
この切羽つまった遷都の思いをとどめたのが、丞相府主簿(文書管理責任者)で
あった、側近の司馬仲達であった。
仲達は、破竹の勢いで版図を拡大する劉備らに、いくら同盟国とはいえ、呉も内
心は心よく思っていないはず、と判断した。そこで仲達は、曹操に進言し、呉の
孫権に使者をおくらせると、「長江以南を封地として、呉に与える。ついては、
その代償に関羽の背後を衝かれよ」
と申し入れ、呉はこれを受諾した。"囲魏救ちょうの計"である。
呉は関羽の警戒心を解くため、前線の呉将・呂蒙を病気と偽って更迭、孫権の本
拠地・建業(江蘇省南京市)へ引き上げさせ、後任にまったく無名であった陸遜
を指名した。このとき、陸遜は37歳である。関羽はこの陸遜を軽視し、留守部
隊の大半をはん城攻撃に振り向ける。
関羽の不運だったのは、魏・呉同盟の密約をまったく察知せぬまま、新規に増援
された魏の徐晃率いる部隊と対ジしていたことであろう。それでなくとも、曹操
は、なろうことなら呉軍と関羽を戦わせ、魏は無傷で漁夫の利を得ようとしてい
たのである。
曹操は呉と手を結んでいながら、一方では、孫権が呂蒙を大将とする奇襲部隊を、江陵・公安へ秘かに派遣したとの書簡を、矢文にして関羽の陣へ射込ませた。
だが、謀略外交に馴染まない関羽は、書簡の真意を計りかねて、かえって疑心暗鬼となり動けなくなってしまう。この間隙を縫って、呂蒙の奇襲部隊は江陵を襲撃した。
留守を預かっていたび芳とふ士仁は、関羽に後方守備の不十分さを厳しく叱責されたばかりか、「帰ったら始末してやる」といわれて完全に戦意喪失。呂蒙とは一戦も交えることなく降伏してしまった。
こうして江陵と公安を占拠した呂蒙は、次には、降伏した将士や住民を厚遇し、その様子が前線の関羽軍に伝わるよう工作する。当然、魏軍と対じする関羽軍は、本拠地が陥落したことを知り、また、呂蒙の工作もあって、完全に厭戦気分にとらわれた。
孤立の危機に陥った関羽は、急きょ、はん城の包囲を解くと、撤退を開始するがときすでに遅し。帰るべき本拠地を失ったばかりか、当陽東南の麦城まで引き上げたものの、周辺は呉の大軍に固められていた。援軍を求めようにも、方策すら立たない。
孫権は関羽に投降するよう勧告したが、プライドの高い関羽が応じるはずがない。関羽は養子の関平はじめ数十騎の部下と、包囲網の突破をはかるが、麦城近郊のしょう郷で捕らえられ、ついに斬首されてしまった。
建安24年(219)12月のことであった。伝えられる関羽は、50代半ばであったかと思われる。関羽は司馬仲達にしてやられたというべきか。
人間関係に、この計略をあてはめてみよう。
妙な誤解が生まれ、あなたが窮地に陥ったとする。なんとか誤解をとこうと、一生懸命に弁解したとしても、一度こじれた人間関係は、なかなかもとへはもどらない。
ではどうするか。第三者に救けを借りればいい。側面から攻めてもらうのだ。その第三者が、信望のある人であったなら、誤解はすぐさま、氷解されるに違いない。
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