三国志の兵法
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遠交近攻の計
遠くと交わり近くを攻める
ハンショの進言にみる治国の妙計
「遠交近攻」とは文字通り、遠方の国と同盟して、近隣諸国を攻撃する策略をい
う。
これは天下が大いに乱れ、戦国乱世の様相を呈した時、とくに効力を発揮する計
略といわれている。多数の国が対立抗争している局面において、何処の国と手を
結び、何処の国を攻撃するかの選択は、死活の問題でもあった。その際は、この
「遠交近攻」はきわめて有効な判断基準となる。
遠国には利を与えて交わりを厚くし、近隣の国とは間違っても、深いよしみを通
じてはならない。いわんや、攻守同盟などとんでもないことである。
この"遠交近攻の計"には、近隣国に異変が起こった場合、同盟していると、それ
に巻き込まれる危険性が生じる。したがって、反覆常ならぬ状況下においては、
いつ手切れになろうとも影響の少ない国以外は同盟関係を締結してはならない、
との教訓も含まれていた。「遠交」は「近攻」のためであるが、自己保身の思想
もこの計略に含まれている。
歴史上、この"遠交近攻の計"を、天下統一の戦略として活用したのは、秦の始皇
帝であった。始皇帝が対立する他の六カ国を順次滅ぼし、天下統一できたのは、
まさにこの「遠交近攻」の計略があればこそであった。
話は始皇帝を遡る三代前の、昭王の時代からはじまる。
この頃秦は近くに位置する韓、魏の両国の頭越しに、遠方の斉を攻めようとして
いた。これを知ったハンショという人物が、"遠交近攻の計"を進言したのである
。
ハンショは昭王を説得していった。
「かっての斉の国のビン王の時代、南方の楚に攻め入り、散々に楚軍を撃ち破っ
て、千里四方もの領土を拡張した事がありました。しかし、手に入れた領土は結
局すべて手放してしまうことになったのです。なぜならば、遠方の楚を攻めてい
る間に、隣国の韓、魏の両国が軍備を充実し、斉の遠征を幸いに、その足もとを
すくったからです。諺(ことわざ)に"賊に武器を貸す"とあるのは、まさしく、こ
のようなことではないでしょうか。
この一事からもお判りのように近交遠攻は愚策であ
り、遠国と結んで隣国を攻める事こそ、最上の策といえます。一寸の地を得れば
その一寸が、一尺の地を得ればその一尺が、確実に陛下の領土となるのです。こ
れを捨て、遠方の斉を攻めるなどは、見当違いもはなはだしいといわねばなりま
せん。」
秦はハンショのこの進言を、国是として東方経略に乗り出した。そして始皇帝の
時代に、まずは韓を滅ぼし、次いでチョウを、さらには魏、楚、燕と近隣諸国を
近い順に、つぎつぎと併合し、ついには斉を滅ぼして天下統一を成し遂げたので
あった。こうした「遠交近攻」は、教えられることが少なくない。
曹操が用いた八方塞がりの打開策
三国志の時代、この"遠交近攻の計"を、最もうまく活用したのはやはり曹操であ
り、その参謀達であった。
曹操の力が未だ遠紹に遠く及ばず、呂布がわがもの顔に暴れ廻っていた頃、曹操
の陣営は、四面を敵に囲まれて、身動きならない状態に陥っていた。
「呂布を始末せねば、河北攻略は容易ではない。さりとて、遠紹を倒そうにも、
遠紹は関中(セイ西省及び湖北省北部)に侵入し、キョウ族や湖族の反乱を促すか
も知れぬ。また、南方の蜀と漢中(湖北省)を味方とする恐れもある。しかしなが
ら、八方塞がりのまま動かずにいたのでは、わたしはエン州とヨ州の2州を頼り
に、天下の六分の五を敵にする事になる。これでは滅亡を待つようなものである
。はて、どうしたものであろうーーーー。」
さしもの曹操も、追い詰められていた。
この四面楚歌の状況をみごとに克服したのが、参謀のジュンイクであった。ジュ
ンイクは状況を細部にわたって分析、研究した。その結果、次のような結論に達
する。
「関中では、小人数の軍閥が各々に独立していて、とても、一つの勢力にはまと
まらないでしょう。なかでも韓遂と馬超の二人は、東方の呂布とわれわれが争え
ば、漁夫の利を得ようと、兵力温存策をはかるに違いありません。ですから、こ
の際はこの両名に恩徳をほどこして彼らと結べば、長期間の友好同盟関係は無理
でありましょうとも、こちらが東方を平定するまでの間は、彼らの動きを十分封
じ込めることができるでありましょう。」
ジュンイクはこの交渉をショウヨウ(字は元常)に一任するように勧めた。
ショウヨウは洛陽に都があった頃から後漢帝国に仕え、皇帝政務秘書をつとめ、
献帝が長安に脱出したおりも従っている。韓遂や馬超とも面識があったのであろ
う。関中を訪れたショウヨウは、言葉巧みに韓遂や馬超を説得すると、子を人質
として献帝に差し出させ、友好関係の樹立に成功した。
この同盟によって、のちに曹操が遠紹と白馬で戦ったおりに関中の韓遂、馬超か
ら、西涼の名馬を二千頭も供出させることにも繋がったのである。
同盟締結の直後、建安三年(198)、曹操はジュンイクの意見に従い、南に張繍(チ
ョウシュウ)をを破り、東方に転じては呂布と裏切り者の陳宮を撃ち破って、捕
らえて処刑すると徐州を平定した。
すべては、韓遂、馬超らとの同盟成功に、源を発したといってよい。
また日本の戦国時代の外交においてもこの遠交近攻が基本であった。
こうした"遠交近攻の計"は今日の社会においてもよく目にするところだ。
例をあげれば、企業CMである。人気絶頂のタレントを起用する場合、企業は決
してライバル会社が起用しているタレントは使わない。同業者はもちろん、関連
業界も避ける。だが折角の人気タレントを使うのだから、その波及効果も捨て難
い。
そこで他業種の企業と連携して使う事がよくある。一日のうちに同一のタレント
が幾つものCMにでているのをみると"遠交近攻の計"の仕組みがわかるはずだ。
またこの計略は国際政治を考える「地政学」(国の政策を主として風土・環境な
どの地理的角度から研究する学問)の基本でもある。
現代の国際社会においても、近隣の同盟国(同一主義国)は滅多にないものである
。