三国志の兵法
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笑裏蔵刀の計
笑いの裏に刀を蔵す
「笑裏蔵刀」とは文字どおり、友好的な態度で接近し、相手が警戒心を解いたところを見すまして一挙に襲いかかる策略である。あくまでにこやかに接するのは、相手の警戒心をやわらげるための方便であることはいうまでもない。この方便が真に迫っているほど成功の確率は高くなる。逆に、この策略を仕掛けられた側からいえば、「笑い」の中にどんな魂胆が秘められているのか、すばやく読み取って対応策を講じなければならない。そうでなかったら、むざむざ敵の術中にはまってしまう。「孫子」も、「敵の軍師がへりくだった口上を述べながら、一方で、着々と守りを固めているのは、実は進攻の準備をとりかかっているのである。・・・対陣中、突如として講和を申し入れてくるのは、なんらかの計略があってのことである。」と語っている。敵が笑顔を見せたり、うまい話をもちかけてくるのは、なんらかのねらいを秘めていると見なければならない。また漫画「あずみ」でも描かれているが情報収集が目的の昔の忍者や現代のスパイはこの笑裏蔵刀は基本中の基本である。
関羽を油断させた呂蒙の妙計
三国志の関羽もこの「笑裏蔵刀の計」にはめられた一人である。荊州の最高責任者として江陵に駐屯していた関羽は、大軍を動員して北上すると魏領の樊城を包囲した。この時呉の司令官として陸口に駐留し、関羽の動静をうかがっていたのが呂蒙であった。この呂蒙については有名なエピソードがある。
呂蒙は汝南(阿南省平こう県)の出身で、義兄が呉の孫策の武将であったところから、呉に居を移すと孫権に仕えた。呂蒙は戦いがはじまると、いつも武功を挙げたが、それはことごとくが力攻めの勝利であったという。
そうした呂蒙の勇を惜しむあまりに、ある日、孫権は呂蒙にいった。
「お前に、この上、学問が備わればのう・・・」
嘆息まじりの孫権の言葉に、呂蒙は奮起一新、それまでは顧みることのなかった学問に取り組む。呂蒙の果敢さは学問の上でも発揮された。そして、ついには学者に勝るとも劣らぬ博学となったのである。そうした呂蒙のもとに,周瑜の後任として赴任する途中の魯粛が訪れた。呂蒙と話した魯粛は驚嘆していった。「貴公は勇猛なだけが取り柄の男と思っていたが、なかなかどうして大そうな教養ではないか。これでは気軽に”呉下の阿蒙”などとはいえぬなア」
”呉下の阿蒙”とは呉の蒙さんといった程度のものーーー気安く呼べるような人物でなくなったと魯粛はいうのである。この時、呂蒙が笑ってのべたセリフが後世に残った。
「士、別れて3日、即ちさらに刮目して相待す」(男は3日も合わねば、目を見張るようにしているものです。)
というのである。上のセリフは「18史略」では「士、別れて3日、即ち、正に刮目して相待つべし」となっている。なにはともあれ、呂蒙が知勇兼備の武将であったことをこれほど雄弁に物語るものはあるまい。
さて話を戻すと関羽が北上したのをみた呂蒙は、江陵を奪取するには、またとないチャンスとみた。しかし関羽もさるもの、呂蒙の存在を軽視していたわけではなく、相応の兵力を江陵に残留させ、呂蒙の侵攻に備えていたのである。
呂蒙は、江陵を奪取するためには、この関羽の警戒心を、まずは柔げねばならないと考えた。そこで呂蒙は、己は病気と偽って都に引き上げると、後任者として、当時は無名にひとしかった陸遜を推薦した。呂蒙と陸遜では、キャリアといい、名声といい、比較にはならない。
関羽は、歴戦の勇将・呂蒙に代わり陸遜が赴任したのを聞いて、やや気をゆるめたようだ。
確かに陸遜は年齢も若く、無名の将ではあったが、権謀術数に長けた司令官であった。陸口に赴任すると手はじめに関羽に書簡を送り、その武勇を賞賛し、自身の若輩、無能を卑下してみせた。まさしく”笑裏蔵刀の計”である。
下手に出て関羽の警戒心を少しでも柔らげようとしたのであるが、関羽は陸遜の計略にまんまと乗ってしまう。陸遜を組み易しとみて、江陵に残してあった兵力をすべて、樊城の包囲戦に投入してしまったのである。
これでは呉への押さえがなくなったも同然。呂蒙は密かに軍を率いて江陵に向かい、ほとんど戦いらしきする事もなく、関羽の諸城を陥れた。
単純な性格のの関羽は、呂蒙と陸遜の仕掛けた「笑裏蔵刀」の策略にひっかかって、あえなく自滅したのである。
「笑裏蔵刀」の2面性
唐の則天武后の時代李義府という人物がいた。みるからに温厚な人柄で、人と話すときなど笑顔をたやしたことがなかった。ところが、宰相に抜擢されて権勢をふるうようになったとたん、少しでも自分の意に逆らう者は、容赦なくおとしいれるようになった。それで当時の人から「義府ハ笑中ニ刀アリ」と恐れられたという。笑顔の中に恐るべき権謀術数を秘めていたわけだが、李義府の場合は、それを行使する対象が同じ政界仲間の高官たちだったので、かれらの憎しみを買ってやがて失脚した。
しかし「刀」を行使する対象が敵であれば、話はまた違ってくる。
宋の時代、曹いという人物が渭州の長官として西夏(西の異民族)の動きに備えていたが、きびしく軍令を貫徹し、すこぶる西夏から恐れられていた。ある日、配下の武将を集めて酒宴を開いていたところ、突然、数千の兵士が反乱をおこして西夏に逃亡したという知らせをうけた。武将連中はどうしたものかと顔を見合わせるばかりだったが、曹いだけはいつもと変わりなく談笑しながら、のんびりした口調で、こう語った。
「かれらはわしの命令で行動したのだ。騒ぐでない」
西夏では、これを伝え聞いて、宋兵が逃亡してきた裏にはなにかワナが仕掛けられているに違いないと思い、彼らを皆殺しにしたという。
ピンチに立たされた時、いささかも動ずることなく、「笑裏蔵刀」でありうるかどうかで、指導者としての器量が問われもするのである。