ここでは「ときめきメモリアル2」という作品についての簡単な解説が載っています。
1994年に発売され、大人気を博した恋愛シュミレーションゲーム「ときめきメモリアル」。この人気作品の続編である「ときめきメモリアル2」は、1999年11月25日に発売される事となる。前作から実に5年も経過しての正当な続編の登場である。 (1999年11月17日脱稿)
続編の話そのものはかなり以前から存在しており、PCエンジン版が出ていた頃から話だけは出ていたようだ。ところが「1」自体が大人気作となったために、製作会社であるコナミ側も、いつ発売したら良いのか、模索していた時期もあったようである。さらに開発そのものも極秘にされ、どの程度開発が進んでいるのか、一般ユーザーはまったくと言っていいほど分からなかった。唯一、コナミの公式ホームページに掲載されたヒロインらしきキャラクターから、「きらめき高校が舞台ではない」という憶測を展開させる程度であった。
それが大々的に発表されたのは、8月に開催された、ときメモの5周年記念イベントにおいてである。そこのスクリーンに流された映像は、全ての女の子が登場し、「もっと!モット!ときめき」の新録バージョンが流れていた。さらにメインスタッフの談話、そして「CD五枚組」という驚愕の事実。全てが驚きの連続だった。
前作が日本中を席巻した大人気作だけに、当然前作の面白さはそのまま残し、その上更なる追加要素を取り込まなければならない。そこでコナミが打ち出したのは、「入力したキャラ名をゲーム内で自然な感じで呼んでくれる」というものだった。新機能として「Emotional Voice System」、略してE.V.Sが開発され、これにより入力された名前を自然に発音する事が可能となった。ある意味ファンの悲願でもあった事を、このジャンルの最大手であるコナミがやってのけたのだ。
それ以外にも映像的な演出も強化され、さらに天候、環境音の大胆な導入、メインプレイ前のアドベンチャーモードなど、考え得る全てのエッセンスがこのゲームに投入されていると言っても過言ではない。奇しくも、「ときめきメモリアル」を出発点とした様々な恋愛シュミレーションゲームの一つの帰着点となり得る様相まで呈し始めている。この作品が「恋愛シュミレーションゲーム」という範疇において、ひとつのモニュメントとなることが出来るのか、ゲーム自体の出来、そしてユーザーの反応に大いに興味をそそられる所である。
個人的な意見であるが、やはりこの種のゲームはキャラクターが命だと思うので、「2」に出てくる様々なキャラクターが、その魅力を十二分に発揮してくれる事を切望してやまない。我々ユーザーが彼女達の魅力を知る時、きっとそこに伝説の鐘が優しく鳴り響く事だろう。
何やら難しそうなタイトルを掲げてしまったが、要するに発売して一年が経過した「ときめきメモリアル2」というソフトを筆者なりに振り返ってみようと言うわけである。
さて、ときめきメモリアル2とは言うまでもなく、94年に発売された大ヒットゲーム「ときめきメモリアル」の名前を冠する、正当な後続作である。一つの作品が世間的な人気を博した場合、送り手、受け手双方で続編を望む動きが生まれるのは、今までのサブカルチャー史が雄弁に物語っている必然の事実である。当然ときメモ1もその流れに組み込まれ、続編を望む声はPS版発売当初から存在していた。
読者の方々は程度の大小こそあれご承知のことだと思うが、ヒット作の続編を製作するということは、作り手の立場に立って考えると非常に困難な作業である。続編であるからには、前作との共通項が絶対いくつか存在しなければならないし、かといって前作そのままの内容を打ち出すことも出来ず、いくつかの新機軸、発展系を導入しなければならない。0から1を生み出すのは非常に困難ではあるが、1を2に発展させていく作業もまた別の次元で困難な仕事なのである。
新機軸の点については後述するとして、ここでは2が本当に「ときメモ」の名を冠するに値するゲームなのかどうかを少し考えていこうと思う。「ときメモ」の名を持つゲーム。それの定義は恐らく誰もが、「ときメモらしさを持っているゲーム」だと考えるだろう。しからば「ときメモらしさ」とは一体何か?
この「ときメモらしさ」についての定義も、1が発売されてから早6年が経過し、様々な場所で様々な人間が語ってきた事だと思うので、漠然としたものではあろうが、我々の頭の中には「定義」なるものが形成されていると思う。列挙してみれば、いろんな女の子と楽しい高校生活を送れる、見た目と裏腹に結構シビアなパラメータ上げ、極力現実性を排除し記号性に溢れた世界観、そして何より、登場キャラクター個々にそれぞれの魅力が存在している、と言うようなことが上げられるだろう。
ことに「パラメータ上げ」と「記号性」はときメモの世界を構築する上で外す事の出来ない重要な要素だと言える。このゲームは単に最良の選択肢を選んで女の子の機嫌を取っていけばいいという単純なものではない。女の子に好かれるためには自分がそれに相応しくなるように成長していかなければならず、そのために様々なパラメータを上げて相手に注目されるようにならねばならないのだ。旧来のゲームでは主人公を絶対の存在として、相手の女の子を徐々に好みのタイプに変えていくという傾向が主流だった。ときメモはその価値観を180度転換して、女の子を絶対者とすることで主人公を成長する立場としたのだ。この発想はコペルニクス的転回と言うべき革命的なもので、以降の同様ジャンルゲームは多かれ少なかれこの内容を受け継いでいると思われる。「女の子に追いつくように成長する」というのが、一種RPG的な要素も生み、自分が成長していく方法、またはその過程にも醍醐味を感じる事が出来るようになったことは想像に難くない。
次の「記号性」についてだが、ときメモはいわゆる記号的なもので埋め尽くされている。登場人物の姿や性格も記号的であるのを筆頭として、その世界観全てが記号的な物である。概して記号的な物というものは、負のイメージを抑制する効果をもっている。つまりあの世界には現実世界に存在しているようなダークサイドが一切存在しない、「無菌空間」として作られているのだ。テストの点が悪かったからと言って留年してしまうわけでもなく、部活で大怪我をするようなこともない。類型的なまでの記号を大量に導入する事で完成したゲームがときメモだとも言えるだろう。だからこそプレーヤーはその安全な空間に埋没してゲームを楽しむ事が出来る。無論、単に記号的な物を盛り込んだだけで良い作品が生まれるわけではなく、その記号をその作品世界に応じた特殊な物にアレンジしていかなければならない。その点では今更ながらに1を作り上げた当時のスタッフの力量に敬服する。
長々と蛇足を書いてしまったが、これらがいわゆる「ときメモらしさ」だと定義するとして、果たしてときメモ2はこの「ときメモらしさ」を内包しているのだろうか?
答えから言ってしまえばイエスである。前述したパラメータ上げや記号性、魅力的なキャラクターなどの要素は作品内でその力を十二分に発揮しており、それについては恐らく反論の余地はないと思う。しかし、だからと言ってこれをときメモ1の続編として手放しに絶賛するわけには行かない。そう、続編の宿命たる「新機軸」の問題が存在しているのだ。
新機軸の筆頭として挙げられるのはE.V.Sだろう。自分の名前をキャラクターがそのまま呼んでくれるというこのシステムは、今までのユーザーのある意味悲願であった事を見事に実現してくれた画期的なシステムであったと個人的には思う。確かに機能としては不完全な部分も多く、具体的に言えばきちんと自分の名前を発音してくれないという場合も少なからず存在していた。しかし、これは発展途上のシステムなのだから不完全な部分が存在しても止むを得ない事だと思うし、不完全だからと言ってこのシステムにはまったく価値がないということにはならない。他の新機軸としてはその日の天候の変化、環境音の導入、キャラ同士の横の関係、表情変化のパターン増、アドベンチャー部分の追加などが挙げられるだろう。
「ときメモらしさ」と「新機軸」。この二つを考えると、筆者としてはこの作品は正当な「ときめきメモリアル」の後継作品であると考える。ときメモ1のエッセンスを継承し、なおかつ更なる発展を遂げた良作であると思う。
しかし、だからと言ってときメモ2を大傑作として評価すべきかと問われると、筆者としては首を傾げざるをえない。確かにときメモ2はときメモ1のエッセンスを受け継いだ後継作品である。しかし、ときメモ2独自の個性を十分に発揮していたかと言うと、そうも言えない部分がある。
ゲームシステムにおいては幼少時のアドベンチャー部分があるものの、大筋は前作と同様、コマンド入力形式のシミュレーションタイプである。これが悪いとは言わない。好きな女の子に応じて自分がそれに相応しい人間になれるよう成長していくという内容は前作より受け継いだゲームシステムであるし、それ自体には不満はない。しかし、あまりにも前作とそっくりであったために少々不満を感じてしまった方もいるのではないだろうか。確かに前作のゲームシステム、操作パターンは当時としては画期的なものだった。しかし、最初のPCエンジン版から数えて当時5年目である。良いシステムであっても多少古臭さが出てしまうのは否めないし、システムである以上、後に出来た新システムにアドバンテージを取られてしまうのは宿命である。新システムを導入することなくときメモ1システムにこだわったスタッフのロジックは決して間違ってはいない。しかし、ときメモ1システムにこだわったあまり、ときメモ2独自の新システムを作る事を放棄してしまってはいないか。スタッフはときメモ1のシステムを極めて消極的に継承したために、システムをときメモ2独自のシステムとして昇華させることが出来なかった。それにより、新鮮味を著しく欠いてしまったのではないだろうか。
つまり、ときメモ2は「ときメモ1の続編」という意味で考えれば大成功であったと思う。立派に後継作としての面目を果たしていると言えるだろう。しかし、ときメモ2はあまりにも前作のエッセンスを消極的に受け継ぎすぎたために、2自身が持つ個性を十分に発揮することが出来ず、言ってみれば「最新作のときメモ作品」ではなく「ときメモシリーズのうちの一つ」というランクに位置してしまっているのだ。
あまりにもときメモらしい作品であるが故に、個別の作品としては厳しい評価を受けざるを得ないゲームとなってしまった「ときめきメモリアル2」。しかしこれは言い換えてみれば前作「ときめきメモリアル」以降、連綿と生み出されてきた恋愛シミュレーションゲームの過度期の産物とも言う事ができる。旧態依然のギャルゲーシステムはこのゲームで完全に終焉を迎え、来る21世紀からは完全に新たなシステムを湛えたギャルゲー、そして新たなときメモが生まれる事になるだろう。ときメモ1によって打ち立てられた20世紀のギャルゲー世界は、奇しくも1の後継作であるときメモ2によって終焉を迎える事になったのだ。コンシューマーにおける今世紀・恋愛シミュレーションゲームの系譜の起点と終点に位置する作品は共に「ときめきメモリアル」となった。来世紀の系譜の起点には我々が想像もしなかった新システムを湛えた「ときめきメモリアル3」が存在する事になることを強く希望する。その時こそ、我々はときメモ2の真価をも見定める事が出来るだろう。
2000年より発売が開始された「ときめきメモリアル2 サブストーリーズ」。これはときメモ1後期で好評を博した「ドラマシリーズ」のように、本編では語っていない高校三年間の一時期をクローズアップし、その中での主人公とヒロインとの想い出を描くという作品である。恐らくときメモ2が発売された時、大多数のときメモファンはこのドラマシリーズの発売を心待ちにしていた事だろう。 (2000年11月25日脱稿)
しかし、発売されてみるとあっという間に低評価がファンの間を駆け巡った。たぶん現段階では「サブストーリーズについてどう思いますか?」と100人に質問したら、99人が「嫌い」「つまらない」などの低評価意見しか言わないだろう。しかし、世の中には必ず残り一人がいるのも常であり、ここではそんな残り一人の筆者がもう一度このサブストーリーズについて考えていこうと思う。
まず認識しなければならないのは、一応ソフトの帯に「ドラマシリーズ」と書かれてはいるものの、このサブストーリーズは1のドラマシリーズとは明らかに一線を画しており、同じ路線を目指しているわけではないということであろう。1のドラマシリーズが目指していたもの。それは言うまでもなく「感動」である。綿密に練られたストーリーの下、極めて静的に主人公とヒロインのみの物語が展開し、終盤で一旦揉め事が発生するも、それを乗り越えて二人の絆はさらに強くなる。これが1・ドラマシリーズの基本骨子である。単純でありきたりな展開ではあるものの、それを極めて丁寧に作った製作姿勢が評価され、ドラマシリーズは三部作共に高い人気を博すに至った。
だがここで考えてもらいたい。もし2のサブストーリーズがドラマシリーズ同様に感動路線であったとして、果たしてファンが満足できたのだろうか?勿論これは仮定の話ではあるが、筆者個人の感覚から言えば、三作に渡って続いてきた感動路線にもいささか食傷気味になっていたのは事実である。もちろん登場人物を2のキャラに置き換えた感動路線の話を見たくないというわけでもない。しかし、元来ドラマシリーズとは本編をプレイする事で様々なプレイヤーの頭に浮かんでくる「If」の世界の一つを描いた話であって、それが感動路線であれコメディ路線であれ、ときメモ及びときメモ2の一つの世界である事には変わりない。2のスタッフは敢えて感動路線ではなく、コメディ路線を狙ったのではないか。そこまで考えるのは深読みだとは思うが、そんな気にもさせられるのである。もちろんサブストーリーズも単なるコメディに終始しているわけではなく、きちんと抑えるべきところは抑えている。恐らくは「笑って泣ける」日本的娯楽ドラマのような構成を目指していたのではないだろうか。ここらへん、徹頭徹尾「感動路線」を貫いていたドラマシリーズとは根本的に異なっている所である。
サブストーリーズというのは文字通り「補足の話」であって、あくまで2本編から生まれた派生種でしかない。1のドラマシリーズが最終的には本編と独立したかのような世界観を取り、本編のファンとはまた別のファンを獲得したのとは好対照である。サブストーリーズは2本編をプレイしてもらうための介添えに過ぎないのであって、本編以上の個性を発揮するものではないし、発揮する必要もない。恐らくはそういうロジックも働いているのではないだろうか。プレイしている最中にこの感覚をつかむ事が出来たかどうかで、ゲームに対する印象はかなり異なってくると思うのだが、どうだろうか?
と、サブストーリーズの定義そのものについてはここらへんにして、次にサブスト1・Dancing Summer Vacationについてである。よく言われる批判の材料としては「音楽、グラフィックがほとんど本編の流用」「シナリオが単調で捻りがない」「DDRの方が本編よりも充実している」などがあり、これらの理由が「スタッフのやる気が感じられない」という意見に集約されていくのである。これについては残念だが反論しようがない。言っていること全ては全く正論であり、サブストそのものを2本編に入るための介添えと考えても、「介添え」としての内容だけで果たして一般ユーザーにまで売れるかどうかを考えると、甚だ疑問である。ファンディスクと割り切って考えれば納得できなくもないが、そう考えてしまうとこれ以上ときメモファンの裾野を広げる事が困難になってしまうことも危惧され、決して良い傾向とは言えない。一般のゲームとしてのカテゴリーで考えると、誠に遺憾ではあるがサブスト1は失敗作と考えるべきであろう。
その改善方法については色々あるだろうが、とりあえず一個人に出来る事は個々の作品に真摯に接し、冷静に分析、評価することだと思う。そうする事で抱いた考えをどうするかは個人の自由だ。今はメールという便利なものがあるので、作品についての感想などはすぐに製作会社に送ることが出来る。他にも同志と活発な議論を交わすのも良し、裾野を広げるために努力するも良し、様々な活用法があるだろう。危険なのは今の時点でときメモ自体に見切りをつけてしまうことだ。ときメモがこの世に生まれてから6年。たったの6年しか経過していないのだ。まだまだ見切りをつけるには早すぎる。まだときメモにはたくさんの可能性が残されているし、我々ファンが出来る事もまだたくさんあるのだから。