胡 蝶

―二―

 恵は日がすっかり暮れてからやって来た。
 たいてい二人は、荘の家で飲む。恵の家は大所帯で気兼ねしてしまう、と荘が言ったからだ。だからいつも、酒の肴を荘の家で作り、高く付くほうの酒は恵が買い求めて来る。
 酌は荘の妻の、横氏がやる。物腰が柔らかで、雛なる美人、とまでは行かないが、荘には勿体無い、と恵は言って憚らない。そんな時には、
「旦那様は、飽きない方ですから」
と言って微笑むくらいの芯の強さもある。そう言うとき、荘は大抵、照れを誤魔化している。
「実は君におもしろい土産がある」
「ほう、何だね?」
 恵はこの近くの出身で荘とは同郷だった。宋王に売り込みに行ったのだから、都帰りと言う訳である。
「君が好きそうだと思ってね」
 取り出したのは木簡の束である。
 この当時、まだ紙は滅多になかった。ものを書き付けるのは、木又は竹製の細長い板である。これを紐で繋ぎ、巻物のように巻いて保管する。この一巻がとても大きい代物になることに思い及んで戴けるだろうか。
 恵は勿論、短く小さい木簡を持って来た。
「都に住んでいる書生から譲り受けたものだ。彼が言うには、大した人物の著作じゃないらしいが……」
「どうしてそんなことが分かるんだい?」
 荘は大事そうに木簡を手に取りながら、言った。
「彼が言ったのさ。もっと優れた著作もありますが、それはお渡し出来ない、とね」
「それはその書生の考えだよ。ぼくにとってはこの木簡だって優れたものだよ」
 恵は杯をぐいと干してから、
「それは君が、素人書生だからだろう?」
「そうとも言える。だけど、みんなが必要だ、正しいと思っているものが、必ずしもそうではないということは、きっと良くあることだと思うよ」
 荘も杯の中身を喉に流し込んだ。横氏が二人に酌をしてやる。
 それを横目で見ながら、荘が続ける。
「むかし、隣の国にとても美しい舞姫がいたんだ。国じゅうの人はその舞姫こそが世界で一番美しいと思っていた」
「ふむふむ」
「彼女は国じゅうの人から好まれた。だけど、彼女を嫌うものがあった」
「変わり者だな。誰だい、それは?」
「魚さ」
 荘は杯を傾けた。恵は、はあ、と言う顔をした。
「魚は彼女の顔を見て逃げたのさ。結局彼女は、誰からも好かれる存在には成り得なかったのさ。さてそうすると、美しいというぼくたちの基準は当てにならない。つまり、正しいだの偉いだの、というものも案外取るに足らないものなのかも知れない」
「しかしそうすると、その舞姫は美しくなかった事になるんじゃないか。魚にも嫌われるようではね」
 恵がいつもの癖で、論破するような口調に変わる。荘も恵も、興がのってきたようだ。
「しかし、美しくなかった、というわけでもないだろう。彼女に比べられた女性達よりは、美しいと思われたのだから」
「すると、その舞姫は美しかったのかい? 美しくなかったのかい?」
 恵の得意の論法である。相手が使う言葉をはっきりとさせる。これをすると、大抵は相手からぼろを出す。
 ところが荘が相手となると、
「それはぼくが決めることじゃないんだよ。ぼくの美しいと思うものは、君の美しいと思うところではないからね。結局、美しいなんて頼りないものさ。この木簡だってそうだと思うけれどね」
 荘は時として、恵の求める答えを返さないことがある。荘は恵が突き詰めようとすることが、単純に突き詰められないものであると感じてしまうからだ。
 荘は、美醜、優劣、その他の判断が、相対的で個人の解釈に依るものだと説いたわけだ。
 荘は考える。有能無能、果ては生死に至るまでの一切の判断を意識しない。それによって、人は自由になれるのではないか。
「なるほど。周はそれを必要と思い、私は思わない。してみると、君が最も美しく思うのは、こちらの細君という訳だな」
「……ばかなことを」
 荘は照れ臭そうに言い淀む。横氏は、まあ、と言って袖で顔を覆いながら、二人をにこにこと見守っている。
 恵も荘も、そして恐らく横氏も、こういう話の出来る機会をとても大切にしていた。特に荘は、恵から得るところが少なくなかった。恵は時に、荘の話のあまりな婉曲さに声を荒げる事があったが、やはり恵にはよい弁論術の相手であった。
 つまりは三人とも、とても仲が良かったのだ。


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