朔 風

−一−

 遥か古代、後の世に聖帝と称される、徳を重んじる天子が世を治めていた頃の話である。
 天変も長い間起こらず、大地は潤っていた。民は皆平和に暮らし、盗賊達も現れなかった。人々が心から聖帝を敬い、国はよく治まっていた。
 唯一つ、天子の国の北方に異民族がいることさえなかったら、誠に憂い無き、伝説の時代となれたろう。
 異民族は背が高く、羊や馬を飼い、よく弓を扱った。
 北方の土地は痩せているので畑が耕せず、貧しかった。それで、時折天子の国に現れては、金品や食糧を奪った。
 天子の国では彼らを、〔北狄〕(ほくてき)と呼んだ。
 国の中に争いはほとんど無く、従って兵士達は〔北狄〕の侵入を防ぐことに従事させられる。それが〔北域都護府〕と呼ばれた、屈強ぞろいの軍であった。
 ある時、〔都護〕の将軍にひとりの者が選ばれた。
 その者の名は飛侶(ひりょ)。北方出身の偉丈夫で顔も厳めしく、〔北狄〕の血が交じっているのではあるまいか、との噂が絶えなかったが、その性格は裏表がなく快活で、武人として多くの勲を立てたことを認められて、〔都護将軍〕に任命された。
 飛侶は天子の期待に応え、十数年にわたって〔都護将軍〕を勤めていた。
 この飛侶に一子あり。字を慶、名を擁吉という。
 飛侶の老年の息子だったが、父によく似た面立ちで、目鼻立ちは大きかった。
 父譲りの背の高さと広い肩幅を持ち、何よりも弓術と、馬に乗ることを好んだ。
 十五の歳には、〔北域都護府〕の中でも屈指の弓の名手となった。
 弓術は言うに及ばず、それよりも有名だったのは、腕が人より五寸(11.25cm)も長かったということである。
 その長臂を生かして、強弓を引く。その腕前は、父飛侶を除いて勝る無し、と謳われた。
 唯一人、それに劣らぬ射手を、飛慶は知っていた。
 燕兒旃竒(えんじせんき)。
 飛慶の無二の友であり、〔北狄〕と呼ばれた、国境の向こうの異民族の青年である。


 飛慶はいつも、馬を飛ばしては、旃竒に会いに行った。
 旃竒達と出会ったのは、七、八年前になる。
 草原を耐えず移動する異民族には、〔国境〕など無いに等しい。小さな部族が、それと知らず南下してくることもよくあった。旃竒の暮らす部族も、たまたま国境ぞいに南下して来ていた。
 やっと馬の乗り方を覚えた頃の嬉しさで遠駆けをして、名目だけの〔国境〕を越えてしまった。
 そして旃竒達に会った。
 子供達には、国境などは存在しない。同じく馬に乗り草原を駆けている同じ年頃の少年を、警戒などしない。
 すぐに二人は仲良くなった。言葉の壁は何時の間にか無くなって、無尽に広がる草原を庭がわりにして二人は遊び、育った。
 飛慶が大きくなったように、旃竒も今では立派な青年になった。体躯はやはり旃竒のほうが大きかったが、眼が細く、顔の造りは丸かったので、顔は旃竒のほうが幼く見えた。
 旃奇も部族の中では、立派な狩人であり兵士だった。
「お、久しぶりだなぁ」
 飛慶がいつも駆っている白毛の馬を、緑の濃くなった草原の彼方に見つけて、旃は嬉しそうに叫んだ。
 旃竒達の天幕に近づくと、飛慶は馬を飛び降りて走り寄った。
 着慣れた薄茶色の便衣を着て、短めの袴を履き、背中に矢箙、肩に弓を引っかけた様は、旃竒たちとさして変わりない。
「よう、元気だったか」
「どうした、近頃は顔も見せなかったじゃないか」
 旃竒は、日焼けにくすんだ丸顔をほころばせた。
「悪かった、退屈なお祝いがあったんだよ」
「何だ、その『お祝い』ってのは?」
「なに、僕がまた歳を取っただけさ」
 そのうちに、部族の若者達が飛慶を出迎えに来た。
 旃竒の部族では、飛慶は特別な友人と扱われていた。狩りを手伝うこともあったし、部族で一夜を過ごすときは、旃竒と共に護り手を買って出た。
 誰も旃竒の友人として、飛慶を疑わなかったし、飛慶も父の事や家の事は、彼らには何も話さなかった。
 旃奇達の前では、「飛呂の子」ではなく「旃奇の友人」になりきった。せめて、ここにいる時だけは、旃竒たちと同じ仲間でありたいと願っていた。
 いつも二人は、連れ立って狩りに出掛けた。互いの弓の腕を競い合うためでもあり、その日のか出を得る大事な仕事でもある。
 大事な仕事を終えてみると、必ず旃竒の方が獲物の数が多かった。
「さすがだなあ、相変わらず」
 部族の男達は、こぞって旃竒を誉めた。しかし旃竒は心から喜んだことはなかった。どちらかと言えば、飛慶の方が射掛けるのも速いし、ずっと遠くへ飛ぶ。
「今日もわざと外したろう」
 獲物が全て女たちの手に渡ると、旃竒は白馬を優しく撫でている飛慶の側に歩み寄った。
「えっ? 何のことだ」
 旃竒は悪戯の片棒を担いだような、にやりとした顔で、
「擁吉はいつもそうだな」
「…………」
「やれるのにやろうとしない。お前は優しいから」
「違うよ。できないのさ」
 飛慶は頭を振った。馬術は好きだ。弓だって好きだ。だが決して優れてはいない。父や旃竒の方がうまい。
「擁吉の手加減と比べられるのは御免だぜ。もともと、俺のほうが上手いんだからな」
 旃竒が踏ん反り返った。こうしている様は、実に小さな頃とそっくりなのだ。
「何だって。それなら一度、本気でやってやろうか?」
 そうされると、つい幼い頃の癖で意地を張ってしまう。
 すると旃竒は、実に嬉しそうな顔になる。
 その顔を見ることと、旃竒が呼びかける『擁吉』という訛りのある響きが、じつに飛慶に心地よかった。


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