運が悪かったのだ。 そう思うしか今のこの状況は乗り切れない。その上、やり切れない。 目の前の現実から目を逸らして、歩む速度を遅らせたって、現実が無くなるわけでもない。それでも、逃げたい時だって時にはある。 呂望にとっては、今がまさにその時だった。 目の前には終南山の洞府、の入り口。彼はゆっくりと息を吐いた。いずれは通らなければならない道なのだ。今躊躇っていても仕方が無いだろう。 「ごめんください」 返事がないことは確認済みである。呂望は足を踏み出した。足音が無駄に響く気がして落ち着かない。せめて隣に普賢がいれば良いのに、と今はここにいない親友を思う。 やはり、運が悪かったのだと思っても納得する事は出来なかった。好奇心より今は確かに恐怖心が勝っている。 相手はあの変人だそ。覚えず自分にやつあたりした。そうして直ぐに意味のないことに気づくのだけれども何かにあたらないではいられなかった。あの太乙にさえも変人と言わせる奴なのだ。元始でさえも変人と呼んでいたし、他の十二仙に訊いても同じだった。言わば崑崙山の全員がその存在を黙認しているのである。呂望にはそれがなんだか判らない。 (皆に迷惑をかける変人だったら、さっさとどうにかすればいいのに) 呂望は知らない。変人――雲中子は崑崙の生物学の第一人者である。太乙真人がそうであるように、その道の専門家と言うのは揃いも揃って変わり者で、そして貴重なのだ。 だが、呂望は知らない。その上、変人変人と口をそろえて皆は言うが、どれほど変人なのか、その程度も知らないのである。誰も、何が危険なのか教えなかった。それと言うのも、誰かが既に教えていると皆がみなそう思いこんでいたのである。ここに彼の不幸があるのだがそれはとりあえずおいておくとする。 永遠とも思われるほど長かった回廊を――それは、呂望の足取りが重かった所為なのだろう――抜けて、ようやく光りが見えた。 (気を付けてね。あいつは変人だから) 太乙の言葉が急に呂望の脳裏に浮かんだのは、呂望がその光景を見たからだ。 確かにそこには雲中子がいた。だけども、その周りが問題だった。怪しい実験道具や薬品類、動物の標本がごちゃごちゃと――。 (……帰ろう) 彼はそう決意した。もういい帰ろう。疑問が解決しなくても構わない。安全第一、命あっての物種だ。帰ろう。そうして踵を返す。 だがしかし彼は、徹頭徹尾運が悪かった。 「あ、もしかしてきみが呂望?」 雲中子は呂望に気が付いた。まるで今気がついたような様子で話しかけてくるが、本当はもっと前に気が付いていたのかもしれない。 (最悪) 呂望の頭の中にそんな言葉が過ぎった。泣きたくなったが堪えた。 太乙真人直伝の笑顔で振りかえる。 「はい。はじめまして、雲中子さま」 相手は間違っても自分の何倍も生きている仙人。初対面でもあるのだから一応は敬語を使う。雲中子はしばらく黙っていたが、突然手招きした。当然のように呂望は怪しい部屋に入る。 「きみ、太乙って知ってるかい? 玉鼎でもいい」 「は?」 突然に何を言うのか。頭おかしいんじゃないかアンタ。と言った顔で呂望は雲中子を見た。 「太乙って、太乙ですか?」 「私の知る限り仙界で太乙は一人しかいないから、きっときみの言う太乙と私の言う太乙は同じだと思うけれど」 「知ってます――多分」 どの太乙なのかよく分からないけども、呂望はとりあえず返事をした。 「じゃあきみは、その太乙の事をなんて呼んでる?」 「太乙……ですけども」 彼は小さな声で返事をした。もしかしてこの仙人は礼儀に煩い仙人なんじゃないかと考えた。呂望がそう言うと、雲中子はふうとため息をついた。 「やっぱりね」 「……は?」 思わず口から間抜けな声が出てしまって、呂望は慌てて口元を覆った。 「太乙のことだからそれくらいは言っていると思ったよ。全く礼儀は気にしないといっても、十二仙がそれじゃあ駄目だと何回も言ったのにねえ」 なんだか愚痴られているっぽい。呂望は適当に相槌をうった。 「で、きみは太乙は太乙と呼んでるんだよね。じゃあ私も雲中子でいい。その太乙から名前くらいは聴いているだろう?」 「はい……」 (雲中子はねえ、とにかく変わってるから。あとあんまり人間好きじゃないし、一度目を付けられたら最後だからね。色々されるよ) 太乙は、呂望ではないどこか遠くの方を見ながらそう言った。色々というのは、太乙自身も色々やられたのではないのかと思うわけだが、それを訊く勇気は彼にはなかった。呂望は、どちらかと言えば雲中子なんて名前よりも、もっとべつのことに耳を傾けていた。だけどあまり詳しくはない。結局彼が太乙と居て得た情報は、変わった研究をしている人間嫌いの仙人、というだけだった。 (色々されるって、何をされるんだ……) 彼は思ったが、その疑問は結局解決されなかった。 「そんなわけだから。太乙に敬語付けていないのに、私にだけ付けさせるわけにはいかないからね。――座りなよ。お茶を入れてあげるから。大丈夫。なにも入れないから」 呂望は少しだけ顔を引きつらせた。あの気を付けなよ、はこう言う意味だったのかと今ようやく理解しかけていた頃である。 出されたお茶は意外に美味しかった。 「それで」 一息ついて雲中子が口を開いた。そう言えばさっきから表情が全然変わっていないなと呂望は思った。妙にとぼけた表情の変化のないのを見て取っても十分に変人というのに相応しい。 「私に訊きたいことがあってきたんだろう? 白鶴からきいたすぐ後に太乙が来てね。ばかの一つ覚えみたいに、何もしないでくれよって繰り返すものだからね。全くきみはあの太乙に物凄く愛されているね。やつも結構人の好き嫌いが激しいのに」 「…………」 べつに嬉しくなんてないと思って呂望は返事をしなかった。太乙は呂望がここに来たときから何かと世話を沸いてくれる。だからそれが当然で、呂望の知りうる太乙は、世話好きの面倒見のよい気さくな仙人とそれだけであった。 「まあ太乙がらみだから後々煩くなるしね。答えてあげるよ。ほら、何が訊きたいのか言ってごらんよ」 やっと本題だなと思ったが、呂望はなかなか口を開かなかった。 (家族?) いつも笑顔の友人は、少し困ったように顔を歪ませた。 (あんまりよく分からないけど……。そういうこと知っている人がいると思うから、そういう人に聞いたほうが良いんじゃないかな。ごめんね、役に立てなくて) そういう人――色んな人に聞いて、辿り着いた先が雲中子だったと言うこと。 答えがまとまらなくて、それでも呂望はゆっくり口を開いた。 「太乙が――言ったんです」 「…………」 何を、とは雲中子は言わなかった。促すでもない。とにかくこういう時は口を開くのを待つのだ。 「どうしてそんなに復讐に――失われた家族にこだわるのかって。確かに妲己――は、良くない仙人で、でも僕の幸せを追っても良いんじゃないかっ……て。――僕は太乙に、はっきりとした答えを返すことが出来なかった――」 いつもふざけた顔の太乙が、その時ばかりは物凄く真剣な顔をしていたことを覚えている。以前垣間見た玉鼎真人よりもずっと鋭い目をしていた、嘘で誤魔化すことが出来ない眼。これが太乙の本当の顔なんだ、。幼くとも人を見る眼のある呂望は、そう感じた。 「家族――親、兄弟、血縁が自分の全てを引き換えにするほどに、大切なのかと訊かれて僕は――太乙から目を逸らしてしまった」 「…………」 「太乙は、もちろんあなたも、僕よりもずっと長い時間を生きているから。そんな気持ちも薄れているだけだと思って、僕には自分の全てを投げ出したいほど大事だと。……そう思ったのに、僕は彼の眼を見て言えなかったんです」 呂望は、身体の中の全てを吐き出すような息を付いた。 「僕はあの時、あの場所から動くことが出来なかったから。――あそこへ行けば死んでしまうと分かっていたから――何を言っても、僕は僕の血縁よりも、僕を選んだ事実は変わらなくて。――でも」 呂望は唇を噛みしめた。 「でも僕には、とても大事だって思えるのに――僕は、」 「――太乙の言いたいことは私にはよく分かるよ」 十分な間を取って、雲中子がぽつりと語り出す。 「太乙は、きみのことがとても――とても好きなんだよ。だから、きみがあまり苦しまないように、悩まないように、傷つかないように、とそう思っているからなんだろうね」 雲中子は、封神計画のことを知っている。そのことに、太乙がとても強く反対していることも知っている。それが、全て呂望のためだということも。けれども雲中子の呂望を見据える表情は変わらない。 「太乙だって、家族のことを軽んじているわけでもないんだよ。――ただね、本当にきみのことを心配していることは分かって欲しいね。さて、きみのことだが」 雲中子の双眸が呂望をとらえた。その瞳の光に呂望はどきりとする。それはけして呂望のことを真実真摯に心配するという目ではなかった。じっくり、観られている――観察をする、科学者の目だ。 「きみは家族と言う存在をきっと――唯一の拠り所と捉えているんじゃないかな。きみは思春期を経験したかい? きみの外見がそのときだったならば、まさに最中か、それくらいだね。その時期を過ぎると、家族をいうものを広義で捉えることが出来ると思う。でもきみはその時はまだほんの子供だったから、きみにとっての家族は、きみの全てだったんだ。大切なものであるからこそ、それは絶対的な存在」 雲中子は人差し指を呂望の目線の延長上につきたてた。その指も見えず、ただ真っ直ぐに彼の目だけが逸らすことが出来ない。 「きみはその絶対的存在を疑わなかった。だけど、それを壊す存在があった。恐怖で足がすくんだのも当然だろうね。きみの心のよりどころといってもいい、それが第三者の手によって無惨なほどに破壊されたのだから」 「…………」 そんなことはない、と呂望には否定することは出来なかった。言いたいのだけれど、唇がどうしようもなく乾いてしまって動かない。科学者の言葉は続く。 「妲己」 呂望の幼いからだが、びくんと揺れた。 「きみの、世界を壊したものへ全ての感情が向けられることになる。その日を境に、きみの絶対的存在は、妲己へと替わったんだよ。――意味は違うとしてもね」 「違ッ……」 「家族は」 雲中子は、呂望の抗議を遮った。 「生物学的に、家族は確かに血縁を示すもので、それは遺伝子に組みこまれている。親と子というのは、必ず反発しあうものだ。特に父親は。父親はお腹を痛めた母親と違って、子を疑うし、ある時期になると子は子で、父親に反発する。男の子にその傾向が強い。エディプスコンプレックスと言うんだが、中にはそれを逸し母親を愛するようになる子もいるらしいが――まあ、それはいいとしよう」 「…………」 「親と子の関係は非常に難しくて、憎しみあうようでそれでも振り切ることが出来ない。本当は憎んではいないからだ、だけども疎ましいこともある。そうやって促進しあいながら、双方が成長していくんだよ。――だけど、きみの心は未だ未発達なんだな」 「…………」 「分析されるのは、きみにとっては不本意だと思う。だけど、私がきみの心を解析して、きみに問われた太乙の問い、家族への復讐に、妲己へこだわるのかということ、その結論を導くならこうだね。“自分が自分であるために”」 「自分が、自分であるため……」 呂望は雲中子の言葉を反復した。 「そう」 科学者はさらに言葉を紡ぐ。 「なぜ家族がきみにとって大切かと言うと、それはきみにとっての家族は、絶対的存在であり、きみの唯一の拠り所だと言う話はしたね。それと共に、家族はいつか振り切らなければならないハードルでもあるんだよ。さっき、父親を排除しようとすると言ったね。あれは実際にするわけではなくて、心の中で殺していくんだ。そうして人は、自己を確立していく。だけどもその期間は、妲己によって永遠に無いものとされた」 「…………」 「絶対的なものは妲己へと代わり、きみの越えなければならないハードルも形を変えたんだ。妲己を殺すことで、きみはきみ自身の存在性を守ろうとしている」 「…………」 「もちろんこの分析は、きみにとっては納得のいかないものだろうね。きみの妲己へ向ける憎しみは、きみの幸せな時を奪ったこと、大切な家族を奪ったこと、それに、罪無き大勢の命を奪ったこと……。今のきみの妲己への憎しみは、ただの復讐心だけでは無いのだろう」 「…………」 「だけどね呂望。家族と言うのは血の結びつきだけではないんだよ。例えばきみに、とても大切な友人がいる。これは仮定だけど、その友人と、家族とどちらが大切か秤にかけることは出来るかい。――それは、秤にかけること事態が間違っていることだ。私はそう思うね」 雲中子に言われ、呂望は親友の顔を思い浮かべた。水色の淡い色の髪が柔らかい、いつも笑顔を絶やさぬ友人。彼の儚い、柔らかい笑みを守りたいと思う。しかしそれは確かに肉親に寄せる情とはまた別のものであった。 「そうやって、自分の中での価値観が家族と同じ――またはそれ以上の人物ができたら、家族と言うのはそんなに重要な役割を果たさないのだと思うね。話は戻るけど、きみにとっての家族は、きみの理想像なんだ。だから……そうだねえ、こんなにだらだら話しといてなんだけど、私が結局きみに言えることは一つだよ。太乙の言うことなんて気にしないで、きみはきみの思う通りに進むことだね。それが一番きみをきみらしくさせるのだから。そして、きみが自分自身に問い掛けた、“どうして太乙の眼を見て否定できなかったのか”と言う問いは、私が答えを出すのではあまりにも意味がない。きみが、自分で悩んで答えを出して欲しいと思うね」 「――よく分かりません」 その結論は、呂望にとっておよそ納得がいくものではなかった。確かに納得できる節も幾つかあったが、そうやって自分の感情を数字で並べるように、全て理詰めで片付けられるのが嫌なのである。 彼は憮然とした表情を浮かべた。その表情に、雲中子はにやりと不気味な笑みをこぼした。しかし、その笑みは彼にとてもしっくりきた。むしろ普賢みたいなにっこり笑顔は不気味だろうと、呂望はとても失礼なことを考えていた。 「言うと思った。私は根っから理系だけど、きみはやっぱり文系だね」 その言葉を聞いた途端、呂望はなんだか急に居心地が悪くなった。あそこまで分析されて、そしてさらにこれである。一挙一動が読まれているようで、落ち着かない。 「あの……僕もう失礼します。日も暮れてきましたし……」 音を立てて呂望は席を立った。雲中子は席も立たずに眼だけで見送る。 「あ、そうだ」 黙礼しようと頭を下げかけた呂望に、雲中子は声をかける。 「近日中にもう一度来てくれないかな。――今日じゃなくて、明日か――まあ、三日後までには。よろしく頼むよ」 「……はあ」 訳がわからず呂望は返事をした。 「じゃあよろしくね。いい結果を期待してるよ」 そう背中に声をかけられて、呂望は頭の中にたくさんのクエスチョンマークを浮かべて終南山を後にした。 訳は分からなかったが、それでも今日のことは自分に役に立った。呂望は帰り道でそう思っていた。いつのまにか日は沈み、辺りは薄暗くなっている様だ。よくよく降りかえればそんなに悪い人でもなかったし、勉強にもなった、と。 呂望は頭の中にあの親友を思い浮かべた。 「心配、してるかなやっぱり。遅くなっちゃったし……」 声に出してぽつりと呟く。心配、と言えばあのおせっかいな――そもそもの原因の太乙も心配してくれているだろう。なにせ呂望は、かの有名な変人に会いに行ったきりなのだ。彼はくすりと笑みをこぼす。 (きみはあの太乙に愛されているね) 突如、雲中子の言葉が頭の中に浮かんだ。呂望は意味もなく赤面した。そうだ。確かに愛して――くれているのだ。太乙も、普賢も。家族がいない今となっては、もしかしたら二度と手に入らないものなのかもしれないのに、自分にとっては幸福なことに愛情を注いでくれる人間は家族だけではない。そのことに気付いただけでも、今日の訪問は価値あるものに出来た。 あまつさえ彼は、雲中子を偉くて頭のいい人と思いはじめていた。機会があったら、またいろいろなことを教えてもらおうと。 彼は忘れていた。すっかり忘れていた。ここ崑崙山での雲中子のあだ名が“変人”であることを。 その、翌日のことであった。終南山に荒々しい足音が響いた。 「雲中子……私があれだけ呂望には何もするなと言ったのに――」 「雲中子さま、望ちゃんを治してくださいッ」 「――おや、太乙。それにきみは……賢か。騒々しいね。しかしその様子からすると、どうやらまた失敗してしまったようだな」 かなりすさまじい形相の太乙と、さすがに今は笑っていない普賢。今朝から呂望の様子がおかしく、ついに高熱を出して倒れてしまったのだ。太乙はすぐに見当を付けた。雲中子の所為だ、と。 「失敗してしまった、じゃないよ。全く何を創ろうとしたんだい。おかげで呂望は熱を出して倒れてしまったじゃないかッ」 「失敬だなきみは相変わらず。私はただ仙桃のエキスを酒気無しで薬に応用できないかなと思っただけだよ」 気を悪くした様子もなく雲中子は言った。太乙に次いで普賢が問いただす。 「だったらどうして望ちゃんはあんな風になったんです!」 「だから言ったろう。人の話をしっかりと聴きたまえ。失敗したんだよ。どうもうまくいかなくてね。呂望のその症例は――きっとアルコールが凝縮されてしまったんだなあ。しかも遅効性だったらしいね」 「そんな呑気に……」 普賢は絶句した。引き継ぐように太乙が続ける。 「ともかく。きみはさっさと呂望を診てやってくれないかい。――また何かやったらいくら私でも怒るからね」 「恐いね」 おどけたように言って、雲中子は重い腰を持ち上げた。 彼はそのままその足で、玉虚宮の呂望の私室へ向かったが、診察中、その部屋からは人のものではないような叫び声が上がったとかなんとか。 呂望は結局、身をもって雲中子が変人の異名を持つ意味を知ることとなった。 |
| 方野の感謝の言葉 / 雲中子様がかっこいいです……(かなり本気) 十二仙じゃないのが不思議なほど存在感のある人ですよね。でも師匠にするんだったらやはり玉鼎様がいいなと思う自分……。水月さま、ステキな小説をどうもありがとうございました! |