夜になく





 雨の日は一際犬の遠吠えが大きく聞こえる。
 メールチェックのためにパソコンに向かっていたら雨の音と、犬の鳴き声と、夏の終わりの蝉の声がいっぺんに聞こえてきた。うんざりとして手を止める。夏の終わりは秋の始まり。季節が交錯するこの時期はいつもいろいろ騒がしい。
「あ、パソコン終わった?」
 手を止めたのを勘違いしたらしく、ベッドの上に寝そべって本を読んでいた男が顔を上げた。
「まだ」
「ちぇっ、なんだ」
 ぬか喜びさせんなよな、と立川はベッドに頭を押し付けてもごもごと言った。その様子をちらりと見てからすぐにパソコンのディスプレイに目を戻す。
 少しだけ開けた窓から吹き込んでくる風に、カーテンがはたはたと揺れていた。窓を開けているからよけいにいろいろな雑音が大きく聞こえてくるのかもしれない。そんな当たり前のことにようやく気がつき、手を伸ばして窓を閉めた。途端に外の物音がひどく小さくなった。
「藤沢ぁ」
 立川が語尾を延ばして俺の名前を呼ぶ。鼻にかかったようなかすれた声は独特なリズムを持っていて、母親にしろ姉にしろ、よく家に遊びに来る立川を名前を覚える前は「あの声のいい子」と呼んでいた。いいのかどうかわからないが、はじめに会ったときから印象的な声だとは思っていた。
「そんなもんやめてさ、俺と遊ぼうぜ」
 窓を閉めたせいで部屋の中の音は必要以上に鮮明に聞こえるようになった。聞こえない振りをするには大きすぎる声に振り返ると、立川は顔だけ上げてこちらを見ていた。目が合うとふっと笑う。
「藤沢」
 もう一度名前を呼ぶ。しばらく放っていたらいつのまにか三十件近くたまっていたメールのずらりと並んだタイトルより、その声は魅力的に聞こえた。
 パソコンをそのままにしてベッドの端に腰かけると、立川は素早く起きあがって俺の手を握った。触れた指先を引かれて抱きよせられる。肩口に立川が顔を埋めてきて、体重をかなりかけやがるから後ろに倒れこみそうになった。
「重い、そんで暑苦しい」
 正直に思ったことを口にしたら立川がくっくっと笑って肩を揺らした。
「お前のそういうとこ、好き」
「趣味悪いよ」
「うん。でもお前は趣味いいよ」
 抱きしめられているのかしがみつかれているのかわからなかった。人の体温を感じるのが好きだと言うこの男の図体に似合わない子供のようなところが好きだった。
「俺はもっとずっといい男になるから」
「ああ」
 たぶんなれるだろう。今だって十分にモテるいい男だから。
「どうせならかっこいい恋人のほうがいいだろ」
「俺にそんなこと言ったって仕方ないだろ」
「ばか藤沢」
 毒づいて立川はさらに強くしがみついてきた。その硬い髪に触れる。窓の向こうの蝉の声と犬の鳴き声が遠い。立川の息遣いのほうがよほど大きく聞こえる。
 どちらが先に触れたのかもう思い出せない。
 どこに一番はじめに触れたのかも忘れてしまった。
 ただ言葉はなかった。それだけは覚えている。同じように夏と秋の狭間、どっちつかずの曖昧な季節に蝉が鳴いていて、斜め向かいの家の犬が発情期でもないのに思い出したように咆えていた。たぶん窓が開いていたのだろう。騒々しさと残暑の蒸し暑さにいらいらとして、頭の中がどうにかしてしまったようだった。
 だけどたぶん、もし窓が閉まっていても。
 あのときじゃなくても、いつの季節でも。
 人の体温を心地よいと思ったのは立川がはじめてだった。
 耳元で囁かれる声に泣きたくなるようなこともはじめてだった。
 だから言葉なんてものはいらなかった。
 なにひとつ。


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あとがき / 1年前くらいに書いた短編。高校生を書くのすごく珍しいなあと自分で思ってしまいました。