ブレア戦記   「赤の異邦人」





第三章


 ブレアを離れる朝になってもとりたてて別れを言うべき親しい人間は思い浮かばず、ハビアは普段どおりに目覚め、身支度を整えた。誰も何も話さない静かな朝はいつものことだ。一番身近なクレールは無駄話を一切しない男だったし、ハビアもまた進んで話したいと思う人間でもなかった。それで別段気まずいわけでもない。グリエがいなくなってからはそれが当たり前の生活だった。彼がいた頃どうだったかはもう覚えていない。グリエはよく喋る陽気な男だったけれど、人の機嫌をうかがうために話すことはしなかった。その声ももう大分忘れてしまった。

 よく喋るといえば、とりたてて陽気なわけではないがダーミスも口数の多い男だと思った。昨日何を思ったのか彼は夕方にハビアを訪ねてきて、ギルシュが既にレグホーンへ発ったと告げた。たった二日で準備が整うはずがないと驚いたが、兵を引き連れてではなく単独で先行したという。挨拶に来られないことを謝っておいてほしいとギルシュから頼まれたと、ダーミスは言った。互いに幸運を祈るとも。

 ――わざわざそれを伝えに? どうもありがとうございます。

 礼を言うとダーミスは突然不機嫌なような顔になり、短い髪をぐしゃぐしゃとかき回して大きくため息をついた。ハビアは自分に怒っているのかと思ったがそうではないらしく、彼は溜まった思いを吐き出すように「俺はこんなわけのわからないのが一番嫌なんだ」と呟いた。

 ――くそっ! 徹底的に戦うならブレアだけでやればいい。メルセスだのレグホーンだのいう必要がどこにある。潔く一国で戦って負けるのならそれがすべてだ。俺は死ぬのなら戦場で死にたい。この国を守って死にたい。違う国で戦うこともできず死ぬのなんざごめんだ。

(……ああ)

 それで彼は謝りに来たのだとわかった。ギルシュの言伝を聞いてきたのもダーミスが彼にも会いにいったからなのだ。

 けれど彼が申し訳なく思う必要などどこにもない。彼には権謀術数は似合わない。自分で言ったとおり、戦場で目の前の敵相手に鬼のように戦うのが似合っている。

 結局別れの言葉らしい言葉も交わさなかった。だがハビアの出立を知り、会いに来てくれたのは彼だけだ。他には誰もいない。ハビアがメルセスへ行くことを知っている者自体ほとんどいないのだから無理もないが、たとえ全国民が知っていたとしても結果はたいして変わらないだろうと思った。今までこの国でいかに人と関わらず生きてきたのかということを改めて突きつけられた気がした。

(メルセスか)

 どんな国なのだろう、己の運命を握る国は。豊かで恵まれた大陸一の国。グリエはあの国を眠りの王国だと言っていた。心地よい眠りの中にいるように穏やかな安らぎに満ちた国。けれど夢は永遠ではなく、眠れる王国はいつまでも赤子のように眠りについたままではいられないのだと。

 これは必然なのだと、自分に言い聞かせることで慰めたかったのかもしれない。たとえ自分がその眠りを破る者になるとしても。

 それは遠からず、避けられない道だったのだ。





 ブレアとメルセスとの国境は、一見して海のように広大な川だった。

 初めて見るセーズ川の大きさに、ハビアは正直本当にそれが川なのだとは信じられなかった。見渡す限り深く濃い緑の水が続き、向かいにあるはずの陸地が見えない。ここを越えれば気候も人々の気質も言葉もがらりと変わる。まるで違う大陸にあるかのようなブレアとメルセスの違いも、この川に隔てられていることを思えば納得できるような気さえした。

 メルセスとブレアの間には国交もあり、緊迫した関係にあるわけでもないから、国境の警備は極めて緩やかなものだった。ブレア側の岸では警備兵の姿がちらほら見られたがその数は少ない。他国から入ってくる者に対する調べは厳しいものの、その反対の出て行く側に対しては寛容だ。中に亡命者がいるとしてもかまわないと思っているかのような杜撰さでハビアはあっけなく乗船を許可された。目立つ赤い髪はフードをすっぽりと被って隠したものの、もし見咎められればなんと言おうかと考えたのが無駄に思えるほどの容易さだった。

 ひょっとして王が内々に取り計らってくれたのかとも思ったが、旅券をろくに見もせずさっさと追い払うように顎をしゃくって乗客を通している男を見る限りそれは信じられなかった。去る者は追わずというわけだ。そのくせ来る者は拒む。出国者への関心のなさは予想外だったが、他国からの入国を厳しく制限していることはハビアも知っていた。各国政府が身元を保証し、特に認めて入国証を交付した者だけしか入国できない。その入国証の枚数にすらブレアは制限をつけている。

 やや古びた小型船の甲板に上がり、目立たぬようにそっと見回した乗客の中には、当然のように商人らしき者が多く見られた。限られた入国証を手にできるのはメルセス本国へも利益をもたらす商人がほとんどで、一般の国民が観光を目的に申請して許可されることは滅多にないという。それゆえメルセスからやってきてまた帰っていく者はたいていが商人だ。ハビアの乗った船の半数もそうしたメルセス人で、残りの半分がブレアからメルセスへ渡る者、ブレアの民だった。その中には商人もいれば豊かなメルセスでの暮らしを望む普通の家族もいる。しかしハビアのような軍人はおそらく彼一人だろう。ブレアの軍人ならば今ごろは多くがステルスとの国境に配備されている。海のような川ではなく、長く広がる山脈に区切られたティント地方へ。

「お兄さん、すごい格好をしてるが寒いのかい?」

 突然知らない男から声をかけられてハビアが相手を見ると、四十がらみの商人らしい男は面白いものを見るような顔でハビアを見ていた。その言葉は何の訛りもないきれいな大陸共通語だったから、彼がメルセスの人間であることがわかった。メルセスの公用語がすなわち大陸共通語なのだ。商業で他を圧倒する国の言葉が優勢になることは当然だった。

 ハビアが返事をしないでいると男は続けて、

「けどあっちについたらそんなもの必要なくなるさ。こっちとあっちとじゃ全然気温が違うからね。川一つ越えただけなのに不思議だけどねえ。メルセスは今ごろ春の陽気でぽかぽかしてらぁ」

 春でも雪の残るブレアとはまるで違う。

 自らの国が恵まれていると誇るような男の言葉に曖昧な微笑を返し、ハビアは「寒いところにばかりいたので」とあたりさわりのないことを言った。

「私にはメルセスは暑すぎるのではないかと少し心配です。これから夏も来ますし」

「ああ、そうかもしれんなあ。あんた、ブレアの人だろう。メルセスへ行くのは初めてみたいだね。あそこはいい国だよ。ブレアも悪かないが、何しろ戦争が多いからなあ。俺ら商人にはいささか敷居が高いね。金持ちが多いのはいいんだが」

 なんと答えていいものかわからずにハビアはただ肩をすくめた。

 ブレアは戦争が多く、商人たちにとっては決して理想的な仕事場ではないだろう。しかし彼らがそれでもやってくるのはブレアでは希少な鉱物が多くとれること、そしてそのため裕福なブレアの民がたくさんのものを金に糸目をつけず買うことが理由だった。彼らはメルセス人から見ればがらくたに過ぎぬものにでさえ珍しがって高い金を払う。その筆頭が王宮だ。上がそうなのだから一般市民がそれに倣うのも当然だった。

 男はメルセスまでの退屈しのぎの相手を勝手にハビアに決めたらしい。適当な場所を選んで甲板に腰を下ろし、ハビアを隣に誘った。無下にする理由もなかったので従うと、楽しそうに話しかけてきた。

「俺はブレアに来たのは今回が四度目になるんだが、ここはいつ来ても静かなところだなあ。市場やなんかに行ってもこう、妙に空気がはりつめているというか、変に静かで威圧的な感じがするね。ひとつひとつを見るとどこが変ってわけでもないんだけどねえ」

「メルセスは商業の国ですから、賑わいもさぞや大きなものなのでしょう。それと比べてはどこでも見劣りがしますよ」

「そうかぁ? 規模がどうとかいう問題じゃない気がするんだがね。戦争ばっかしてると感覚が麻痺しちまうのかねえ」

 何気ない男の言葉にずきりと胸が痛んだ。このメルセスから来た商人にとってはブレアの戦争に慣れた民はそういう風に映るのだ。静謐なあきらめに満ちた国、人々。それはこの国に来て以来ハビアもずっと感じ続けてきたことだった。

 戦争とは、痛みとは、そういう風に人々を変えていくものだ。ブレアはあまりにも長く戦争を続けている。

 そのとき出航を告げる鐘の音がして、船が岸から解き放たれた。海を渡る航海ではないからメルセスへ着くまでの時間はさほどかからない。二度と見ることはないかもしれないセーズの流れをしっかりと目に焼き付けておきたいとハビアは思ったが、隣の男を無視して立ち上がるのは気が引けた。彼はまだ話し続けている。

「あんた、これからはメルセスで暮らすのかい? きっと人の多さにびっくりするよ。あんたみたいにいろいろな国からやってきている人間も多い。けどねえ、そういう人間には少し住みにくいかもしれんよ。あれだけ他国と交流していながらいまだに異国人を特別視するのをやめないんだからねぇ。ブレアとは違う意味で変な国だ」

「それは……仕方ありません。異国人を自分たちとまったく同じに考えることはできないでしょう」

「どうしてだい。俺は相手の国がどこだろうとかまいやしない。人はひとりひとり違うからね。国によって分けられるものなんかないと信じているんだがなぁ」

 のんびりした口調で言う男の顔ははじめの印象よりずいぶんと生真面目そうで、男の内心の人の良さをうかがわせた。

 男の言うことは本当だ。人はひとりとして同じ人間ではない。だが国土によって育まれる性質というものもたしかにあるのだと、口には出さずにハビアは思った。どこにでも例外的な人間というのはいるが、多くは自らを取り囲む環境に影響されず生きていくことはできない。たとえ自覚があるにせよ、そうでないにしろ、凍える土地で育った者が寒さに強い体を持ち、熱帯で生きる者が暑さに強いように、精神の成り立ちにも少なからず土地の影響はある。必ずある。

「おや? あんた、赤い目をしてるんだねえ。珍しいねえ」

 不意に男が言い、ハビアははっと目を瞠った。髪と同様、目の色も彼の出自を表す特徴的なものだ。フードを深く被ればわからないだろうと思っていたのがいけなかった。赤い目はノームの印。ブレアの北方に住み、ごくわずかな機会を除いては決して他者と交わらぬ少数民族の。そしてその中で唯一氷雪地帯サンドリナを離れて生きているのがブレア四将軍の一人であるということを、男は知っているだろうか。

「そんな鮮やかな赤い目があるんだねえ。パルディク様の目も赤に近い珍しい色だと思ったもんだが、それ以上だ。きれいな色だな」

 感心したように言った男の様子からはハビアのことに気づいた気配はない。ほっとすると同時に、今度は何気なく男が漏らした名前が気になった。

「……パルディク様?」

「スー公爵の一人息子さ。メルセスの。公爵は俺ら商人によくしてくれてねえ。長い航海が終わったあとなんかには晩餐会に呼んで労ったりしてくれるのさ。そこで昔一、二度見かけただけだが、髪も目も赤っぽい色をしてるんで驚いたな」

 パルディク・スー。ハビアは心の中でくり返した。メルセスにたった二つしかない公爵家の一つ、スー家のことについては事前に調べてにわか知識をもっている。何でも現当主は誠実で有能、貴族にも庶民にも分け隔てなく接することできわめて評価の高い貴族であるらしい。法務大臣という立場もあり、メルセスに亡命を願い出るにあたり、必ず会うことになる人物だろうと思っていた。

 しかしその息子については、ほとんどブレアには資料がなかった。政治の表舞台にはまだまったく登場していないからだ。けれど赤い髪、と聞いてにわかに興味が引かれた。会えるのならば会ってみたい。

「ああ、もうじき着くよ」

 周りの者たちがそれぞれの荷物を手に立ち上がり始めたのを見て男が言った。立ち上がると、向こう岸にようやく陸地が見えた。あの地がもうメルセスなのだ。

 なんていうあっけなさだ、と半ば呆然としてハビアは思った。国境を越えることはもっとずっと過酷なことだと思っていた。なのにあまりに簡単すぎて自分が夢を見ているのではないかと思ってしまう。

「ここがメルセス……」

 船を下り、陸に足をつけてもなお半信半疑な思いで周囲に首を巡らせた。岸の光景はあまりブレアと変わらない。国が変わったことを実感できるほど人も多くない。ただ、船内で男が言ったとおり陸地に下りたとたん急に暑くなったように感じたのはたしかだった。太陽が光を増したのではないかと思えるくらいの変わりようだ。

「じゃあな、兄さん。機会があればまた」

 国境を越えるための簡単な検査を受けたあと、男は朗らかに片手を上げて立ち去った。その後ろ姿をしばらく見送ってから、ハビアはふっと足元に視線を落とし、自らが足を踏み入れたメルセスの地を見つめた。

 これから行くべきところも、せねばならないこともわかっている。

 それでも、すぐにその場から動き出すことはできなかった。身体を掠めるように駆け抜けていく風の涼しさを感じる。もう既に高い位置にある太陽の照りつける光が、目を射るように強い。

 すっぽりと被ったフードをさらに深く引き下ろした。この光は自分には強すぎるとハビアは思った。ブレアの太陽はもっと柔らかで穏やかな光で、年中雪に閉ざされたサンドリナでは、真っ白な雪がほんのわずかな光を反射してきらきらと輝いていた。そういう光に慣れた目には、すべてを等しく照らす強烈な光は眩しすぎる。この、豊かで強大な国そのものであるかのような太陽に、言い知れぬ畏怖を覚えずにはいられない。

 迷いを断ち切るように一度首を振ると、ハビアはなすべきことをするために一歩足を踏み出した。

 メルセスの首都、クェルティンへ。


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あとがき / いよいよ次の章からメルセス編です。はあ。なぜかため息が出てしまう……。いったい私は何を思ってこの話を書き始めたのか苦悩します。早い話がまったく続きが書けません(殴)