ブレア戦記   「赤の異邦人」





第四章


 一年のうちで最も美しく華やかな季節を迎え、メルセスでは国中のすべてが幸福に包まれているように明るい光がそこらじゅうに満ちていた。

 光と花に溢れたこの世の楽園、とかつて詩人が詠ったこともあるほど美しいメルセスの春に、こころなしか法務省内で行き逢う人々の顔もすっきりとして明るく見える。冬を過ぎてようやく迎えた暖かな春を謳歌するようにやわらかな表情で、中庭に咲き乱れる花々を愛でつつゆっくりと歩を進める。そうした同僚たちの姿を見ながら、トルシン・スーはそっと苦笑を漏らした。――何という幸せな国だろう。

「スー公爵」

 呼ぶ声に振り返ると、部下である法務副大臣のシュバリエが立っていて、彼は楽しげな他の人々とは違う険しげな表情でトルシンを見つめていた。

「どうした」

「実はつい先刻、わが国に亡命したいと願い出てきた者がいるとの報告を受けまして」

「亡命? ステルスからか」

 圧政と日常的に続く戦争とで日に日に国民からの支持を失っている隣国の名が真っ先に浮かんだ。ステルスからの亡命者なら今までも何人か受け入れたことがある。せいぜいが議会の末席に位置する一議員程度でさほどの大物ではなかったにもかかわらず、ステルスは強行に引渡しを要求してきた。そのたびにメルセス側は「人道的な理由から引渡しは認められない」と議会で決定し、ステルスに対しては態度を鮮明にしないまま役人に少なくない金を握らせて、王には亡命者は行方不明、あるいは追跡の途中で死亡したと伝えさせた。

 今回もその面倒な手順を踏まねばならないのかと半ばうんざりとしてシュバリエを見ると、

「いえ、それが……」

 シュバリエは言葉を濁した。自らの中でも納得しきれていないのか、眉を顰めながら小声で短く報告した。

「ブレアからとのことです」

「なに?」

 ブレア? と思わず聞き返すほど意外だった。たしかにあの国は満たされているとは言いがたい。小国でありながら豊かな鉱物資源を有するがゆえにしばしば他国から主権を狙われている不幸な国だ。

 けれど今までただの一人もブレアから亡命者が来たことはない。言い換えれば、亡命という形をとらねばならぬほどの人物がブレアを捨てたことがない。バーリーにも匹敵するほどの愛国心を持つブレア国民の中で、さらによりいっそう国を愛するのが国王をはじめとする国の中枢を担う人物であると言われるほど、ブレア上層部の愛国心は強かった。ステルスとはえらい違いだと内心その高潔な清廉さを深く印象に残していただけに、ブレアからの亡命者というのはにわかには信じがたかった。

「誰だ」

「そこまではまだ……」

「名を名乗らなかったのか」

「スー公爵にお会いしてから話すと言うばかりだそうで」

 シュバリエの言葉にトルシンは、内心の動揺を隠して浅く頷いた。

「では私が話そう。その客人は今どこにいる?」





 シュバリエの判断により、その男は余人の目になるべく触れないよう省内の奥まった一室に案内させたという。

 トルシンへの報告を真っ先に考えたシュバリエもまだ本人を見てはおらず、なんでもとにかく目立つ男だということで、と部下から聞いたことをそのまま報告しながら自分でも釈然としない顔をしていた。民族が異なるとはいえ、メルセス人とブレア人では一見しただけでどちらかわかるほどの容姿の違いはない。それゆえどこがどういうふうに目立つのかを聞き忘れたシュバリエには、その理由がわからなかったのだ。

 しかし扉を開けて室内に足を踏み入れた瞬間、誰に尋ねずともその理由は明らかになった。

 椅子に腰を下ろすでもなく立ったまま所在無さげに室内を見回していた男の髪は、燃えるような赤色をしていた。

 入室した二人に気がつくと、男は目礼をしてすっと姿勢を正した。亡命者には似つかわしくないほど落ち着き払った表情でわずかに微笑する。

「――公爵」

 促すようなシュバリエの声に、男を見た瞬間から魂を奪われたように目が離せなくなったトルシンは我に返った。

「……失礼。私はトルシン・スーと申します」

 男は髪だけでなく、目の色も髪と同じに赤かった。この色は雪深いサンドリナの地でさぞや映えることだろうとトルシンは、いまだに衝撃から冷め切らない頭でぼんやりと思った。ブレアから来た赤い髪を持つ男。そんな人間は彼の知る限り一人しかいない。

「お目にかかれて光栄です。私の名はハビア・パブロン。勝手な申し出とは知りながら、ブレアより参りました」

 男の言葉はわずかにくせのあるメルセス語で、その声はただ静かにやわらかく響き、表情と同様にいささかの焦りも不安も窺えない。

 ブレアの四将軍は過去に例を見ぬほど若者ばかりだと聞いていた。それを頭では知っていながら、いざその一人を目の前にすると想像以上の若々しい外見に気後れする思いがする。

 赤い髪と目のほかは取り立てて目立つところのないハビアは、言われなければブレア軍の最高位に就く者とはとても思えないほど、荒々しさとは無縁な容姿の男だった。武官というより学者のようだ。息子とさほど変わらないのではないかと思えるような年齢の男を前に、自分の感情が不必要なほど高ぶっているのを苦々しくトルシンは自覚した。

 その心を押し隠して右手を差し出す。

「こちらこそお目にかかれて光栄に思います。パブロン将軍のご高名はかねがね伺っておりました」

「虚名ですよ」

 謙遜という風でもなく淡白に笑ったハビアは軽くトルシンの手を握り返した。触れたのは一瞬、冷たくも温かくもない体温を残して離れ、あとにはどうしてだか深い喪失感が残った。

「シュバリエ、すまないが二人で話をする」

 シュバリエに聞かれて困る話などするつもりはない。ないが、ブレアから来たこの男とできるなら二人だけで話をしてみたかった。

 シュバリエは頷いて一礼すると、黙って退室した。彼は口のかたい男だ。口止めなどせずともこのことを人に話すようなことはしない。トルシンが言うまで自分の胸にだけしまって口を噤んでいるだろう。たとえトルシンがハビアのことを王に奏上しなかったとしても。

「どうぞ、おかけください」

 促してともに椅子に腰を下ろした。

 目の前にいる男の赤い髪が、トルシンにはどうしても気になって仕方がなかった。息子の赤に近い髪を見るだけでも騒いだ心は、本物の赤を見てさらに大きく乱される。これは本物なのだ、とトルシンは吸いこまれたようにハビアから目を逸らせないまま、思った。本物のノームの赤だ。かつて知っていた人と同じ、燃えるように赤い。

「メルセスに亡命を希望されているというのは本当でしょうか」

 法務大臣としての役割を果たすために問いかける。ブレア将軍の亡命という重大なことに際し、私情を持ち込むわけにはいかなかった。そう、彼はブレアの将軍なのだ。ノームの民であるというのは彼の持つ特性の一つに過ぎない。重要なのはそのことではないと、トルシンは自分に強く言い聞かさねばならなかった。

「ええ、ご迷惑は重々承知しております。しかし私にはメルセス以外に行き場所を見つけることができませんでした。もし私を受け入れてくれる国があるとしたら、それはこの国のほかはないと思ったのです」

「しかし、なぜですか。将軍たるあなたがブレアを捨てるなど、いったい何が原因なのでしょうか」

 ハビアは困ったように苦笑した。

「私は戦争が嫌いなのです。だから虚名だと申し上げたのですよ。将軍になど本来ならなるべきではない人間だった。だから逃げ出したくなった、それだけです」

 それを恥じる風もなくただ静かに微笑みすら浮かべながら話す男が何を考えているのか、表面から推し量ることはできなかった。戦争が嫌いだという言葉にも納得がいくほど線の細い彼の容姿ではあるが、ノームの民の能力はただその外見上の力強さからだけでは測れないこともトルシンは知っていた。

 魔術という、遠い過去に滅びてしまったといわれるものをいまだに持ち続ける稀有な民族。それがノームだ。

「ならばなぜ将軍位を辞されなかったのです。そうすれば国を出ても、ブレアはあなたを追ったりしないのではないですか」

 一人の国民の出国さえも認めないほど狭量な国ではあるまい。そう仄めかすと、ハビアは「そうですね」と微笑した。この男はいったいどうしてこんなふうに笑うのかと、トルシンは自分の気持ちに翳りが差すのを感じた。笑うべきではないところで、なぜ少しも揺らがない平然とした顔で笑うのか。

「そうかもしれません。しかし一度将軍という地位にあった者が国を捨てるというのは決して外聞のよいことではありません。前国王ならばそれでも許したでしょうが、現在の国王陛下はそのようなことを最も嫌う気性の激しい方です。私が将軍を辞すことすら許しはしないでしょう。――そうですね。戦争が嫌いだからではなく、私はただ、陛下の気性が恐ろしいのかもしれません」

 つい半年ほど前に即位したブレア新王の顔をトルシンは見たことがない。祝いの使節が外務省から送られたはずだが、齢十八という若さにばかりとらわれてそれ以外のことを気にしたことはなかった。若さは幼さだと決めつけて、もうしばらくは側近たちの言うがままに政務を執るのだろうと思い込んでしまっていた。

 自らの王のことを語るハビアは、口では恐ろしいと言いながら別段表情を変えることもしなかった。彼の言葉をどこまで信じてよいのかトルシンには判断がつかなかった。穏やかなハビアの表情はとても嘘をついている人間のようには見えなかったが、同時に彼の言葉のすべてが嘘なのだと言われても納得できるような気がした。

「お話はわかりました」

 彼の言葉が真実であろうと、なかろうと、この場ですぐに結論を出すことはできない。王に奏上するかどうかはまた別の問題として、とりあえず考える時間が必要だった。

「しかし私一人の意見で決められる問題ではありません。少し、お時間をいただけますか。微力ながら、お役に立てるよう努めるつもりです」

「ご迷惑をおかけします。どうかよろしくお取り計らいください」

 トルシンが立ち上がると、ハビアもまた立ち上がった。トルシンはふと気がついて尋ねる。

「時にパブロン将軍。メルセスでどこかお泊まりになるようなところがおありですか。お知りあいなどは?」

「いえ…」

「では、もしよろしければ我が家へおいでください。省内にお部屋を用意することもできますが、ここではあまり行き届いたお世話ができないと思いますので」

「しかしそこまでご迷惑をおかけするわけには……」

「かまいません。差し支えなければブレアの話などを聞かせてください。私も話し相手がいてくれたほうがうれしいのです」

 辞退しようとするハビアの言葉を遮るようにして言った。彼の扱いが決まらぬままに省内に留めおき、余人の目に触れさせるのは賢明でないと判断したせいでもあるし、実際彼ともう少し話がしてみたかったせいでもある。

 ブレアの話とはいっても、国の機密に関わるような話が聞きたいわけではまったくなかった。むしろブレアというよりは、ノームのことを聞きたいと思った。サンドリナでの人々の暮らし、気性、どういうものが好きで、何を侮辱だと感じるのか、そういうことを聞きたい。それはもちろんごく私的なことで、だからこそ彼を私邸に招いているのだ。

「申し訳ありません。お言葉に甘えさせていただきます」

 やわらかく丁寧な彼の口調は、トルシンに別の人間のことを強く思い出させた。

 彼女もまた、ひどく静かに話す人間だった。そして常に落ち着き払って心を乱さず、声を荒げるところなど見たこともないような女性だった。

 トルシンが知っているのはただ二人きりだから、それがノームの民すべてに共通する性質なのかはわからなかった。彼女は懐かしいような目をして時折同胞たちのことを語ったが、戻りたいと思っている素振りは一度も示したことがなかった。あの地は生まれ育った故郷、けれど帰る場所ではないのだといつだったか彼女が独り言のように、だれに言うともなく呟いたことがある。なぜか急に、たまらなく不安になって帰る場所はここだよね、と幼かった彼が尋ねると、彼女は薄く笑って答えなかった。

「――スー公爵?」

 呼ばれて気がついた。ここ最近、物思いにふけると周囲のことが頭から消え去ってしまうことが多くなった。しかも物思いの内容はいつも過去のことばかりで、自分も年をとったと自嘲するように、嘆くようにそう思った。

 急に立ち止まって黙り込んだトルシンを不思議そうに見る赤い髪のブレアの将軍に、あらためて時はたしかに流れているのだと感じた。世代交代という避けられない時の波は、もうすぐそこまでやってきているのだと。


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あとがき / 中年のおじさまを書くのは結構楽しいです。昔からけっこう好きだったりします。さすがに主役にはできないですが。しかし歳をとるにつれて30代は中年ではないと思うようになりました。