第五章 その日の夕刻、空が夕焼けの赤と夜の紺碧とにうっすらと染まり始めた頃、トルシン・スー公爵は法務省のすぐ隣に立つそっくり同じ形をした建物――メルセス王国外務省の一室を、ある人物を訪ねてきていた。 取次ぎの役人に「イーグリー公爵にお会いしたい」と告げて案内された大臣室はからっぽで、ここでしばらく待っていただきたいとの言葉どおりかなりの時間待たされた。突然に訪ねてきたのはこちらだし、待たされること自体は苦にならなかったが、今日は私邸に客人を迎えていることもあり、なるべくなら早めに帰りたいというのが本音だった。なりゆきによってはまた法務省に戻ってこなければならなくなるとも覚悟していたが、とりあえずイーグリー公爵と話をしたら一旦屋敷に戻るつもりだった。 けれどいっこうに公爵が現れる気配はなく、トルシンはひょっとして公爵はこの建物内にはいないのではないか、と訝しんだ。あるいは別の客が訪れていてその話が長引いているのだろうか。 できれば早急に解決策を話し合いたかったが仕方がない、明日にしようと立ち上がったとき、ノックもなしに扉が開いてグラス・イーグリー公爵その人が姿を現した。しかしグラスはトルシンを見ると「うわっ」という声をあげて驚いて、どうやら室内に彼がいるとは思っていなかったらしい。あたかも自分が不法侵入者であるかのような非常にバツの悪い思いを抱きながら、トルシンは頭を下げた。「失礼。先刻から公爵を待たせていただいておりました」 「いや――こちらこそ、失礼した。ちょうど外から帰ってきたところで、誰にも会わずに来たからあなたがおいでになっているのを知りませんでした」 すぐに驚きから立ち直って笑うその顔は若い。昨年公爵を継いだばかりの彼女は息子と、そして国王とも同年だった。 首筋を隠す程度の長さしかない短い髪も、整った爽やかな風貌も一見して男性のものとしか見えないが、イーグリー公爵は女性だった。男子しか跡継ぎとなれない王家とは異なり、公爵家は女子が家を継ぐことも禁じられていない。グラス一人だけしか子をもうけなかったイーグリー家では必然的に彼女が爵位を継いだ。ひょっとして彼女が男のような身なりをしているのもそのように育てられたからかもしれないとトルシンは思っている。いまだ女性の地位が低いこの国において、ただ女だというだけで侮られぬように。 「どうぞおかけください」 椅子を勧められて、トルシンは再び腰を下ろした。グラスはその前に座り、長い足を優雅に組んでトルシンを見つめる。その態度にはいささかも臆するところはない。親と同じくらい年の離れた相手の前で、彼女はどこまでも自然体だった。それは不必要なほどトルシンが身構えているのとは対照的に。 「時に公爵、一つお伺いしたいのだが」 先に話を切り出したのはグラスのほうだった。ブレアからの亡命者の扱いについて話し合うつもりだったトルシンは一瞬虚を突かれたが、すぐに「何でしょう」と答えた。 「公爵の目から見て、クラウスは私のことをどう思っていると思う?」 「は?」 あまりに思いがけない話題――いや、最近の彼女の様子を見ていれば決して想像できない問いかけではなかったが、ハビア・パブロンのことで頭がいっぱいだったトルシンからすれば唐突過ぎる言葉にすぐに返答することができなかった。 「だから、私は嫌われているだろうか。率直な意見を聞きたいのだが」 そう問う彼女の表情は真剣だった。 しかし真剣にそんなことを問われても、いったいどう返答してよいのかわからない。しばらく沈黙したあと、グラスがあきらめずに黙って自分の言葉を待っているのがわかると、仕方なく、トルシンは困惑を隠せないままに答えた。 「クラウス殿下は決してあなたのことを嫌ってはおられないと思います。しかし――」 「しかし?」 「結婚はまだ早いと思われているのかもしれません。あるいは国王陛下もいまだお独りですし、ご自分のほうが早くに結婚されることに抵抗がおありになるのかも」 言いながら、自分でも違和感があるなと思ったが他にどう言えばよいのかわからなかった。グラス・イーグリー公爵の意中の相手、王弟クラウスは現在二十二歳。決して結婚が早すぎる年齢ではないが、彼の性格からして、おそらく結婚など欠片も考えていないのは明らかなようにトルシンには思えた。 しかし目の前のグラスとてつい最近までは結婚など冗談じゃない、という風に見えたのだから人間はわからないものだ。何がどうなって気が変わることがないとも言えなかった。 「そうかな」 グラスはほっそりとした指先で頬を撫でた。 「あきらめずにいれば振り向いてくれるでしょうか」 思いがけず殊勝な言葉にトルシンは面食らったが、その驚きは表情には出さずにただ頷いた。 「それならば頑張ります」 そう言ってにこりと笑う彼女を素直に微笑ましいと思った。自分の気持ちに正直で、少しも好意を隠すことをしない。この勢いで迫られたらあのクラウスでさえ無視することはできないだろう。 それにひきかえ、と彼は自分の思考が逸れていくのを感じながらも、それを止めることもできず思った。グラスと同年の息子が何を考えているのか、もう随分前からよくわからなくなっていた。パルディクが家を出たのは三年前、大学を卒業するのと同時だった。そして郊外にある人里離れたスー家の別荘で、ひとりで暮らし始めた。 「ああ、そういえば公爵、何か私に話があったのではないですか」 その言葉で物思いから引き離された。 「ええ、そうです。実はご相談したいことがあって伺ったのです。実は今日、ブレアの将軍から亡命の願いを受けまして」 「……今何と?」 「亡命です。ブレアのハビア・パブロン将軍。名はご存知でしょう」 「もちろん、もちろん知っています。ブレア四将軍の一人。――冗談でしょう」 グラスが驚くのも無理はない。トルシン自身もいまだに信じられないほどなのだ。しかし事実なのですと言うと、彼女は眉間にしわを寄せて考え込むようにしばらく沈黙した。 「それで……どうされるのですか。メルセスは今まで亡命者をすべて受け入れてきましたが、ブレアの将軍とは、あまりに……」 「ですから相談に参ったのです。亡命者の扱いは基本的に法務省が管轄しますが、今回ばかりはうちだけですませられる話ではない。外務省も――そしておそらく陛下にも関わっていただくことになるでしょう」 「では、陛下にはまだ?」 「ええ。今知っているのは私とシュバリエ、そしてあなただけです」 「ああ、まあ陛下が知ったところでどうなるものでもないが……」 独り言のように呟かれた言葉をトルシンは聞こえないふりをした。 「今のところブレアからは何も言ってきておりません。ステルスもです。ブレアはともかく、ステルスはおそらくまだ知らないからでしょう。知れば是が非でも引渡しを要求してくることは目に見えています。――できることなら、ステルスへの引渡しはしたくありません。これはごく個人的な意見ですが」 「いえ、私も同感です。ステルスなどに引き渡せば彼の命がないことはわかりきっている。しかし厄介だな。引渡しを要求されて拒めばステルスがメルセスに対してもどういう態度に出てくるかわからない」 「そう。それが問題なのです」 ハビア・パブロンの亡命を受け入れるということは、メルセスにとってステルスとの関係を悪化させるという大きなリスクを抱えることだ。ステルスのイーヴァル王は極めて領土拡大欲の強い暴君として知られているが、その意識は今までのところ専らブレアに向けられており、正面切ってメルセスに戦いをしかけてきたことはない。 しかし機会あればメルセスをも下したいと思っているのは明らかで、ちょっとしたきっかけを与えればその矛先がメルセスへ向かうのはほぼ確実だ。ハビアを受け入れることはそのきっかけをイーヴァル王に与えることになる。 二人の間に沈黙が下りた。どちらの頭にも戦争の文字があったのは間違いない。たった一人の亡命者を受け入れてメルセスの多くの国民を危険にさらす、それは果たして許されることなのか。何よりも国のために尽くすべき自分たちが、ただ人道的という理由だけでそのような決断をくだすことは本当に正しいことなのだろうか。 「――とにかく、ステルスに知られないようにすることが第一でしょう。しかしもし、もし知られたら」 沈黙を破ってグラスが口を開いた。 「引渡しは断固として断るべきと私は思います。最終的な決断は公爵にお預けしますが、私の意見はそうです。お心にお留めおきください。責任を負う覚悟も今しました。もっとも、私には私の命しか捧げるものはありませんが」 唇の端をわずかに上げるだけの微笑をして、グラスはそう結論をくだした。 その決断の速さと強さにトルシンは一瞬呆然として、それから彼女につられるように力なく笑った。 迷いのない彼女の決断を羨ましいと思った。こんなふうに言い切ってしまえるならどれほど楽かわからない。ただ自分の心に従ってハビアの亡命を受け入れられるなら、それほど望ましいことはない。 礼を言って、トルシンはその場を辞した。高潔で明快な若きイーグリー公爵。彼女に会い、話をして、自らの衰えを改めて強く感じた。おそらく決断を下すべきは自分ではなく、彼女や国王のように、これからのメルセスを担う若者たちであるべきだろう。それが当然のように思えた。 「やあ、ご気分はどうですか」 すっかり日も落ちて、昼の天候のよさをそのまま引き継いだように、雲のない満天の星空が頭上を覆う頃、ようやく自らの屋敷に戻ることのできたトルシンは真っ先に客人の部屋を訪れてそう声をかけた。本当ならもっと早くに帰るつもりだったが、シュバリエに呼び止められてできなかった。彼をはじめ、腹心の部下たちとしばらく話し合ったが、結局結論は出ぬままに時間だけが遅くなってしまった。 「ありがとうございます。こんなによくしていただいて、感謝の言葉もありません」 ハビア・パブロンは昼間の印象そのままに静かな様子で微笑むと、頭を下げた。 「いいえ、とんでもありません。それより食事はお口に合いましたか?」 「ええ、とても。公爵は今お帰りになられたのですか? お食事はとられましたか」 「まだですが、いつも晩は遅くに食べるので。私のことはお気になさらないでください」 ハビアのことは執事のパリスに任せて出て行ったが、彼はきちんと対応してくれただろう。この屋敷の中でハビアの持つ赤い髪と目の意味をはっきりとわかるのはおそらくトルシンを除いては彼だけだ。ノームの民という存在そのものが一般の人々にはほとんど知られていない上に、そのうちの一人がブレアの将軍だなどと知っているのはごく少数の知識人と、ブレアの軍編成に無知でいるわけにはいかない政府関係の人間くらいだ。パリスとはかつてブレア軍における異色の将軍について話をしたことがある。 ふとハビアの姿を改めて見ると、彼が昼間会ったままの異国の服装をしていることに気がついた。 「ああ、パリスは言わなかったかな。申し訳ない。部屋にある服をご自由に着てくださってけっこうですよ。そのままでは窮屈でしょう。もしブレアの服がよいとおっしゃるのなら取り寄せますが」 「いえ、そのようなことは…。しかしこの部屋は公爵のご子息のお部屋だったとお伺いしました。服もそうなのでしょう。ならば私が勝手にお借りするわけには」 「かまいません。息子は家を出て随分になりますし、あいつにとってはどれも不要なものなのでしょう。それにあなたが着てくれたほうがあいつもきっと喜ぶと思います」 そう言っても、ハビアはまだ遠慮しているようだった。視線が戸惑うように揺れる。その赤い目を本当に美しいと思った。そんなことを素直に思えたのは随分久しぶりだ。 「ご子息は、今はどちらに……」 ハビアは言いかけて口をつぐんだ。立ち入りすぎた質問だと思ったようで、失礼、と短く言って目を伏せる。 トルシンは笑って答えた。 「息子は今は郊外の別荘に一人で住んでおります。我が子ながら偏屈でね。何が気に入らないのか、ここへは滅多に寄り付こうとしません。ですからどうか遠慮なさらずお使いください」 「――ありがとうございます」 本当は、パルディクがなぜ家を出たのか、なぜ自分を嫌って爵位を継ごうとしないのか、トルシンにはわかっていた。 確信しているわけではない。ただおそらく彼は知っていたのだろう。あのことを知っているのは自分と父親とパリス、そして実際に身の回りの世話をしていたメイシーという女中頭だけだったはずだが、どうやってだかパルディクもそれを知った。それ以外の理由は考えられない。 だがパルディクにその気があろうとなかろうと、爵位を継げるのは彼だけだ。自分をどれだけ嫌おうがかまわない。けれど彼には次期公爵となる義務があるし、それは彼がどう拒否しようが変えようがないことなのだ。 若き国王。若きイーグリー公爵。ならばもう一つの公爵家、スー家当主もそろそろ変わってもいいだろう。 「しかし……残念です。一度ご子息にもお会いしてみたかった。赤い髪の色をしていらっしゃると伺いました。だからでしょうか、失礼ながら親近感のようなものを覚えていたので」 「赤ですか。ええ、ハビア殿ほど鮮やかな色ではないが、たしかに近くはありますね」 ふと、ハビアに会ったらパルディクはどのような反応を示すだろう、と思った。 少なくとも拒否反応ではあるまい。惹きつけられこそすれ、嫌うことはありえない。なぜなら、彼はこんなにも彼女と同じ色を持っているのだから。 (何をしてでも役に立ちたいと思うだろうな) 何を犠牲にしても。 何の疑いもなくそう思えた。不遇なままその生を終えた彼女のことを彼が知っているなら、彼女にしてやれなかった分までこの目の前の男を助けてやりたいと思うだろう。 ならば、取る道は一つだ。 トルシンは微笑みながら、自らの母親と同じ色をもつ青年を見つめた。 「そう、ぜひパルディクにお会いください。あいつもきっと、会いたがるでしょう」 |
| あとがき / もう本編がまったく進まなくなったのでUPするのは気が引けるのですが……うう。読みなおしては一人つっこみをして自己嫌悪します(泣)。無謀な挑戦はするなということですかね。でも書いているときは楽しかったんですよー。 |