第六章 何を信じて祖母がメルセスへ来たのか、聞いてみたかったが結局聞けずじまいだったために今でも忘れられず疑問だけが心の中に蟠っている。 生まれ育った故郷を捨て、言葉も環境も何もかも違う国へ来るためにはいったいどれほどの決意が必要なものなのだろう。何を思い、信じれば、自分の生活のすべてを変える気になれるのだろう。 故郷は一年中雪の止まない、ひどく寒いところだったと聞いた。空はいつも雪空で一面に白く、青空や夕焼けの鮮やかな色をここに来るまで知らなかったと彼女は笑って言った。それらを初めて見たとき、なんて美しいんだろうと思ったと。 けれどその、白いばかりの世界が祖母のすべてだった。青空を知るためにここへ来たわけではないだろう。知らなかったことは知らぬままでは心を乱すこともなく、知るからこそその差を知り、必要もないのに比べたり、羨んだり、蔑んだりもする。知らないままでいたほうがよいこともある。知らない限りは何も変えようとは思わない。 ならば彼女はいったい何を知り、ここへ来たのだろう。 愛情という不可解な形のないものがずっと続くとは、彼は信じていなかった。そして彼女もまた、そんなものを信じているようには見えなかった。 祖父にとって、彼女は二人目の妻だった。けれどそのことを知っている者は少ない。彼女の存在はまるでないもののように世間から隠され、屋敷の中の一室に隔離されて、こちらに来てからの生活のほとんどをその部屋の中だけで過ごした。訪れる者もあまりない、ぼんやりしていると時の流れさえ曖昧になってしまいそうな閉じられた場所で、彼女は長い時をただじっと息をひそめるようにして生きた。 ノームの民であることを示すその赤い髪と瞳が、祖母の扱いをそのようなものにさせた原因であることは知っていた。得体の知れない異民族の血が、メルセスでも有数の名家であるスー公爵家に混じっているなど、決して誰にも知られるわけにはいかなかったのだろう。祖父はそのような女に子を産ませた自らを守るためにそうした。そして父はもっと深刻だったに違いない。何しろ自分の血の半分は異民族のものなのだ。聡明で優しく、誰からも慕われるスー公爵。その自分がノームの血を引くなど口が裂けても言えるわけがない。しかもそれは自らが望んだことでさえないのだ。 (だからといって何が許されるわけでもない) その日、昨夜遅くに屋敷を訪ねてきた父親からの使者のせいで、パルディク・スーはひどく憂鬱な気分で目を覚ました。 いったい何様のつもりか知らないが、会わせたい人間がいるから来いという。無言で扉を閉めて使者を追い返そうとしたが、使者はしつこく食い下がって自分と一緒でなければ帰れないと言い張った。 ――こんな夜中に出て行けというのか? 冗談じゃない。 しかしどれだけ迷惑そうにしても使者は帰ろうとせず、言い争う面倒さにうんざりして、明日の朝行くからとにかく今は帰ってくれと半ば懇願するとようやく彼は了解してくれた。ただし絶対に、と念を押すのを忘れずに。あの調子ならば無視してもまたやってくるに違いない。果てしなく嫌だ、と思いながらも、パルディクは出かけるための身支度をしないわけにはいかなかった。それから不必要に長い時間をかけて出かける準備を整えると、非常に重い足取りで屋敷を出た。 しかしすぐに父親を訪ねる気にもなれなかったので、久しぶりの挨拶もかねて気晴らしに、友人のもとを訪ねるつもりで王宮に向かう。 昔からだが、メルセスの王宮はいつ国王が暗殺されても不思議ではないほど警備が緩やかだ。その日も改めてそのことを感じながら、といって誰にも見咎められずに出入りできる簡便さは捨てがたいものでもあったので、あえて変えろとも進言する気はなく、ただいつものように杜撰な警備だと思っただけだった。 パルディクにとって王宮は幼い頃よりかって知ったる場所で、迷うこともなく目的の場所へまっすぐに進んだ。春の王宮はいつにも増して美しく、色とりどりの花が競うように咲き乱れていたが、そのようなものに関心はなかった。美しいと思わぬわけでもなかったが立ち止まって眺めるほどのものでもない。 目指す部屋の前に着き、ノックもせずに扉を開けると、いつ来ても変わり映えのしない様子で仕事をしている男が三人、そろってこちらを振り返った。 「あ、パルディ。久しぶり」 満面の笑顔で歓迎してくれたのは友人の一人だけ、他の二人の知人はひどく嫌そうな表情をしてすっと顔を逸らした。 「やあ、二ヶ月ぶりだったかな。相変わらず元気そうだ」 「仕事がなければもっと元気なんだけど」 子供の頃から少しも変わらない愛想のよさで笑いながら言った男の名はクーリエ・クランハイム。メルセス王国第十二代国王。知り合った頃から彼がいずれは国王となることなどわかりきったことだったから、実際そうなったあとでも別段何も変わらない付き合いが続いている。国王だからとへりくだる必要があるとは思わない。もっともそれは、この王宮に関して言えば多くの者がそう思っているに違いない。 「もっと元気だと? まだ上があるのか」 冗談だろうとでも言いたげにぼそりと漏らされた呟きは知人の一人から発せられたもので、クーリエには聞こえなかったかもしれないが、パルディクの耳には届いた。 「それは殿下が一番よくご存知でしょう」 「知るもんか」 「もっと元気になっていただいても構いませんか」 「追い出せ」 秘書二人の話し合いは簡潔にまとまったらしい。フェイン・バルトリース第二秘書が立ち上がってこちらに歩いてくる。彼は温和な顔に柔らかな微笑を――ただし、明らかに作った表情を――浮かべて、丁寧に言った。 「陛下、今日はもうお引き取りいただいて結構ですよ。パルディク様とつもるお話もあるでしょう」 言い換えると、王政執務室で雑談をするつもりなら出て行けということだった。 「えっ、いいの? やった、フェインありがとう」 クーリエ国王は素直に喜んで礼を言った。その対応にフェインは一瞬苦虫を噛み潰したような顔をしたが、すぐに張りついた笑顔に戻って頷いた。そしてパルディクのほうは見ないようにして席に戻った。 パルディクは王宮へ来るのは二ヶ月ぶりだが、フェインにはほんの数日前に会ったばかりだった。彼は一年ほど前に祖父の跡を継いで第二秘書になった男で、パルディクとはただの顔見知り程度の関係でしかない。にもかかわらず、何を思ったかいきなり屋敷を訪ねてきて、いつまでもふらふらせずにスー公爵家を継ぐべきだと説教を始めた。 おおかた父にでも丸め込まれたのだろう。公爵家に生まれた者の義務がどうのこうのと正論を吐いていたが、義務があろうがなかろうが公爵を継ぐ気のさらさらないパルディクは聞き流してまともに相手をしなかった。フェインはしばらくねばったあとでようやくあきらめたらしく、置き土産に特大のため息を残して帰っていった。今日パルディクと目を合わせようとしないのはそのことを引きずっているためだろう。 クーリエ国王でも第一秘書である王弟クラウスでもなく、彼を選ぶ辺りが父親の性格をよく表しているなとどうでもよいことにパルディクは感心した。クーリエならばそれはパルディク自身が決めることだと言っただろうし、面倒を嫌うクラウスならば自分の知ったことかと言うだろう。実際に説得に出向くほどの手間をかけてくれる人間はフェインくらいしかいないことを、長年王宮に仕えている父はわかっていたに違いない。 「今日は何か用があって来たのかい。パルディが自分からこっちに来るのは珍しいな」 二人の秘書に追い出された国王は、しかし仕事をさぼれることが嬉しくてたまらないような満面の笑顔を浮かべて長い廊下を歩きながら、機嫌よく話しかけてきた。 「そう。うちの馬鹿親父に呼ばれてきたんだ。夜中に使いを寄越しやがって。引越しを真剣に考えるね」 「黙ってうちに住めばいいよ。部屋はいっぱいあるからさ」 「それも悪くないかもしれないな」 そうは言ったものの、王宮で暮らすことに付随する騒音やら面倒やらを考えるとあまり本気でそうする気にはなれなかった。クーリエもパルディクがその気でないことはわかっているのか、重ねてそのことを言おうとはしなかった。 そういえば公爵を継ぐ、継がない、ということについて、彼の口から何か意見を聞いたことは一度もなかった。国王としての己の心構えや、将来の展望などというものも同様に聞いたことがない。 メルセスにたった二つしかない公爵家は本来ならば王家を支えるためにこそ存在する。二人の公爵は第一・第二秘書とともに、国の要職に就いて国王を補佐するためにいるはずだ。それが今現在の顔ぶれは、あまりその用を為しているとは思いがたいものだった。国王のごく近い肉親のみが就任資格を持つ第一秘書であるクラウスは、自他ともに認める無気力人間で、第二秘書フェインはまだその地位に就いて日も浅く経験もない。イーグリー公爵グラスはパルディクやクーリエの幼馴染で友人だが、最近はクラウスにつきまとってばかりであまり公務には励んでいないという噂だった。 これに加えて国王の無思想。ふとメルセスの将来について不安を覚えた。 そんなパルディクの不安を知るよしもなく、クーリエは中庭に出たところで立ち止まると、大きく伸びをして「いい天気だなあ」とのんきに呟いた。 彼はたいていいつも悩みのなさそうな顔をしている。本当に悩みがないのかどうかは本人ではないのでわからないが、これだけ悩んでいる姿を人に見せないで生きられるというのは、それはそれですごいことにちがいないとパルディクは思った。 こんなふうに生きられるならとは思わない。それはもう自分ではないからだ。ただ愛すべき友人として、彼を尊敬し、大切だと思う。それは幼い頃からずっとそうだ。 「さて、僕はもう行くよ。挨拶だけのつもりだったんだ」 「ああ、うん。また遊びに行くからさ」 軽く手を振り合って別れた。 あの父親がいったい誰を自分に会わせたいというのか知らないが――ひょっとして結婚相手などだったら冷静でいられるか自信がないがと思いつつ――とにかく会うだけ会って、さっさと帰ればいい。 そのときはたしかにそう思いながら、パルディクは父親の勤める法務省へ向かって歩き出した。 軽いノックをしてその部屋の扉を開けたパルディクは、音に振り返り、自分を見た男の姿に完全に虚を突かれた。 父親はブレアからの亡命者だと言った。それしか言わなかった。だからなぜそんな人間に会わなければならないのかまったく理解できないまま、それでも長く会話をかわすのも嫌だったので言われたとおりスー家の私邸へ行き、執事のパリスに案内されて部屋の前に立った。そして扉を叩くその瞬間までは、中にいる男のことを何一つ考えはしなかった。 赤い髪だった。赤い目だ。晩年、祖母の髪はほとんど白く変わってしまっていたが、わずかに残っていた彼女の赤い髪とそれは同じ色だった。混じりけのない純粋な、誰もが目を奪われずにはいられない赤。 「――ああ、ひょっとしてあなたがスー公爵のご子息ですか」 目を細めて男が言った。微笑んでいる。猛々しさのない柔和な顔立ちと同じく、囁くような静かな声だった。 言葉もなく入り口に立ち尽くしていたパルディクは、自分でもいったいどうしてしまったのかわからないと思いながらも、声が出なかった。笑いかける男とは対照的に顔中の筋肉が強張って動かない。何度か声を出そうとして、失敗した。何を言っていいのかわからない。 「失礼。自己紹介がまだでしたね。私はハビア・パブロンと申します。ブレアから参りました」 男の微笑がわずかに困惑を含んだものに変わる。入ってきたものの何も言わず、動かないパルディクを不審とまでは言わずとも、どう対応していいかわからないと思っているのは明らかだった。 パルディクは慌てて言った。 「私は――パルディク・スー。はじめまして……」 声は情けないくらい掠れていた。パルディクは内心で自己嫌悪する。男がどう思ったのか知るのが怖くて目を合わせることができなかった。顔を伏せる。誰かの前でこれほどに取り乱したのは初めてだった。どうしていいか本当にわからない。回れ右をして部屋から出て行けたらと思ったが、足は動かなかった。 「本当に赤い髪をしていらっしゃるんですね。ノーム以外でそんな色を見るのは初めてです」 パルディクの態度をどう受け止めたのかわからなかったが、ハビアの親しげにも聞こえる声にパルディクは顔を上げた。 「ノームはご存知ですか。私と同じ民族の名です。皆が私と同じように赤い髪と目をしています。でもずいぶん会っていないから――あなたを見ると同胞を見ているような気になります。ああ、もしお気に触ったらお許しください」 「いいえ」 首を振った。パルディクの髪はノームだった祖母から受け継いだものだ。父よりも孫である彼のほうに色濃くその特徴が出た。しかし生粋の色とはまるで違う。なんて美しい色なんだろうと思った。 何一つ恨み言を言うでもなく静かに祖母が息を引き取った日からずっと、いつか再び出会いたいと思っていた色だった。そのとき自分はまだ幼くて、彼女に何をしてあげることもできなかった。それどころか、彼女が何を望んでいたのかさえ、最後までわかってはいなかった。 祖母を思い出すときいつも、湧き上がる思いは後悔だった。もっと他にできることはあったはずなのに何も、本当に何もできなかった。 好きだったのだ。その囁くような静かな話し方も、表情をわずかに崩すだけの優しい笑い方も、頭を撫でてくれた骨ばった指もすべて、好きだった。自分を生んですぐに死んでしまった母親をも重ねていたのかもしれない。だから彼女を失ったとき、彼は祖母と母を同時に亡くしたようなものだった。 冷静になれと、パルディクは自分に強く言い聞かせた。 目の前にいるのは祖母ではない。同じ髪と目の色をしている、ただそれだけで、祖母のように彼を慈しんでくれるわけでも、愛してくれるわけでもない。 だが愛されたいわけではなく、その色だけで、彼にとっては十分だった。 「僕も――あなたが他人のようには思えません。何かお力になれることがあれば何でもおっしゃってください」 いくつだろうか。少し年上のように見えるが、それほど変わるようにも思えなかった。まだ若い。目を惹くその色ほどには目立つ容姿ではないが、穏やかな海のような静けさが見る者に警戒心を抱かせない種類の男だった。 ハビア・パブロン。ブレア四将軍の一人としてその名はパルディクも記憶していた。ノームの出身だと知ってからはよけいに忘れることのできない名前になった。しかしその名から思い描いていた男の姿と目の前の男とはあまり重ならない。仮にも将軍を務める男であれば当然もっと逞しい体つきをした、意志の強そうな人間だと思っていたが、それは当たっていなかったようだ。それとも穏やかそうに見えるのは外見だけで、内面には違ったものを隠し持っているのだろうか。 「ありがとうございます」 ハビアはゆるやかにまた微笑んだ。 その顔を見ながら、パルディクは、彼のためなら自分にできるすべてのことをきっとしよう、と思った。自分を彼に引き会わせた父の意思がどのようなものであれ、その思惑に乗ることになってもかまわない。できる限りのことをしよう。 持ちうる限りの親愛の情を込めて、パルディクは右手を差し出した。それに応えてハビアも手を伸ばす。 触れ合ったときに一瞬、何かひどく懐かしい思いが過ぎったような気がしたが、離れるとすぐに幻のように消え失せて、どんなものだったのか思い出せなくなった。 |
| あとがき / 最近なぜかファンタジー漫画が読みたいです。恋と魔法とファンタジー、みたいな。どなたか面白い漫画ご存じでしたら教えてください(まったく後書きになっていない)。 |