ブレア戦記   「赤の異邦人」





第七章


 ハビアと別れたその足でパルディクは、再び法務省の父のもとを訪れた。

 大臣室では父と副大臣のシュバリエとが何か話し合っていたようだったが、突然の闖入者の登場に口を閉ざすと、父はパルディクを見て疲れたような声で言った。

「ノックくらいしたらどうだ」
「そんなことどうでもいい。それより彼の扱いはどうなっているんだ。亡命は認めるんだろう? 今までずっとそうしてきたはずだ」

 ハビアに会えと言ったのは父自身だ。彼と会ってパルディクがどういう反応をするか当然予想していたはずだ。

 父が隣のシュバリエに何か囁くと、彼は一度軽く頷いて、そばを通り過ぎるときにパルディクに会釈をしてその場を立ち去った。あまり顔を合わせたことはないが、数少ない記憶の中ではいつもあまり表情がなく、良くも悪くも特徴のない男として薄く印象に残している。

 シュバリエが去ると、父は何を考えているのかわからない無表情でパルディクを見つめ、ふと口元を綻ばせた。

「今までずっとそうしてきた、か。今回のような例はかつてない。ブレアから、しかも将軍の一人が亡命を願い出るなどということは」

 その、今までとはわけが違うというような言い方に嘲るような響きを感じて、パルディクは思わず眉を寄せた。父はパルディクの感情になどまるで興味がない様子で、机の上に置かれてあった文書を手に取ると、差し出した。

「何だと思う。たった今ステルスからの使者が持参したものだ」
「ステルス? ――まさか!」
「パブロン殿を引き渡せと書いてある。もっとも表現はもう少し遠まわしだが」
「断固拒否するべきだ!」

 読みもせずにその文書を床に叩きつけた。ハビアをステルスに引き渡すなどできるはずがない。そんなことをしたらどのような目にあわせられるか目に見えている。確実に命はない。ステルスのブレアに対する執着は尋常ではなく、もはや利害得失を超えたただの執念のようなものになっている。イーヴァル王がブレアの四将軍を捕らえたならば嬉々として嬲り殺しにするだろう。

 血に塗れる彼の姿を想像しただけで頭を殴られたような強い衝撃があった。駄目だ。そんなことは絶対に許されない。強く頭を振って考えたくもない想像を振り払った。

「黙っていても知られるとは思っていたが――思ったよりも早かった。こちらも早々に対応を決める必要がある」
「拒否だ。そうだろう?」

 懇願にも似た言葉。自分でも意識せぬままに冷静さを完全に欠いたパルディクの表情を、父は不思議なものを見るような目で見つめた。

「拒否したいのはもちろんそうだ。だがそのあとはどうなる」
「そのあとだって?」
「ステルスがどう出るかということだ。イーヴァルは気性の激しい王だ。ブレアの将軍を手に入れられる絶好の機会がメルセスによって邪魔されたとしたら、その怒りの矛先はこちらへも向くだろう。そうなると、話し合いだけで宥めるのは非常に困難になる」
「あんな狂人など知ったことか!」

 パルディクは一言で吐き捨てた。今の彼にとって守るべき大切なものは一つだけだった。父が示唆しているのが戦争への危惧であれ、そんなもの知ったことではなかった。その戦争で命を失うかもしれない顔も知らぬ兵士よりも、大切なのはステルスに引き渡せば確実に殺されるに違いないハビアの命だった。

 父はすぐには何も答えなかった。激昂する息子を黙って見つめ、睨みつけるようなその視線にも動じることなく、ただ表情のない静かな目で見つめているばかりだった。

 パルディクは自分でもおかしいと思うほどに自分の感情を制御することができなかった。

「助けてくれ、あの人を。あんたに頼みごとをするのはこれっきりだ。だから助けてくれ、頼むから……」
「お前のその判断で他の人間が大勢死ぬことになるかもしれない。それでもそう言うのか。それをすべて背負う覚悟があってお前はそう言っているのか」

 今まで聞いたこともないような、厳しい父の声だった。彼がパルディクを見るときはいつも、困惑とあきらめ、そしてまだいくばくかの期待を隠し切れないような表情で、何か言いたげに視線を寄越すのがここ数年の常だったが、そのときだけは違っていた。

 パルディクがまっすぐに父を見ると、彼は一瞬哀れむように息子を見て、すぐに視線を逸らした。

「何が正しいかはずっと後になってでなければわからないことが多い。そして失った人間の命を贖うことは決してできない。それでも決断を下さねばならないことがある。迷いを誰にも見せず断固として為すべきことを為し、しかし常に両目を見開いて自らの決断の結果を直視すること。それがたとえ誤りであろうともだ。お前にそれができるか。そして陛下をそのように導けるか」
「………」

 父がいきなり何を言い出したのかわからなかった。困惑してパルディクが眉を寄せると、父は彼に背を向けて窓際に立ち、思いがけない唐突さで言った。

「私は私の責任ある決断として、パブロン殿はステルスに引き渡すべきだと考える」
「それは……!」
「それが私の決断だ。変わらない。もし不満ならお前が決断すべき立場に立てばいい。私は自分の意見を変えないが、 お前に爵位を譲ることならいつでも準備ができている」

 パルディクは息をのんだ。父がこう言い出す可能性を考えなかったわけではない。しかし自分でも驚いたことに、実際にそう言われる瞬間まで、本当に爵位を継ぐ可能性について真剣に考えたことがなかったということに気がついた。それはいつも可能性としてだけ頭の中にあって、何一つ具体的な形を伴ってはいなかったし、考えようともしなかった。

 当たり前のように王位を継ぎ、イーグリー公爵位を継いだ友人たちを見ながら、まるで自分だけは違うところにいるように何も考えなかった。そのツケが今回ってきているのだ。フェインが言ったように義務をまったく意識せず、自分勝手に生きていたその報いが。

 答えることができずにいるパルディクを一瞥し、素っ気無く父が言った。

「今日中に返書をステルスの使者に渡すつもりだ。夕方までは待とう。そのあとはもう変えられない」
「……待つ必要はない」

 父と視線を合わせることはできなかった。彼が今まで何十年というものどのような気持ちで公爵として務めてきたのか、その生き方をまともに見てこなかったパルディクにはわからない。今更理解することができるとは思わないが、少なくとももう少し知っておけばよかったと思う。

「俺は絶対にあの人を助けたい。だからそのために必要な地位を継ぐ」

 自信があるわけがない。覚悟も自覚も何もない。

 今はただ、そうせねば失われてしまう一つの命を救うことしか考えられない。

「いいだろう。これからすぐ陛下に報告に行く。就任披露もせねばならない。面倒なことが全部終われば私はフォラスの屋敷に引っ込むから安心するがいい。お前の決断に口を出すことは今後決してしない」

 淡々とこれからのことを告げる父の声を、たった今自分で下した決断とともに、ひどく遠いもののようにパルディクは感じた。現実感が薄い、と思いながら、それでも頭の隅ではつい昨日まではこんなことになるとは考えもしなかったすべてが現実なのだと、もう後戻りもできず、わかっていた。





 ふんぞり返って椅子に腰掛け、横柄な態度で不機嫌を隠しもせず、数分おきに「返事はまだか」をくり返すステルスからの使者二人を目の前に、サヴォール・シュバリエ法務副大臣は立ったまま、腹の中で「くたばれ下種」と考えていることはおくびにも出さずに微笑んで「申し訳ありませんがもうしばらくお待ちください」を相手と同じく鸚鵡のようにくり返した。

「貴公は待て待てと言うが、いったい何を待つ必要があるというのですか。答えなど考えずとも決まっているではありませんか」
「いえ、そう簡単にもいきません。なにぶんメルセスは法治国家です。重要なことは何事も議会の議決なくしては本来決められないものでして」
「まさかこれから議決を行うなどとおっしゃるのではあるまいな?」
「ですから、貴国側のご事情もお察ししまして、こちらとしても早急に対応を決めるべく努力しているのです。今日明日には結論が出るでしょう。まあそれまでごゆっくりお休みくださいませ」

 使者の一人は苦虫を噛み潰したような顔をして舌打ちした。五十がらみの体格のよい男で、それなりの地位にあるのだろう、身に付けた装飾品は一見してわかる高価なものだった。もう片方はそれよりもかなり若く、すこぶる好青年とはいえないものの、年長の男に比べればまだしも礼儀を心得ているように見えた。その証拠に何も言わずに黙っている。

「休めというのならそれなりの待遇をすればよいものを。まったくこの国の人間は気がきかんわ」

 独り言のつもりだったのか、わざと聞こえるように言ったのか判断しかねたので、シュバリエは聞こえないふりをした。

 こんな男の歓待のためには人一人、指一本動かすのさえ惜しい。本来ならば副大臣である自分がすべき仕事でもないはずだが、部下に押し付けるのも気の毒だったのでこうして相手をしているだけだ。いや、よく考えてみればこうした他国からの使者の対応は外務省でするべきだな、とふとそんな当たり前のことに気がついた。亡命者の扱いを法務省中心でしているためにこちらで受けてしまったが、それは国内的な事務処理の問題であって、こうした仕事は外務省の管轄であることにかわりはない。

 しまった損をした、と思ったが今更気がついても手遅れだった。グラス・イーグリー公爵が外務大臣に就任してからというもの、外務省は一部機能が停止しているように思えてならない。無論就任したばかりで経験のないイーグリー公爵ばかりを責めるつもりはないが、公爵が何も知らないというのをいいことに、外務省幹部が何かというと経験豊かなスー公爵を擁するこちらへ仕事を押しつけてくるのだ。

 代替わりする前のドゥレン・イーグリー公爵は自ら率先して仕事を他部署に押しつけるような男だったが、それでも本人はそれなりに有能だったので彼のする決断は信用できた。根本的な面で安心感があった。しかし彼は引退するやいなや、慣れない仕事をいきなり引き受けさせられた我が子を助けるでもなく大陸一週旅行へ出かけてしまった。最低である。

 いやそもそもドゥレン前公爵はまだ五十前という若さだったにも関わらず、なぜこんなに早く代替わりする必要があったんだ? とシュバリエがさらに深い思考の底に沈みかけたとき、扉を叩く音が聞こえてはっと我に返った。

 スー公爵かと思ったが、扉を開けて姿を現したのは別人だった。ステルスからの使者二人がそろって腰を浮かせかけるのを片手で制し、早口にその男は言った。

「勘違いされませんように。私はハビア・パブロン将軍ではありません」
「しかしその髪は……!」
「どうもご存知ないようなので言いますが、本物はもっとずっと美しい赤ですよ。もう見る機会はないかもしれないが」

 使者が間違えるのも無理はないほど赤に近い色の髪をした男は、シュバリエがこれまで見たこともないほど優しげに微笑むと、わずかな一瞥を一瞬だけシュバリエに寄越した。

「パルディク様……」

 なぜ彼が出てくるのかと困惑して声をかけようとするのを、使者に向けての彼の毅然とした声が遮った。

「ここにご返事申し上げる。我がメルセスはハビア・パブロン将軍の亡命を受け入れることに決定した。戻ってそのように伝えられよ」
「な……」

 あっけにとられた風に目を見開いた年長の使者は、その言葉の意味を理解するやいなや真っ赤な顔をして立ち上がった。

「何を言われる! ヤツの亡命を受け入れるだと! そんなことが許されると思っているのか!」
「お言葉を控えられたほうがよろしいようだ。メルセスはステルスの属国でも何でもない。我が国の決断に口を挟む権利はあなた方には何らありはしないのです」
「だからこうして頼みに来たのではないか! ええい、そもそもスー公爵はどこへ行ったのだ。いきなりこのような若造を寄越すとはよほどこちらを馬鹿にしたものと見える」

 思いがけぬ返答に怒りと屈辱を隠し切れぬように、男はいらいらと床を踏み鳴らして怒鳴った。知らぬとはいえその、仮にもメルセスでたった二つしかない公爵家の跡取息子に向かってのあまりに無礼な物言いに、シュバリエは内心かなりの腹立ちを覚えたが、言われた本人は別段気にする様子もなく、微笑みすら浮かべて使者の様子を見ていた。

「スー公爵に会わせていただきたい!」
「目の前にいるではありませんか」

 穏やかなパルディクの言葉に、使者だけでなくシュバリエも耳を疑った。

「今何と?」
「ですから目の前にいると。申し遅れました。本日より新たに父から公爵位を受け継ぎましたパルディク・スーと申します。パブロン将軍の亡命の件につきましてはすべて私の判断によるものです。とにかく一度国に帰ってお伝えください。ご不満はその後で伺いましょう」
「な、な……!」
「副宰相。言われたとおりにしたほうがよろしいようです」

 今まで貝のように黙って口を開かなかったもう一人の若い使者が年長の男の腕をとった。

 副宰相、思った以上の地位にシュバリエは驚きと呆れを隠せなかった。それほどの男を非公式な使者として寄越すのは、その件がよほど重要であるか、あるいは地位のある者がその名に見合う仕事をしていないかのどちらかだ。ブレア将軍の確保はそれなりに意味のあることではあろうが、国の根幹に関わるほど重要なこととはとても思えない。結論として、ステルスの位階制度は人物の能力とあまり比例してはいないらしい。

 しかしそんなことより何より、たった今パルディクの言ったことのほうがよほどシュバリエには重要だった。

 彼はスー公爵を継いだと言ったのか。あれほど嫌がっていたものを、いったいなぜ――しかも今――継ぐ気になったというのだろう。それに公爵は、トルシン・スーは、何も言わなかったのだろうか。彼は息子がハビア・パブロンの処遇についてどのような決断をするかわかっていたに違いない。それでもなお地位と権限を譲るということは、パブロンの亡命を認めることは彼の意志でもあると思ってよいのか。

 ステルスからの使者二人は、ろくな挨拶もせずに荒々しく暴言を吐き散らしながら部屋を出て行った。その後姿を軽蔑を込めた冷ややかな微笑でもって見送った新しきスー公爵は、しばらくしてようやく自分を見つめる目に気づいたという風な様子でシュバリエを振り返ると、「そういうわけだ」と一言だけ言ってその場を立ち去ろうとした。

「お待ちください。何がそういうわけなのですか。パルディク様が公爵を継がれるというのは本当なのですか」
「嘘を言ってどうなる」
「パブロン将軍の亡命を受け入れるなど、ステルスがどのような態度に出てくるかわかってそう決断されたのですか」

 パルディクが公爵を継ぐ。それはいい。代替わりには年齢的にもまだ早いという気は多分にするが、それは単なる時期の違いであって、彼がいずれは公爵と法務大臣の地位を継ぐことはわかっていた。しかしパルディクがその地位を使って決断した内容は、とてもではないがシュバリエには素直に首肯できるようなものではなかった。

 シュバリエの問いかけにパルディクはうるさげな顔をして「知るかそんなもの」と短く切り捨てた。

「あいにく俺には未来は読めないのでね。恨みに思って報復をしかけてくるかもしれないし、泥沼戦争になることを恐れて黙殺するかもしれない。それはわからない」
「嘘だ。あなたはイーヴァル王が戦争を恐れるような人間ではないことをわかっていらっしゃるはずです。そして自国の被害を考える頭など持っていないことも」
「だったらどうした。どうしろっていう。素直に引き渡せばよかったとでも? メルセスの評判は地に落ちるぞ」
「戦争になるよりはよほどましです。たしかにステルスに引き渡せばパブロン将軍はどんな目に合わされるか知れません。それを気の毒と思われるなら、こちらで苦しまぬよう始末をつけてさしあげることもできた。そちらのほうがよほど……」

 よかった、とシュバリエが終わりまで口にする前に、パルディクがその襟元をつかみあげ、父親によく似た、しかし彼が決して浮かべたことのないような形相で、低く囁くように言った。

「二度とそんなことを口にするな。彼を殺すなら俺はお前を殺す。他の誰であっても必ず殺してやる」

 その赤茶色の瞳は怒りと憎しみに満ちてまっすぐにシュバリエを映していた。その瞳を見た瞬間、彼が本気でそう言っているのだということが誰に聞くまでもなく感じられ、シュバリエは背筋に薄ら寒い感覚を覚えた。今目の前で、ただ一人の異邦人のために国全体を危険にさらそうとしている男が、まるで当然のような顔をして国の中枢の地位に就くというそのことが、とてつもなく危険なことなのではないかと思った。

「あなたの思い入れは異常です。この件に関してあなたが冷静な判断をくだしているとは思えない」

 シュバリエから手を離し、背を向けて歩き出そうとしたパルディクの後姿に向かって言った。彼は異常だ。なぜそこまでブレアの将軍にこだわるのかわからない。シュバリエの知る限りパルディク・スーという男は決して博愛主義者ではないし、戦争嗜好者でもなかったはずだ。なのになぜもっともまずい時期に出てきて戦争へと繋がる火種を撒こうとする。

 パルディクは振り返りもせずにそのままどこかへ行ってしまった。シュバリエは力任せにテーブルを蹴飛ばして、これがメルセスの平和の破れる音だ、と思いながら、これから始まるに違いない動乱の日々に向けて長いため息を漏らした。


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あとがき / そろそろストックがつきまする……。あと2章一応あるにはあるのですが、ほとんど番外編のようにいきなり違う国に飛ぶし……。