ブレア戦記   「赤の異邦人」





第八章


 空気の薄さを意識するほどの高度の違いはないが、心なしかわずかに風が強いと感じながら足元の悪い山道を登っていたエセル・ミラジオは、途中一度振り返り、山頂近くからはるかにリンレークの全景を見下ろした。吹きつけてくる下方からの風に煽られて髪が浮き上がってはまた落ちてくる。その前髪を今度は自分でかきあげ、エセルはいつもの癖で周囲の人目を気にしながらそっと小さくため息をついた。その後ですぐ、こんなところで人に会うわけもない、と気づいて一人で自嘲した。深く息をつく。

 古くは神を祭る宮殿さえあったと言われるサティスの山頂は、今はもうその名残もなく荒れ果てている。破壊され尽くした遺跡の欠片がそこらじゅうに散らばっており、百二十年も昔の戦乱の跡はいまだ整備されることもなく打ち捨てられている。

 それは百二十年前、新興国家ステルスへの恭順か交戦かを巡って国内が真っ二つに割れ、互いが一歩も譲らず起こった内戦の残した傷跡だった。双方の争いは結局収拾のつかないまま、気がつくといつのまにか国全体が疲弊しきって、もはやステルスとの交戦など考えられなくなっていたという、笑い話にもならない惨めな歴史。ときの国王スール二世は完全なる恭順を選択し、レグホーンの課税権と外交権という、国としての実質的な主権をステルスに明渡して形ばかりの独立を維持するのがやっとだった。それは変わることなく現在まで続き、レグホーンはステルスの従属国家として、息をひそめて瀕死の姿で生き延びている。

 同じ小国でありながら、正真正銘の独立を保ち続けているブレアといったい何という違いだろう。

 それをティント山脈によってステルスと隔てられているという、ブレアの地理的な優位性のせいだけにしてしまえるほど、エセルはこの国を愛してはいなかった。あの国と同じ王、同じ将軍、同じ国民がもしレグホーンにいたならば、おそらくこの国の現在は今のような姿ではなかったはずだ。ブレアと同じように気高く孤独な独立を保ち続けているか、あるいは完全に滅びてしまっていただろう。ブレアは苛烈な国だ。滅亡をも厭わぬ激しさと高潔さを持つ国。奴隷のような従属を選ぶことだけは決してするまい。

 ぼんやりと見つめた空に浮かぶ太陽が大分西に傾いているのに気がついて、エセルは物思いを中断した。ぼやぼやしていたらすぐに日が暮れる。日の落ちた山道を歩く勇気はない。兄に言われた薬草を取って早く戻ろうと、彼は急いで周囲を見回した。今まで何度も同じ薬草を取りに来たことがあるが、いつも同じ場所に生えているというものでもなく、一見しただけでは他の野草と区別がつかないから探すのは骨の折れる仕事だった。しゃがみこみ、這うように進みながら目を凝らし、探す。決して楽しい仕事ではなかったが、非力な自分にはせいぜいこれくらいしかできることがないから仕方がない。這いつくばる己の姿を一瞬レグホーンそのもののように感じ、兄がそれを聞いたら目を剥いて怒るだろうと考えて、エセルは苦笑した。それでも兄が怒るのは、自分でもレグホーンが惨めな国だと知っているからだ。

 持参した麻袋がいっぱいになるまで薬草を取り終えたのは大分空が赤く染まった頃だった。

 エセルは立ち上がり、一度大きく伸びをして身体をほぐすと町に戻るためにすぐさま歩き出そうとした。しかし突然聞こえてきた予想もしなかった声が、彼の足をその場に止めさせた。

「君はレグホーンの人間か?」

 驚いて顔を上げた。だれもいるはずがないと思っていたから人の気配になど微塵も注意を払っていなかった。

 その声の主はエセルからわずかに離れた場所に佇んで、まっすぐな視線をこちらに向けていた。男だ。しかもまだ若い。

「あなたは……」

 まさかこんなところで追いはぎでもないだろうと頭では思っていながらも、声が震えるのを止めることはできなかった。成人した男の背格好は兄と同じくらいで、間違ってもエセルが立ち向かって勝てる相手ではないのは明らかだった。

「俺はファス。メルセスから来たんだが、道に迷った。ここはもうレグホーンなのか?」

 名乗った男の声は思っていたよりも穏やかだった。エセルはわずかに肩の力を抜いて頷く。

「そうです。この山を下ればリンレークの町です。僕もこれから戻るところなので、よろしければご一緒にどうぞ」

 男がリンレークに行くのならばここで別れる意味がない。得体の知れない人間と一緒に歩くのは正直気が進まないことではあったが、男が後ろから急に襲ってくるかもしれないと思いながら歩くよりは、一緒に並んで歩いたほうがまだましだと思った。

 エセルの申し出に男はわずかに表情を崩して「それはありがたい」と笑った。

「ぜひお願いする」

 言いながら近づいてきた男を間近に見ると、離れて見た時よりも端正な容姿をしていることに気がついた。着ているものもきちんとしているし、とても夜盗の類を働きそうな人間には見えない。もっともエセルは実際にそのような人間に会ったことがないから、本当はどういうものなのか知っているわけではなかった。

「メルセスから来たとおっしゃいましたが、なぜレグホーンに?」

 メルセスは東の大国だ。大陸中でどこよりも繁栄している商業の中心地。あの国へ行けばどんなものも手に入ると言われる場所からなぜレグホーンのような何もない小国へ来るのか、エセルにはその理由が思い浮かばなかった。

「傭兵の募集をしていると聞いたからだ」男の答えは端的だった。

「傭兵? あなたが?」
「そう。見えないか? といってもなるのはこれからだ。メルセスで兵士として働いていたんだが、あの国にいても一日中訓練ばかり、一向に実戦で力を試す日が来ない。いい加減うんざりしてもっと確実に戦えるところに来たかった。ステルスでも悪くはないが、レグホーンのほうが近かったからな」

 エセルは淡々と言う男の顔をしげしげと見つめた。たしかにレグホーンではステルスの要請にしたがって常時兵士と傭兵を募集している。戦争が趣味なのではないかと思えるほどにステルスは常にどこかと戦っているから、当然レグホーンもその一助となるために兵士を差し出さねばならない。それも使い捨てられるためだけに。

 エセルは顔を曇らせて言った。

「傭兵になられるのでしたら、遠くともステルスまで行かれたほうがいいと思います」
「なぜ?」
「レグホーンの兵は最前線に配置されますから。危険もそれだけ大きい」
「ああ、それこそ俺の望みだよ。かまわない」

 男は相好を崩して心から嬉しそうに笑った。その表情を見た瞬間、エセルは彼もまた自分とは違う種類の人間なのだと感じずにはいられなかった。

 なぜ好きこのんで戦おうとするのだろう。戦いは恐ろしい。人を殺すのも、自分が死ぬのも恐ろしい。なぜ彼らはそう思わないのだろう。生まれつき考え方が違うのか、それとも育ってきた環境によるものなのか、彼には今になるまで判断がつかない。ただ、違う、とあきらめのようにそう感じるだけだった。

「傭兵を募集しているのは王宮か?」

 この男は戦うことしか考えていない。そう思ったから、エセルはもう彼を止めようとするのはやめた。頷く。

「そうです。正規の軍はいまだにブレアとの国境に配備されていますから、今は王宮付きの近衛隊が新兵の管理をしています。傭兵の募集もそこです」
「近衛隊、そんなものがいるのか」

 不思議そうに男が呟いたのも無理はないとエセルは思った。彼はきっとこう言いたいのだ。このステルスの属国に過ぎぬ小国で王を守る近衛など必要なのかと。守るべき王などいったいどこに存在するのか、と。

 あるいは、男はただ単純にメルセスと引き比べただけかもしれなかった。以前兄から、メルセスには近衛は存在しないと聞いたことがある。そんな飾りに給料をやるなら米の一粒でも蓄えたほうがいい、という何代か前の国王の一言で廃止になったとか。それを話してくれたとき、兄が笑うでもなくひどく真剣な顔をしていたのを思い出した。近衛の隊長として誰よりも誇りを持っているはずの兄が、そのメルセス王の言葉に何の怒りも示さずにいたことがエセルにはとても不思議だったのだ。

「どうした」

 不意に黙り込んだエセルに男が訝しげに声をかけてくる。エセルは「何でもありません」と首を振ると、男の前に立って歩き出した。

「僕の兄が近衛隊にいます。よろしければご紹介しましょう」
「本当か? それは助かる」

 男の低音の声が弾んだ。エセルは自分でもなぜこの出会ったばかりで得体の知れない男にこんなことを言っているのかわからなかった。いつもならば、知らない相手に自分のことを話したりはしない。ましてや兄を紹介するなどと言うはずがない。

 横に並んだ男の長身を見上げ、その何を考えているかわからない横顔に次第に気分が落ち込んでいくのを感じた。

 こんな男を紹介したら兄がいったい何と言うだろうと思うと恐ろしかった。兄が本当は傭兵を好きではないことをエセルは知っている。金さえもらえばどこの味方にでもなる彼らは、誰よりも容易く裏切り、誰よりも素早く逃げる。彼らは国や王のためなどではなく、純粋に金のために戦う人種だ。そのことが兄にはきっと許しがたく映るのだろう。

「メルセスはよい国ですか」

 沈黙を避けるためだけに、当り障りのないことを尋ねてみる。

 男は前を向いたまま、肩をすくめて「――さあ?」と答えただけだった。

 あとになって思えば彼は正直な男だった。彼は必要な嘘しかつかなかった。そう、彼はたしかにメルセスがどんな国であるかなど、知るはずもなかったのだ。





 傭兵志願者だという男を見て、兄のトレオンは明らかに苛立ったような顔でエセルを一瞥し、ついでファスと名乗った男をあらためて値踏みするように上から下までじろじろと眺めた。その不躾な視線にエセルのほうが居たたまれない気持ちになる。

 しかし当のファスは些かも動じる風はなく、対峙したトレオンを同じように無遠慮な目で眺め回していた。屋敷の明るい光の下で見ると彼の短い髪は褐色で、瞳はそれより明るい茶色だった。

「明日、出直せ。ここは私邸だ」やがてトレオンが口にしたのは、素っ気無く冷淡なその一言だけだった。

「兄さん、それは……」
「お前は口を出すな。泊まるところくらい探せばどこにでもあるだろう。仮に野宿したところでこの男なら死にはしない。お前だったらわからないがな」

 非力な弟を蔑むような最後の一言に、エセルの身体が萎縮して動かなくなった。自分で連れてきたファスのためにせめて一晩の宿くらいは与えてやりたいと思ったが、兄に口答えする勇気はなかった。俯いて目を伏せる。

 ハッ、と短く笑ってトレオンは二人に背を向けた。そのまま振り返りもせずに屋敷の奥に入っていく。その後ろ姿を見送りながらエセルは唇を噛んだ。自分はいつでもこうだ。兄の前に出るとまるで蛇に睨まれた蛙のように何も言えなくなってしまう。

 八つ年の離れたトレオンは、物心ついたときからエセルにとって兄と言うにはあまりに遠い存在だった。凡庸で気の弱い自分とは違い、兄は何をしても人より優れていた。毅然として決断が早く、しかも間違いがない。とりわけ剣の腕は並外れて優れ、今のエセルと同い年くらいのときにはすでに国中でも名を知られるほどになっていた。

「出直そう」

 さほど気分を害した風もなく、ファスが淡白な声で言って歩き出そうとした。

「待ってください。お泊りになるところはあるのですか?」
「ないが、かまわない。彼の言っていたとおり野宿しても死にはしないさ」
「でもまだ夜は冷えます」

「君に迷惑をかけるつもりはないんだ」自分でもなぜ男を呼び止めようとするのかわからないまま言葉を続けていたエセルに向かい、ファスはひどく穏やかな表情でわずかに笑いかけた。

「明日王宮のほうに出向く。ここまで案内してくれてありがとう」

 それだけ言うと、ファスはもう振り返らずにどこかへ行ってしまった。エセルはその後ろ姿が見えなくなるまでずっと見送って、消えた後もしばらくその場に立ち尽くしていた。





 翌日の夕方、いつもより少し遅くに帰ってきたトレオンは、傍目にもわかるほど不機嫌だった。

 今屋敷にいるのはエセルと何人かの使用人だけで、国の宰相を務める父親はこのところずっと愛人のところに入りびたりで屋敷には帰らない。母はとっくに他界しているのだから再婚でも何でもすればいいと思うのだが、一人の女に縛られるのは好きではないのだろう。相手はしばしば変わるし、ときには一度に何人もの愛人を囲ったりもしているから、今では父がどこへ通っているのかもエセルにはわからない。

 そんな状態の屋敷の中では当然主はトレオンのようになり、彼の不機嫌に使用人たちはみな息を潜めて理由を尋ねることもしない。トレオンも自分の不機嫌を周囲の人間に当たり散らすような男でもなく、ただぴりぴりと張り詰めた雰囲気を纏って黙り込んでいるだけだから、自分から進んでその煽りを食らいに行くこともない。

 当然エセルもそんなときの兄に自ら関わりたいとは思わない。なるべく自室に引っ込んで兄とは顔を合わせないようにしようと思ったのだが、夕食だけはたいてい一緒にとることになっている。それを拒否するのも兄の感情を損ねそうで、内心憂鬱に思いながらもいつものように夕食の席についた。兄はまだ来ていなかった。

 しかしほっとしたのも束の間、すぐにトレオンが姿を見せて、エセルを見るやいなや不機嫌を隠そうともしない声で言い放った。

「お前が連れてきた男、近衛隊に加わることになったぞ」
「え?」
「どこから拾ってきたんだ? 腕は確かだった」

 まるでそれがいけないことであるかのように兄の口調は刺々しい。しかしどこから拾ってきたと言われてもエセルには答えられなかった。本当に偶然、山で出会っただけなのだ。エセルは彼のことを名前とメルセスから来たということ以外は何も知らない。

「あの人は強いんですか?」
「そうだな」
「兄さんより?」

 聞いてからしまったと思った。失言だった。こんなことを尋ねられて嬉しい人間がいるはずがない。

 しかし兄は無表情にちらりとエセルを見ただけで、すぐに視線を逸らし、何も言おうとはしなかった。それきり会話は途切れてしまう。

 二人で食事をとるとはいっても、たいていいつも食卓は静かなままだ。エセルも兄も口数が多いほうではないし、年が離れていることもあって共通の話題を見つけることは難しかった。だからエセルはいつも、ただこの時間が早く過ぎ去ることをのみ祈って食事をしている。味などろくに感じる心の余裕もない。兄の機嫌を伺うだけの無意味に張り詰めた時間。兄弟なのに気がついたときから自分たちはずっとこうだった。あるいはそうでなかった時があったのだとしても、あまりにこの状態が長く続きすぎて、今ではもう思い出すことができなかった。

 気づかれないようにそっと、視線だけを動かして兄の顔を盗み見る。エセルと同じで母親似の、どちらかといえば線の細い面差しなのに、エセルとは違い弱々しさはまるでなかった。聡明さと意志の強さを湛えた視線は真正面から相手を見据え、誰を前にしても怯むことがない。時に不遜でさえある物言いもエセルにとっては真似のできない強さの象徴のように思えた。

 ほとんど家にいなかった父親の代わりといえるほど構ってくれたわけではなかったが、少なくとも父親よりは確実に兄を見てエセルは育った。エセルにとっての基準は――何の基準なのかは自分でもうまく説明することはできないのだが――ずっと兄だった。ある意味で、兄がエセルのすべてだった。

 だが兄はエセルを見て、いつもため息をついた。どうしてお前はそうなんだと、言葉には出さずともその目が語っていた。

 兄が自分を嫌っているのは知っている。彼の弟であるというには自分はあまりに平凡で何もできない。ただ人の顔色を窺って傷つかないように息を潜めているだけだ。そんな自分を兄が好きになれるはずがないのはわかっていた。わかっているから、なるべく兄のそばには近寄りたくなかった。これ以上兄のため息を聞きたくなかった。

 食事を終えて部屋に戻るとき、兄はまだ食卓についたままだった。彼の指先がゆっくりと持ち上がり、不意に癇癪を起こしたように頭を掻き毟るのを、何気なく振り返ったエセルは見て目を瞠った。何か見てはいけないようなものを見た気がして心臓の鼓動が速まる。自分が見ていることを知ったら兄は怒るだろう。そう思ったが、それでも目を逸らせずに、しばらくその場を立ち去ることができなかった。





「あぁ? そりゃすごかったぜぇ。どっちも引けを取らずにやりあってたがよ、俺が見たとこあの新人さんのほうが上だね。隊長もそれわかってたんじゃないかと思うよ。何たって剣を交えてた本人なんだからさ。あの人くらいの腕になったら相手の力量を見抜けねェはずがねぇよ、なあ?」
「ええ……そうですね」

 同意を求められて頷きながら、エセルは内心の驚きを隠すことができなかった。

(負けた? 兄さんが)

 正確には負けたわけではない。目の前の男の言うところによるとトレオンとファスは、ファスが傭兵としての雇用を願い出たその場にたまたま居合わせた国王の気まぐれによって御前試合をさせられることになり、しばらく続けても決着がつかなかったため、途中で強制的に終了させられたというのが真実のようだった。そしてその腕に感嘆した国王が自らファスを近衛隊に迎えるよう希望したとのことらしい。

 しかしあの兄ほどの腕を持つ男がすぐに決着をつけられなかったこと自体がエセルには驚きだった。しかも男の言葉を信じるならばファスのほうが強いだろうというのだ。すぐには信じられるはずがない。

「隊長は平然とした顔してたけどさ、内心はどうかねえ。けっこう荒れ狂ってたんじゃないの」

 面白そうに肩を震わせて言ったのはカイアスという名の、近衛隊の副隊長を務める男だった。気さくな性格で、以前何度か屋敷で食事をともにしたことがあり、そのときに知り合った。兄が屋敷でも時折彼の口の悪さを非難しているほど口調の乱暴な男だが、エセルはこの男が嫌いではなかった。はっきりとものをいうところも、自分より目上の人間を前にして臆さないところも好きだった。

 買い物をするために出てきた街で偶然出会ったカイアスは、エセルを見るなりやたら嬉しそうにしてトレオンと新入りの決闘話を聞かせてくれたというわけだった。

 たしかに兄はひどくいらいらしていた。自分でファスのことを切り出しておきながらすぐに黙ってしまったし、彼が何者なのかと気にしているようだった。まさか隊長である兄自身が自ら剣を交えていようとはゆめにも思わないから、エセルはきっと身上の不審な者が近衛隊に入ることが気に入らないのだろうと思っていたのだが、そうではなかったらしい。

(負けたのか……)

 だからあんなに不機嫌だったのだ。

 兄が負けたというその事実をどう受け止めてよいのかわからずに、エセルはただ黙ってカイアスを見た。彼はいつもどおりの陽気な顔で、それでも楽しげな口調からは明らかにトレオンの敗北を面白がっていることがわかる。

「その人はそんなに強かったんですか」
「ああ。強かった。あれはただの兵士じゃないね。動きが違う。隊長も強いが、それよりさらに上だ。滅多にある腕じゃねえ」

 カイアスは口は悪いが腕は一流だとかつて兄が言っていたことがある。その彼がここまで言うのだ、嘘だとは思えなかった。

 いったい何者なんだろう、あのファスという男は。ふらりと現れていきなり近衛に入るなど、以前ならば考えられなかったことだ。たとえどれだけ腕が立ったとしても、国王を守る精鋭たる近衛兵に身元の不確かな男が入ることなどありえない。ステルスの属国に成り下がったとはいえ、レグホーンの近衛隊はいまだにエリートの集まりだ。

 ところが国王が代替わりしてからは、その傾向が次第に変わり始めた。よく言えば身分を問わぬ国王は、物珍しいものが好きだった。それは必ずしも能力が高いという意味ではない。たとえば際立って衣装が奇抜な者だとか、国王に向かっても横柄な口を利く者だとか、そうした常人ならば眉を潜めるに違いない文字通りの変わり者が好きだった。カイアスが副隊長にまでなれたのもそのおかげだ。そしてその国王は生真面目なトレオンのことはあまり好いていない。口にこそ出さないがおそらくトレオンのほうも同じだろうとエセルは思っている。それでもその腕前と身分のために国王はトレオンを隊長位から引き摺り下ろすこともできないでいる。その国王にとって、トレオンを凌ぐかもしれない腕を持つファスの登場はさぞや喜ばしいことだったに違いない。

「あなたはその人に手合わせしてもらわないのですか?」
「俺が? なぜ? 自分より明らかに上だと思う人間とやりあう必要がどこにある?」
「でも練習にはなるでしょう」
「恥をさらさず負ける練習かよ。やるなら家でやるさ、一人でな」

 カイアスは鼻で笑って相手にしなかった。彼には向上心というものがないのだ。落胆すると同時に安心もして、エセルはため息に似た息をついて笑った。



 その夜帰ってきた兄は昨夜の苛立ちが嘘のようにすっかり平然とした無表情を取り戻していて、ファスのことは一言も口にしなかった。エセルはとりあえずの兄の平静にほっと胸を撫で下ろしたが、再び始まったかに見える穏やかな時間も、そう長くは続かなかった。


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あとがき / どこが続きだと思うほどのいきなりの別の話です。いや、この話は最初は番外編の予定だったのですが、本編に行き詰まったのでちょっと新展開をと思って……流れも考えず……。