ブレア戦記   「赤の異邦人」





第九章


 夜明けまでまだしばらくの時を必要とする暗闇の中でエセルは目を覚まし、そっと身体を起こすと、物音を立てぬようにゆっくりと身支度を整えた。眠りから覚めた直後でも驚くほど頭ははっきりしている。春先でもまだ肌寒さを残す空気の冷たさに身震いをして息をつくと、窓辺に立ち、急速に闇に慣れていく目をじっと外の風景に凝らした。

 外は、室内とは比べものにならない寒さだろう。吐き出した息で窓が白く曇り、すぐに何も見えなくなった。エセルは窓に手をついてその冷たさに逡巡する。

 どうしようか、今になってもまだ迷いを捨てることができない。自分がこれからしようとしていることが果たしてどういう意味があるのか、自分自身に対してすら説明することはできなかった。窓硝子のように頭の中が白く濁っていく。

 何度も息をついた。ここでこうしている間にも時間は過ぎていき、夜明けが近づく。

 エセルは泣きたいような気持ちで窓を開けた。夜の冷気に竦む身体に無理やり言い聞かせ、昨夜こっそりとっておいた夕食の残りを入れた袋を手に窓枠を越えた。

 何でもいい。もう一度彼に会いたいのだ。そして見てみたい。

 ――あの不可思議な自信に満ちた顔がどんな風に歪むのか。




 屋敷の裏手に地下室へと通じる階段があることを知ったのは、随分幼い頃のことだった。

 一見しただけでは他とまったく違うところがないその場所は、昼の日の下で目を凝らせばわずかに周囲との不調和に気がつくはずだ。今のようにかろうじて月の柔らかな光だけがあるような時間では何の目印もなかったが、何度もこの場を訪れたことのあるエセルにはもう光も目印も必要なかった。

 一人で持ち上げるには重い石の覆いを渾身の力をこめて押しのけると、人一人通るのがやっとのような小さな階段が現れた。エセルは一歩一歩踏みしめるように階段を下りていく。臆病なエセルは、実際にこの先に足を踏み入れるのは初めてだった。石を動かしてそこにたしかに階段が存在することを確かめただけで、先に行く勇気はなかった。はじめはただ何となく感じた不安のために、そこに何があるのか知ってからはもう、どうしようもない生理的な嫌悪感のために進むことはできなくなった。

 それでも時折ここを訪れてはぼんやりと座り込んで時間を過ごしていたのは、嫌悪を覚えると同時にどこか忘れられず、惹かれるものを感じていたからかもしれない。階段を一段下りるたびに胸の動悸が速まるのを感じる。エセルは深い呼吸をくり返して気持ちを落ち着けようとした。

 ふと鼻を突いた匂いに足を止める。何の匂いだろうと考えて、すぐに身を強張らせた。

(これは、血の匂い……)

 眩暈がする。それがこの場所に長い時をかけて染みついてきたものなのか、あるいはそうではないのか、エセルにはわからなかった。最後の一段に足をかけ、その先にあるものを見つめてようやく、その答えを知る。

 はじめ、凍りついたように冷静になった頭で男は死んでいるのだろうか、と思った。後ろ手に縄で縛られ、壁を背に頭を垂れてぴくりとも動かない男からは強烈な血の匂いがする。わずかの光も届かない闇の中ではその様子はほとんど知れないが、男がひどい怪我をしているであろうことはたしかだった。この血の匂いがなくても、ここにいるというそのことだけで男が無傷ではないことがわかる。

「ファス……」

 独り言のように男の名を呟いた。いや、それは男の本当の名ではない。本当はロイ・ギルシュというのだと、カイアスが眉を顰めながら教えてくれた。

 ロイ・ギルシュ。ブレア四将軍の一人。ステルスとブレアの休戦を受けて国境から帰ってきたばかりの兵士たちが彼の顔を見知っていたことから、素性が知れた。休戦中とはいえ、それが形ばかりのものであることは誰もが知っている。ステルスの敵はレグホーンにとっても敵だ。ブレアの将軍は決して見過ごすことのできない相手だった。

 エセルはギルシュとの間の鉄格子を握りしめた。凍えるような冷たさに痛みを覚え、それでも離さずにいっそう力を込める。

 昨日の夕食に、兄は姿を現さなかった。気まずい食事をともにしないですんだことにエセルはほっとしたが、食事の途中で帰ってきた兄はひどく憔悴した様子で、エセルをちらりと一瞥するとそのまま食事はいらないと執事に告げて自室へ姿を消した。カイアスからファスがブレアの将軍だったと聞かされたのが今日。兄はやはり遅くに帰ってきて、エセルのすぐ隣を通り過ぎたその身体からはほんの一瞬だけ、錆びたような血の匂いがした。

 ふと、男が身じろぎしたような気がしてエセルははっと目を瞠った。

 それは気のせいではなく、ギルシュはゆるゆると頭をもたげると、まっすぐにエセルを見て、かすかな息をついた。

「やあ……君の名前を、まだ聞いていなかったな」

 囁くような小声はかろうじて聞き取れる程度の大きさしかなく、エセルは無理だと知りつつ可能な限りギルシュに近づこうと鉄格子に身体を寄せた。

「エセル。エセル・ミラジオ」

「いい名前だ」男は笑ったように見えた。壁に頭を預けて目を閉じると、疲れたように浅い呼吸をくり返す。 どうして、とエセルは思わずにいられなかった。

 どうしてブレアの将軍がこんなところでこんな目に合わなければならないのか。自分の顔を知っている者がいないとでも思ったのだろうか。何が目的であったにしろ、彼の行動は自ら破滅を望んでいるようにしか思えない。敵国に一人で潜入して生きて帰れると本当に思ったのか。

「ごめんなさい」震える声で呟いたエセルの言葉にギルシュは目を開けた。

「なぜ謝る?」
「その傷は兄のせいなのでしょう。なのに僕はあなたをここから出してあげることができません。ごめんなさい……」
「君のせいじゃない」

 吐き出した言葉と同時に軽く咳き込んで、痛みに耐えるようにギルシュは胸を押さえた。石の牢獄に浅く短くくり返される呼吸の音が響く。エセルは闇に慣れた目で男を見つめているのが辛くなってうつむいた。彼の歪んだ顔が見たいと思ってここへ来たはずなのに、本当はそんなことを少しも望んでいなかったことに気がついた。

「食事を……持ってきました。もし食べられるようなら食べてください。明日も来ます」

 胸を押さえたままで、ギルシュは不思議そうにエセルを見つめた。

「どうしてそこまでしてくれる? 君のせいじゃない。君の兄さんのせいでもない。何も気にすることはない」

 静かな低音に涙が出そうだった。

 誰にも言ったことはない。このレグホーンでそんなことを口にする勇気はどこにもなかった。だがエセルはブレアという国を自国よりもよほど尊敬し、愛していた。その強くて脆い硝子のような苛烈さに自分でもどうしようもないほど惹かれてやまなかった。

 尊敬する国の、尊敬する将軍。その男が傷ついているのを見るのは自分が傷つけられているようだった。彼の感じる痛みなどひとつもわからない――それでも、胸を深く切りつけられるような感覚が消えない。

 鉄格子を握りしめた指を離し、エセルは無言でギルシュに背を向けた。兄に逆らうことはできない。でも彼を守りたいと、引き裂かれるように強く思った。





 トレオンは指先で古い鍵のようなものを弄びながら、何か別のことに心奪われているようだった。常にはないぼんやりした表情で俯き、黙ったまま唇を引き結んでいる。

 夕食を終えた後いつもならすぐに自室へ引っ込むエセルはその日、皿がすべて下げられてしまった後でも席を動かずに兄の様子を窺っていた。トレオンはそんな弟の存在にすら気づいていないのか、目を上げようともしない。

 エセルは何度も言いかけた言葉を飲み込んでは、そういう自分の弱さを嫌悪した。今日、珍しく早く帰ってきた兄にどうしても言わなければならないことがある。きっと彼は許してはくれないだろうと痛いほどわかっているが、それでも何も言わず、何もせずにいることはしたくなかった。顔を上げてまっすぐにあの男の顔を見たかった。

「エセル」口を開こうとした瞬間、唐突に名を呼ばれてエセルは心臓が飛び跳ねそうになった。

 エセルが返事をするよりも早くトレオンは顔を上げると、乱暴に手の中の鍵をエセルに向かって放り投げた。

「これは……」
「地下の鍵だ。知ってるんだろう。しばらくお前が世話をしてやれ。まだ死なせるなと陛下と馬鹿親父が言うのでな」

 兄の声は苛立ちを通り越して呆れているように聞こえた。その言葉に自分がギルシュに食事を届けていたことが知られていたのかとエセルは息を止める。

(それは……そうだ。気づかれないはずがない)

 たとえトレオンが気づかずとも、家人の誰かが気づけばそれは必ず彼の耳に届く。

 だがトレオンはそのことについて何も言おうとはしなかったし、弟の行動よりもギルシュをしばらく生かしておくと決めた国王と父親への怒りのほうが強いようだった。

「もっと早く殺しておくんだった」鍵を手にその場を立ち去ろうとしたエセルの背後で、独り言のようなトレオンの呟きが聞こえた。

 振り返ると、彼は自分の指先に視線を落とし、低い声でもう一度、囁くように言った。「殺しておけばよかった」

 エセルは逃げるようにその場を後にした。





 手にした鍵の重みにしばらくしてからようやくエセルは気がついた。

 受け取ったときはただ、兄に自分の行動が知られていたことに驚いてその意味を考えることもできなかった。だが落ち着いて手のひらの中の鍵を見ればそれは、ファスを――ロイ・ギルシュをあの牢獄から救い出すことのできるものだった。

(あの人を助けられる)

 心臓が早鐘を打ち始める。助けられる。でもそんなことをしたらどうなる? 兄は怒るだろう。兄だけではない。ブレアの将軍を――レグホーンの敵を逃がすのだ。それはエセル自身がレグホーンを裏切ることに他ならない。

 裏切りという言葉の響きにぎくりとして足を止める。自分は裏切り者になるのか、なれるのか。

(なれるはずがない……)

 そんな大それたことをする勇気なんてあるはずがない。

 手にした鍵がずしりと重みを増したように感じた。こんなものを受け取っても、彼を助けることはできない。

 エセルは絶望的に顔を覆い、自分の弱さへの嫌悪とギルシュへの後ろめたさでしばらく動くことができなかった。





 ギルシュは生きているのが不思議なほど憔悴しきっているように見えた。壁に背をもたせかけて荒く息をしている様は痛々しく、顔を背けずに見ているのが苦痛に思えるほどその状態はひどいものだった。もう兄はここへは来ていないはずだったが、ろくに手当をしていないままでは怪我がよくなるはずもない。

 外へ連れ出して、あるいは少なくともこの場で彼のそばへ近寄って手当をしてやらなければいけない。そう痛いほどわかっていてもできなかった。ギルシュは一日中牢獄の隅にいて動かないし、手当をするから近くに来てほしいと言っても小さく首を振るばかりで一向に言うことを聞いてくれる気配はなかった。傷が治らなくてもいいんですかと問うと、なぜこのような姿になってもここまで淡白でいられるのかわからないと思うほど静かに「かまわない」と答えるだけだった。エセルの運ぶ食事にもあまり手をつけている様子がない。

 結局エセルはいまだに鍵を使っていなかった。自分が鍵を持っていることを知れば、ギルシュが逃がしてくれと言い出すのではないかということが怖かった。鍵は常に身近に持っているが、それだけで、使うことがあるのかどうかも自分ではもうわからなくなっていた。

 その日の始まりは、いつもと何も変わらないものだった。

 朝食を終えてからエセルはギルシュのもとへ下りていき、ほとんど食べないと知りながらも十分な量の食事を牢獄の中に差し入れて、そのままそこでじっとギルシュの寝顔を見つめた。彼はこの二日間、ほとんどを眠って過ごした。起きているだけの体力も残っていないのかもしれない。しかし横たわっているほうが楽に違いないのに、彼はいつも身体を起こしたまま壁にもたれて眠る。それは手負いの獣がそれ以上傷つけられることを恐れて身を守っているような姿に見えた。

 眠っていたほうがいい、とエセルはその姿を見つめながら思う。眠りの中にまで痛みが忍び込んでくることのないようにと願いながら、彼が少しでも早く回復するように祈る。この先の彼の運命はエセルの手の中にはない。回復しても同じことかもしれないが、それでも彼の回復を願っている。叶うなら、この場を離れて二度と目の届かないところへ行ってほしい。彼が本来いるべき場所へ。

 ふいにギルシュの目がゆっくりと開かれた。

 エセルは驚いて鉄格子から離れる。

「……夢を見ていた」穏やかな声でギルシュが呟くのを、エセルはまるで自分が夢を見ているような気分で聞いた。

「赤い血の夢だ。人が大勢死ぬ。人は驚くほど簡単に死ぬな。俺もいつか死ぬ。君も」

 笑いかける、その視線に射すくめられたように動けなくなる。

 強い目だった。肉体と精神が切り離されてでもいるかのように、これほど傷ついた身体でもなお、その精神を表す目は少しの揺らぎもなく真っ直ぐだった。

 どうしよう――エセルは何かが自分を激しく揺さぶるのを感じた。初めて見たときから感じていた、ギルシュの何かが自分の中に眠る感情を呼び起こす。彼の目だ。穏やかに凪いだ海のような、すべてを内包する深い森のような、そしてどこまでも遠くへと進んでいく強い眼差し。この目が自分の中にはないと思っていた感情を揺り起こす。

 どうしよう――鍵をぎゅっと握り締めた、そのときだった。

 数人の男たちが叫んでいるような声がかすかに聞こえてきた。

 エセルがギルシュの視線から逃れるように階段を駆け上がり、地上へ出ると、騒ぎの声が一際大きく聞こえた。何事かと慌てて表に回るとちょうど屋敷の中から出てきた兄と鉢合わせになった。

「トレオン隊長! 大変です、ブレア軍がリンレークを取り囲んでいるとの報告が!」
「何だと? 馬鹿な! なぜ気づかなかったんだ!」

 トレオンはエセルを押しのけるようにして駆け出した。「王宮へ行く!」短くそれだけを言うと、後は振り返らなかった。男たちもエセルの姿など目にも入っていない様子でその後に続く。

(ブレア軍が……!)

 ロイ・ギルシュを救いに来たのか――。

 エセルははっとして、すぐに屋敷の裏に駆け戻った。混乱しているせいか、兄はまだ気づいていない。ギルシュを逃がすなら今しかなかった。彼を帰したからといってブレア軍が退いてくれるものでもあるまいが、このままここにいては彼は確実に命がない。珍しい物好きの国王も決断力のない父も、もう彼の命を引き伸ばそうとはしないだろう。

 転びそうになりながら階段を下りて、牢獄の鍵を開けた。もう迷わなかった。

「ギルシュ将軍! お逃げください。ブレア軍がすぐそこまで来ています。追っ手がかかる前に、早く!」

 しかしギルシュはすぐに動こうとはしなかった。

 ああ、まだ立てないのか――絶望的にそう思い、彼の助けとなるためにそばに駆け寄った。腕をとり、立たせようとすると、思っていたよりもずっと簡単に彼は立ち上がった。エセルに寄りかかることなどなく、ほとんど自分だけの力で。

立ち上がるとすぐ、彼はエセルの腕を振りほどいた。かわりに頭に手を置いて、囁くように静かに言った。

「鍵を開けてくれてありがとう。これで少しはホルツの厭味を逃れられる」

 彼が何を言っているのかわからず、エセルはぽかんとしてその顔を見上げた。しかしギルシュはそれ以上エセルに構おうとはせず、しっかりした足取りで階段へ向かう。とても今まで動けなかった人間とは思えなかった。

 呆然とし、だがすぐにはっとして彼の後を追った。しかし走り出した彼を追うのはエセルの足では難しいことだった。いったいどこにこれほどの力が残っていたのかと思うほどの速さでどんどんその背中が遠くなる。

 息が切れて体中が痛みを訴えているが、エセルは止まるわけにはいかなかった。ギルシュが郊外に向かっているならいい――だが彼は明らかに違う場所を目指していた。彼の進む先、そこにあるのは王宮だ。兄がいる場所。

 何のためにギルシュは王宮へ向かっているのか。それは彼がここへ死を覚悟してやってきた理由だと思った。だからそれを、どうしてもエセルは知りたかった。彼が何をしようとしているのか、それがレグホーンに何をもたらすのか。それを知らなければならない。

 王宮内は、リンレークがブレア軍に包囲されているとの報を受けて大きく揺れていた。混乱する役人たちが大声を上げて我先にと逃げ出そうとしている。レグホーンはステルスとブレアとに挟まれたまさに最前線の地だったが、今までこのような事態になったことはない。それはひとえにブレア軍が守りに徹していたからなのだが、それがいつまでも続くと人々は本気で信じていたのだろうか。エセルはその愚かしさに歯噛みするような思いで走り続けた。この混乱の中ではギルシュの姿も見咎められることはないかもしれない。彼が向かうとしたら――そこは王のいる場所しかないだろう。

 そう強く確信してエセルが王の間へ飛び込んだとき、目にしたのは王の首に剣を突きつけているギルシュと、その前で蒼白になっている兄の姿だった。





 王は激しく取り乱して、しきりに金切り声をあげていた。ギルシュはうるさそうに眉をしかめたが、しっかりと王の身体を押さえつけたままで視線はまっすぐにトレオンを見ていた。

「今すぐ陛下を放せ」

 睨み殺しそうなぎらぎらする瞳でギルシュを見返し、怒りに震える声でトレオンが言った。

「貴様の目的は陛下の命ではないはずだ。もしそうならそんなことはしていないだろうからな。ならば陛下を放せ。要求があるならさっさと言え」

 兄の対応は想像以上に冷静なものだった。王の間に来たものの、あまりの展開に身動きもできず突っ立ったままでいることしかできないエセルほどの動揺をトレオンは感じていないようで、怒りの感情を除いては普段の彼とあまり変わるところはないように見えた。

「リンレークはブレア軍が囲んでいる。俺は確認していないが、二軍来ているはずだ」
「そうだ」

 ギルシュの言葉にトレオンは平然とした顔で頷いた。ブレアの二軍、すなわち二人の将軍の率いる軍であり、四人の将軍を擁するブレア軍ではその約半数ということになる。エセルはその数に愕然とした。いかにブレアが小国とはいえ、精鋭と称えられ、長年ステルスと交戦しながらいまだに独立を保ち続けているほどの軍の半数だ。レグホーンの全兵士を集めたとしても敵うはずがない。しかもいつもならブレアとの国境地帯には必ず配置されているステルス兵も、つい先ごろの暫定的な休戦協定の後一時的に自国に引き上げている。

「すまないが、君たちに勝ち目はない」
「……そうだ」

 明らかに気分を害した様子で、それでもトレオンは頷いた。彼の後ろに控えていた近衛兵たちがその返答に色をなす。けれど誰が考えてもギルシュの言葉は真実だ。もともとブレアが本気でレグホーンを落とそうと思ったならばいつでもできたのだ。ただそれは間違いなくステルスをさらに煽ることになるだけだったので、守りに徹してきたブレアはそれをしなかった。だが今、ブレアの何かが変わろうとしている。

「俺は無駄なことをしたくはない。今後ステルスではなく、ブレアに恭順を示せ。ブレアはステルスと徹底抗戦する」

 そのとき初めてトレオンの顔色が変わった。

「ステルスと徹底抗戦だと? 馬鹿な! 勝てると思っているのか!」
「我が王は思っているらしい」

 ギルシュの返答は素っ気無かった。とてもステルスという大国を敵に回して戦いを始めようとしている人間とは思えないその落ち着きに、トレオンのほうが困惑しているように見えた。「勝てるはずがない……」と独り言のように低く呟く。

 思いがけず、不意にギルシュが小さく笑った。

「面白いな。ブレアの心配をする前にレグホーンのことは考えないのか。恭順を示せと俺は言ったんだが、それは受け入れるのか」

 トレオンはギルシュが笑ったことに不快げに目を細め、視線を彼に捕らわれたままの国王へ移す。

「受け入れる、受け入れるとも! レグホーンは今日からブレアにつくぞ!」と国王が叫び、トレオンは苦虫を噛み潰したような顔で視線を逸らした。

「そういうことだ」
「俺はお前に聞いている」
「俺の意見など必要ない。そもそも断る権利などないのだろう」
「そうでもない。どのみちレグホーンはもらうが、ブレアへの恭順を望まないなら人間の出国は自由に認める。ステルスへでもどこへでも行くがいい」
「おやさしいことだ」

 トレオンは吐き捨てた。そしてもはやどう足掻いても状況が変わらないことを悟ったのか――あるいは、彼もまた初めからブレアの出方次第でレグホーンの立場は容易に崩れてしまうということを受け入れていたのか、彼はおよそこの場で考えうる限りの穏やかな声で低く、言った。「では私は、ヴァリエーにでも行くとしよう」

「それは困る」驚いたことに、その言葉に別のところから反対の声があがった。今まで成り行きを見つめていただけの近衛の集まりの中から進み出た一人の男の口からそれは発せられた。エセルもよく知った男で――副隊長のカイアスが、笑いながらからかうように言ったのだ。

「隊長はここにとどまってレグホーンの兵を指揮してくれないと駄目ですよ。将軍もそのおつもりのはずだ。でしょう?」

 カイアスが同意を求めたのはギルシュに対してで、親しげなその口調にエセルは目を瞠る。ギルシュは別段驚いた風もなくわずかに首を傾げて、世間話でもするような調子で答えた。

「本人の意思は尊重する。駄目ならお前が指揮を取れ」
「だからそれが嫌なんですって。俺の言うことなんざ誰も聞きゃあしないだろうし、第一裏切り者はすぐに逃げないと吊るし上げを食らっちまいます」
「そう思うなら黙ってろ。わざわざしゃしゃり出てくるな」

 ややうんざりするような様子で、ギルシュはカイアスから目を逸らした。

 どういうことだろう、とエセルは呆然として上手く働かない頭で考えた。裏切り者――裏切り者? カイアスが?

 そんなはずがない、と打ち消した。彼と知り合ったのは二年以上も前だ。たしかに、それ以前にどこにいたかを聞いたことはないし、彼が副隊長に任命されるとき、あんなどこの生まれかもわからない男を、と反対した者が少なくなかったのも事実だ。だがそれにしても、まさか二年も前からやがて来るこの日のために彼はレグホーンに潜り込んでいたというのだろうか。この国の内情を探るために?

 カイアスは陽気ないつもの笑顔をさらに快活にしてトレオンに笑いかけた。

「そういうわけだから、隊長にヴァリエーなんかに行かれると困るんですよ。将軍はあんたにレグホーンを任せたいんだ。あんたは最初っから近衛隊長なんて柄じゃないでしょう。もっと大きな兵を指揮したいと思ったことがあるはずだ。実際それだけの能力があるんですからね。だからそれを与えようと言ってるんです。ただし、ステルスのためでなく、今後はブレアに忠誠を――形ばかりでも――尽くしてもらうという条件付で」
「黙れ裏切り者。虫唾が走る」

 鋭く切りつけるようにトレオンが言い捨てた。あらゆることをあきらめたように静まりかえっていた彼の瞳に一瞬にして怒りの色が灯り、カイアスを睨みつけると、そのままの視線を今度はギルシュに向けた。ギルシュはそれを、むしろ嬉しそうにすら見える穏やかな顔で受け止めた。

「――いつか殺してやる」
「それは了承の返事と受け取っていいんだな。君が望むなら王政は残そう。もともと名ばかりのものだから、こちらとしてはどうでも構わない」あっさりと言い、ついでのように彼は国王を解放した。急に緊張の糸が切れたせいか国王はその場に崩れ落ちるように尻餅をつく。その無様な様子に近衛兵たちの間から絶望的な呻き声が漏れたが、トレオンは国王を見て小さく「感謝する」と呟いた。

「まあ、俺も体調が万全ではないし、詳しくはまた後ほどにしよう。二、三日君のところに滞在させてもらってもかまわないか」 唇の端を上げて言われた皮肉にトレオンは肩をすくめ、返事をしなかった。





 いつも兄とエセルの二人きりだった夕食の席はその日、ロイ・ギルシュ将軍とその副将のカイアス・ヴィルティを交えて、常にも増した緊張感に包まれていた。

 いつもトレオンが座る上座には当然のようにギルシュがついた。カイアスはその隣、ギルシュに向かい合ってトレオン、必然的にカイアスと向かい合う形になったエセルは、しかし正面のカイアスよりも隣に座る兄のほうが気になって居心地が悪かった。そして斜め向かいの男。

 入浴を済ませ、服も着替えたギルシュはここ数日間のボロ雑巾のような姿が嘘のように、すっきりとして凛々しい若者になっていた。初めてサティスの山頂で出会ったときともまた少し違う。まるで彼を覆う曖昧さがすべて取り払われたように――それは彼の正体を知ったためにそう思えるだけかもしれないが――たしかな存在感を持ってそこにある。気にしないようにしようと思っても、目が奪われる。

 トレオンに傷つけられた身体が痛まぬはずはないのに、ギルシュはまるで何も問題を抱えていないような平然とした顔で頬杖をついていた。顔には目立った傷がないからカイアスにはわからないのかもしれない。だが彼は確かに傷ついている。そしてそれを当然傷つけた本人も知っている。

 やがて召使たちが食事を運んできたが、その手が震えていたのは仕方がないことだった。しかし兄はうんざりした様子で首を振る。ギルシュは頬杖をやめて姿勢を正し、給仕をする年若い少女に向かって小さく微笑みかけた。

「さて、これからの話だが」

 そう口火を開いたのはギルシュだった。エセルは自分がこの席にいることを甚だしく場違いに感じたが、誰も席を外せとは言ってくれないためにその場に留まるしかなかった。仕方なく、目を伏せて、彼らの話の邪魔にだけはならないようにしようと思った。

 あまり表情の変わらない男かと思っていたが、そのときのギルシュは楽しげに見えた。洗練された手つきで食事を進めながら、まるで親しい者同士が談笑しているように穏やかに話す。

「先ほども言ったように、俺としては君に――失礼、あなたにブレアの名代としてレグホーン軍を率いてもらいたいと思っている。政体に口を出すつもりはない。上納金も必要ない。こちらが求めるのはただ一つ、今後ステルスではなくブレアのために力を貸してもらいたいということだけだ」

 その優しげな物言いに、しかしトレオンは不快でたまらないといった顔をした。

「簡単に言ってくれる。ステルスは裏切ったレグホーンを許さないだろう。ブレアに力を貸す前に全滅させられて終わりだ」
「そんなことはさせない」

 力に溢れた強い眼差しをギルシュはトレオンに向けた。自分を信じろというように。彼の態度にはトレオンに拷問を受けた恨みなど少しもこもっていないように見えて、エセルは内心で不思議に思う。なぜこんなにも何もなかったような態度で兄と話ができるのだろう。

「ブレアはステルスと徹底抗戦をすると言ったはずだ。当面の前線はおそらくカイセリーになるだろう。それより北には入らせない」

 カイセリーはレグホーンよりも南、ステルスにおける最北の砦のある町だった。ステルスはブレアを攻めるとき、レグホーンを兵糧の補給地に、このカイセリーから軍を出してきた。それを今後はレグホーンをブレアの補給地とし、カイセリーを囲むように陣営を敷き、この砦を落とすとギルシュは言った。その無謀ともいえる楽天的な見解にトレオンは目を見開いて、やがて小さく笑い出した。

「カイセリーを落とす? 馬鹿なことを。レグホーンからの補給がなくともあの砦にはあらゆる必要物資が揃っている。攻め落とす前にステルスからの援軍が来るぞ。それにあの砦を落とすとなるとかなりの数が必要だろう。その間ブレアががら空きになってもいいというつもりか」
「その点は心配いらない。まもなく頼もしい同盟軍を得る予定なのでね」
「同盟?」

 トレオンが眉を上げる。どこのことを言っているのだろう、とエセルは思った。まさかレグホーンではあるまい。レグホーンの兵士の数はたかが知れている。おそらくブレアの一軍にも満たないはずだ。

 レグホーンではないとしたら、それではいったいギルシュは何のことを言っているのだろうか。

「それはどこのことだ」
「正式に決まるまでは言えない」

 ギルシュの答えにトレオンは呆れたような顔をした。

「名も言えぬような国との同盟を信じろというのか。まだ決まっていないということは失敗するかもしれないということだろう。そんな仮定の同盟国の力を信じてステルスに戦争をしかけるとは、とても名高きブレアの将軍のすることとも思えないね」
「名ばかり大層でも実態はこんなものだ。だから今回も危うく殺されかけた」

 殺しかけた張本人の前で平気でこんなことを言う。案の定、トレオンは苦虫を噛み潰したような表情になってギルシュを睨みつけたが、ブレアの将軍は微笑みながらその視線を受け止めて平然としている。

 一触即発の雰囲気にエセルはとても食事をするような気分になれず、どうしてよいかわからぬまま身を縮こませていることしかできなかった。しかしちらりと正面に座る男を見ると、彼は隣の会話など意にも介していない様子で一人がつがつと食事を続けていた。カイアスの前に並ぶ食事だけがかなりの勢いで減っていく。やはりこういう男でないとブレアの副将はつとまらないのだ。

「それでも俺は生きている。生きている限りは好きにするさ。信じたいものを信じる。信じられると自分が思うものを」

 ギルシュの言葉にエセルははっとして彼を見つめた。

 その静かな茶色の瞳、穏やかでいて強い、嵐の吹き荒れる前のような透き通った静けさを称える瞳から目が離せなくなる。じっと見ていると胸が苦しくなる。お前はここでいったい何をしているのだと、そう問われているようで。

「信じるに値する国がどこにある?」

 馬鹿にしたようなトレオンの問いにギルシュは笑いながら答えた。

「信じるのは国ではないさ。人だ。いついかなるときも」
「理想と妄想とは違うぞ」
「もちろん。君は理想主義者だろう。そしてステルスのイーヴァル王は妄想家だ。反論は?」

 トレオンは睨み殺しそうな目でギルシュを見たが、口に出しては何も言わなかった。

 兄を理想主義者だと言いきったギルシュの観察力にエセルは驚く。そう、兄は確かにある意味で理想主義者なのだ。王にも父親にも弟にも理想を求め、叶えられないことに苛立っている。

「では確認を。これより三日後、ブレアはこのまま二軍を投じてカイセリーを落とす。指揮は俺とホルツ将軍が執る。そしてレグホーンにも集められる限りの兵を出してもらう。指揮は君が執る」
「ふざけるな、レグホーンには正規の将軍がいる。俺がしゃしゃり出られるはずがない」
「使えぬ将軍など首にしろ。指揮は君が執れ。練習だと思えばいい。今回はブレア軍が全面に立つ」

 有無を言わさぬ、そして勝利を疑わぬ声だった。

 凛としたその声に、強すぎる眼差しに揺さぶられる。エセルは胸の動悸に痛みを覚える。その無言の問いかけに。

 ――お前はいったいどう生きるのか、と。


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あとがき / 書き溜めてある最後の話です。ということはここでブレア戦記は長期の中断に入ると(殴)。う、いや、書けたらまたUPするつもりです。いつかちゃんと書きたいです。