チェリーブロッサム





 朝目が覚めて新聞を取りに外に出たら、明けたばかりの空に薄紅色と透き通るような青が見えた。
 よく晴れた朝だった。起きる時間は毎日同じなのに空のほうは日に日に変わっていく。こういう瞬間に、季節の移り変わりを意識する。ほんの一瞬、それはたとえば花の匂いだとか、身体に触れる空気の冷たさだとか、けたたましい虫の鳴き声だとか。ある日突然気がついて、なぜか胸を突かれるような郷愁とともに、今自分が立っている場所、かつていた場所を思う。
 それはつい去年のことだったり、時にはもう昔話のように遠い過去のことだったり。
「あー、いい天気だ」
 玄関の前で、新聞を手にしたまま大きく伸びをした。空気はまだひんやりと冷たさを残しているが空の明るさに春の到来を感じる。そしてテレビニュースでよく聞かれるようになった桜の開花予想。開花は例年よりわずかに遅れて今週末、満開になるのは四月の第二週くらいだろうと昨日の朝のニュースが告げていた。
 不意に、花見がどうとか誰かが言っていたなと思い出す。
 桜が咲いたらキャンパスにビニールマットを広げて弁当を食べながら花見をしよう。
 恒例行事なんだぜと本当なのか嘘なのかわからない表情で笑い、岡部ゼミ生は絶対参加と強引に決めつけたのは神田という四年の先輩だった。もともと二年先輩だったのが、今春卒業できずにもう一度四年生をくり返すことになった男だ。そのわりに本人はあっけらかんとして少しも悲壮感がない。卒業制作が間に合わなかったと言うのが留年の理由らしいから、案外本人は最初から残るつもりでいたのかもしれない。
 部屋に戻り、トーストとオレンジジュースだけの簡単な朝食を取りながら新聞を読んだりテレビを見たりした。今日はやはり、晴れで、明日と明後日も晴れ、週末の土曜日曜は天気が崩れがちだと予報があった。それがもし本当なら土曜に少し足を伸ばして川原で絵を描こうと思っていたのを別の日に変えなければいけない。
 いっそのこと今日の授業をさぼって行こうかと考えかけて、やめた。
 読み終わった新聞を放り出して立ち上がる。大学へ行く用意をしなければいけない。
「やっぱりどうせ描くなら桜の咲き始めを描きたいよなぁ」


 日頃あまり信頼を置けないと思っているテレビの天気予報というものの底力を見せつけられた。
 そう言うと、雨の土曜日にわざわざやってきた物好きな友人は声を出して笑った。
「当たってほしくないときほど当たるもんよ」
「授業みたいだな」
「うまい。座布団一枚」
 千賀子は手を叩いて喜んだ。別に喜ばれるようなことを言ったつもりはない。
「お前いったい何しに来たの」
「えー、だって春だから」
「春だから?」
「というかエイプリルフールだから。伊原騙そうかと思って」
「………」
 そんなことを騙そうとしている相手の前で言ってどうする。
 それにしても今日が四月一日だなんてことはすっかり忘れていたから、これを聞かなければ騙されていたかもしれない俺は黙り込むしかなかった。しかし千賀子が平然とした顔をしたまま何も続けようとしないので、しかたなく、言った。
「用がないなら帰れよ」
「どうして。これは宣戦布告なんだってば。今日私はひとつ嘘をつくから、騙されたら伊原の負け。ご飯おごってよ」
 騙されなかったら私がおごるから、と千賀子は長い髪をかきあげながらフフフと笑った。まったく何が楽しいのかわからないが、彼女はたいていいつも楽しそうな顔で笑っている。それは高校の頃から少しも変わらず、そういうところが周りの人間たちから好かれていた。
 それはまったく当然のことだろうと思う。
「ねえ、雨、やんだみたい」
 突然千賀子が言った。
「俺の耳にけんか売ってるのか」
 ざあざあと降り続ける雨の音に、いくら耳が慣れてきたといっても聞こえなくなるはずがない。蒸し暑いような気がして少し窓を開けているからよけいに音が響く。
「今のは嘘じゃないし。午後には本当になるし」
 千賀子はカーペットの上にだらしなく寝そべって新聞を読み始めている。朝方は雨、午後からは曇りのち晴れ。
「雨あがったらちょっと外行こうね」


 雨上がりの空気は爽やかに澄みきって、冬の名残の冷たさと春の暖かさが混じったような空気が肌に心地よかった。ひょー、気持ちいー、と千賀子が弾んだ声で言い、スキップするような軽い足取りで先に立って歩いていく。
 道の端にできた大きな水たまりに空の青が映り、光を反射していた。空の半分くらいをまだ灰色の雨雲が占めていて、その切れ間から雨に洗われたような真っ青な空が見えている。いつのまにかもうこんなに空が明るくなっている。冬の穏やかな青空とは違う、もっとずっと光の強さを増した空。夏に向けて加速していく空の光。
 ――あ。
 前を歩いていた千賀子が呟いて、足を止めた。振り返る。
「ねえ、桜、咲いてるわ」
 思わず指差された方向へ首を向けようとして、気がついた。「嘘つけ」
「嘘じゃないってば。もう、ほんとよ」
 怒ったような顔をするのでその方角を見ると、たしかに大きな桜の木が一本、塀の上から姿を見せていた。満開には程遠いがちらちらと薄紅色の花びらがついている。今週末の開花というのはやはり本当だったかとつまらないことに感心する。
 しかし青い空をバックにした桜の色はあまりに薄く、葉のない枝は寒々しく、新たな季節の始まりというよりは季節の終わりのような寂寥感に満ちていた。もちろん春の始まりは冬の終わりであるわけだけれども、そういう意味ではなかった。春の終わりのようだった。
「葉桜がね、私一番好きなのよ。だって季節の始まりみたいな気がするじゃない?」
 背伸びして咲き始めの桜を見ながら千賀子が言う。
 それはあまりに自分の考えていることと近かったので、返す言葉がなかった。そして不意に、これが嘘だったらそんなものわかるわけがない、と思った。好き嫌いというのはあまりにずるい。そう言おうとしたら、見透かしたように彼女は俺を見上げて、笑った。
「ねえ、私、伊原のこと好きよ」
 どうせ描くなら葉桜にしようと、頭の隅で思った。すぐ近くを通り過ぎていった車が水たまりを跳ねる、パシャンという音が聞こえた。


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あとがき / 春は近いような遠いような。番外編もあと一つを残すきりとなり、その次になにをUPするべきかまだ考えていない身としては……(-_-)。