月のない夜







「誰かいい人紹介してくださいよ」
 年末までもう残りわずかとなった十二月の半ば、課の全員で行った忘年会は九時過ぎにはお開きになっていた。
 比較的女性の数が多い上、真面目な人間が大半だから、飲み会が夜遅くまで長引いたためしがない。しかしそれでもやはり若い連中は二次会、三次会と繰り出して、最終電車も乗り過ごして仕方なくタクシーで帰る羽目になることも少なくない。
 杉田雅浩は年齢的には十分若い方であり、陽気な性格も大勢で騒ぐことを好むように思えるが、そうした深夜までの二次会に参加することは極めて稀だった。「愛する家族が待ってるからさ」とにやにや笑いながら言い、じゃあなと片手を振るのが常である。
 けれど実際のところはそれほど家族に対して真面目なわけでもなく、平日でも気の合う友人や後輩と遅くまで飲み屋に居座ることも多かった。要するにあまり親しくない相手と長く一緒にいるのが好きではないだけで、決して飲むのが嫌いなわけでも今時珍しいほど家族思いなわけでもない。
 一見して誰とでも仲良くやっているような彼の、実際の好き嫌いの激しさを知っているのは課内でも一握りの人間だけで、今年の四月に入ったばかりの後輩である長谷川和もその中の一人だった。
「何お前、女に不自由なんてしないだろうが」
 盛り上がりに欠ける忘年会の後、杉田と二人で立ち寄った飲み屋のカウンターで思わず漏らした和の言葉に、杉田は笑ってそんな答えを返した。
 前の店でもけっこう飲んでいる風だったのに、顔はいたって平然としてまったく通常と変わりない。いくら飲んでも酔えないんだよ、とかつてため息混じりに零していた言葉どおりに、彼が赤い顔をしているところを見たことがなかった。
「現に今、してるじゃないですか。もう一年以上独り身ですよ」
「それはお前にその気がないからだろ。植野さんとか明らかにお前のこと好きそうなのに、なんで誘ってやらないんだ?」
「年上がいいんです、年上が」
「何だよそりゃ」
 水を飲むような勢いでビールを飲みながら、杉田はくっくっと肩を揺らした。彼がいったいどれだけ飲んでいるのか和には想像もつかない。酔えないのなら飲んでも仕方がないはずなのに、飲み会では誰よりよく飲んでいるのがいつも不思議でたまらない。
「年下もかわいいじゃないか。植野さんはしっかりしてるし、いいと思うぞ、この贅沢もん」
「杉田さんの奥さんは」
 和は話題を変えた。手にしたコップを目の高さまで持ち上げ、睨みつけるように見つめる。麦色の液体は半分ほどまで減っていた。「同い年でしたっけ、中途半端だな」
「失礼な奴だな。他に言い様はないのかよ」
 杉田は眉を潜めたが、目は笑っていた。杉田は今の和より若い二十四歳の時に高校のときから付き合っていた彼女と結婚したと聞いている。二十四歳。その若さでいったいどうしてこれから先一生の相手を決めてしまえるのかと思うと、まったく理解できないと思う。
「俺、こっち来てまだあんまり知り合いいないんですよ。年上の美人紹介してください。杉田さん知り合い多そうだから」
「年上つってもいろいろあるが、どのくらいがいいんだ?」
「三十前後かな……」
「本気かよ? けどそれなら俺の同級生でもいいくらいだな。同じサークルだった連中に声かけてやろうか。お前の趣味に合うかどうか知らんけどさ」
「ええ、ぜひお願いします。恩に着ますから」
「仇で返されそうだけどな」
 肩をすくめた杉田はいきなり和のコップに手を伸ばし、奪い取った。
「お前、飲みすぎ。もうやめとけ」
「ちょっと……返してくださいよ」
「駄目だ。お前はもう終わり。――すみません! 烏龍茶一つ!」
 奪い取ったコップを一瞬のうちに空にしてから、店員を呼び止めて勝手に注文する。
 和は舌打ちして「子ども扱いしないでくださいよ」と抗議したが、杉田は聞こえなかった振りで返事をしなかった。
「そんなに酔ってないですよ、まだ大丈夫です」
 しつこく言い募り、杉田の腕を掴んで揺さぶると、杉田は困った子供を見るような表情を向けて苦笑いした。彼のこういうところが嫌いだと内心で和は思った。たった六つしか違わないのに、いつも自分だけすべてわかっているという顔をして余裕に溢れているところが嫌いだ。
 急に腹が立ってきて、「酔ってないですって!」と和は強い口調でくり返した。
「じゃあ立ってみ、そら」
 椅子を引かれる。酒が入ったせいで少し身体が熱いが、それ以外には何も変わったところはないと思っていた和は渋々立ち上がり、そしてすぐに視界がぐらりと揺れるのを感じると、慌ててカウンターの端を掴んだ。
「飲み過ぎだってわかっただろ」
「……ちょっとくらっとしただけです」
「強情な奴だな。お前が女の子で俺が狼だったら襲われてるぞ。ま、どっちも違うからいいけど」
 手酌で注いだビールをほとんど一気にのどの奥へと流し込みながら、杉田は肩をすくめて小さく笑った。
 再び椅子に腰をおろした和は、そのとたん眩暈に襲われて額を押さえた。さっきまでは何の自覚もなかったが、たしかに自分はかなり酔っているのかもしれないと思った。どれだけ飲んでも平然としている杉田といると自分の限界までが引き上げられるように感じてしまう。
「飲んどけよ烏龍茶。後でのど渇くから」
 口元に押し付けるように勧められては断れなかった。本当はこれ以上何も飲みたくないと思っていたが、少し無理をしてコップの中身を全部飲み干すと、それを見計らったように杉田が席を立った。「帰るぞ」伝票を手にする彼を座ったまま見上げていると、腕を掴んで立ち上がらされた。
「お前も帰るんだよ」
「俺はもうちょっと……」
「もう飲めないぞ、わかってるだろう」
「それは、わかってますけど、家に帰ったってどうせひとりだし……」
 待つ人の誰もいないアパートの一室を思い浮かべ、首を振った。一人暮らしは大学生の頃からずっとしているからもう慣れている。慣れているが、時折人恋しくなるのも本当のことだった。特に大学時代に恋人と同棲していた時間も長いから、その時の記憶がよけいに独りきりで部屋にいるのを虚しい気分にさせる。
「子供みたいなこと言うなよ。――寂しいのか?」
 杉田の言葉に和は肩を揺らして笑った。杉田はちょっと眉を寄せ、一瞬だけどうしようかという顔をしたあとで、小さくため息をついた。
「とにかく家まで送ってやる。この近くだったよな?」
 和は頷いた。アパートを借りるとき、会社と駅のどちらからもさほど離れていない場所を第一条件に決めた。車の運転はなるべくしたくなかったから、自転車か徒歩で行けるような距離がよかったのだ。
 ちょっと待ってろと言って勘定をすませると、杉田は店の壁に寄りかかるように立っていた和の肩を押して外へ促した。「お前、歩けるな? それともタクシー呼ぶか」
「歩けます。タクシー呼ぶような距離じゃないですよ、大丈夫です」
 はっきりとそう言えたつもりだったのに、杉田は眉をひそめて「呂律回ってないんだよ、どこが大丈夫だ、お前はホントに……」と呆れたように言った。
 外に出ると、杉田はぶるっと身体を震わせて「寒いな」と呟いたが、和は酔いのせいかあまり寒さは感じなかった。ほてった身体にはむしろ涼しくて気持ちよく感じられるほどで「そうですか? 俺は涼しいけど」と笑いながら言ったら杉田は「そりゃよかったな」と邪険に返しただけだった。
 はあっと息をつくと白く凍る。何だか面白くてくり返し指先に向けて息を吐き出していると、杉田が和のコートのポケットに手を突っ込んできて、手袋を引っ張り出すと和の手を捉えて強引につけさせた。
「……杉田さんは?」
「俺は車通勤だから持ってないの。自転車通のお前が手袋してんのは見たことあったからな、いっつも適当にコートに突っ込んでるのも」
「だったら杉田さんがつけてくださいよ。寒いって言ってたじゃないですか。俺はなんかけっこうあったかいし」
「俺はいいの。それより家どっちのほうだ」
「……どっちだったかな……」
 この期に及んでも帰るのが嫌で、目を逸らしながら呟いたら「お前ね」と杉田の呆れる声が聞こえてきた。
「捨てて帰るぞ、ここに」
「そうしてください。俺はコンビニに行って朝まで立ち読みでもしてますから」
「馬鹿。家はどっちだ、早く言え」
「もう……放っといてくださいよ……」
 帰りたくない。ここのところいつもそう思っているが、今日はとりわけその思いが強かった。酒に酔って頭がぼんやりしているせいで、感情面での抑制が効かなくなっているのかもしれない。
 そう、今日は帰りたくない。どこか別のところで夜を明かそう。明日は休みだ。寝なくてもまったく困ることはない。「じゃあ、おやすみなさい」と小さく頭を下げて歩き出そうとしたら、襟元を掴んで引き戻された。
「ちょっと、苦しいって……」
「このガキ。何拗ねてるんだよ」
「拗ねてなんてないです」
「だったら素直に言うことを聞け。……独りでいるのが嫌なんだったらしばらくいてやるから」
 苦虫を噛み潰したような顔で、渋々といった様子で杉田が言った言葉に和は目を瞠った。「本当ですか?」
 だったら帰ってもいいと思った。杉田に迷惑をかけたくはない。けれど彼の言葉は素直に嬉しかったので、思わず顔が笑ってしまった。
「じゃあ帰る……」
「この酔っ払い。で、家は? 向こうか?」
 和は頷くと、不思議なほど軽くなった心で自分のアパートへ向かって歩き出した。足元は少し覚束ないが、ひとりで歩けないほどひどくはない。それでも時折わずかにふらついたりすると、そのたびに少し後ろを歩いていた杉田が手を伸ばして支えてくれた。
 十分ほども歩くともうアパートの前だった。三階建ての建物の二階。服や持ち物にはそれなりにこだわりがある和は、自分でも不思議に思うくらい住居に対しては関心がなかった。とりあえず風呂とトイレがついていれば、あとは家賃が安ければ安いほどいい。
 それでも仕事先と駅から近いところという条件を満たすところで、それほど家賃の安いところはなかった。どれもそれなりにこぎれいな建物で、家賃もそれに見合うくらいのものだった。
 階段を上り、自分の部屋の前で立ち止まって鍵を開けようとしたが、酔いのせいか鍵がうまく鍵穴に入らなかった。舌打ちをして何度かやってみてもうまくいかない。見かねた杉田が「貸せ」と和の手から鍵を奪い取り、すぐに扉を開けてしまった。
「入れよ、靴脱いで。そう、しっかり立てって」
 まるで自分の部屋であるかのような杉田の口調がおかしくて笑った。杉田は怪訝な顔をしたが、何も言わずに和の背中を押し、部屋の中へと促した。
「上着脱いで寝ちまえ。暖房は……ないのか。じゃあちゃんと布団着ろよ。おっと、寝る前に鍵閉めろ、俺が出てから」
 すぐにもベッドに寝転びそうになっていた和はその言葉に思わず杉田を振り返り、まじまじと彼の顔を見た。意識が妙にはっきりしている。
「何だよ……」
「しばらくいてくれるって言ったじゃないですか」
「……覚えてたのか」
「だから帰ってきたのに。いいですよ、帰っても。俺はコンビニ行くから……」
 杉田を押しのけて再び玄関へ向かおうとすると、「あー、もう」という苛立ったような杉田の声とともにぐいと腕が引かれた。
「わかったよ、いるって。だからおとなしく寝ろ。この馬鹿」
 彼の怒鳴り声にそれでも安心して、和は笑った。大人しく上着とネクタイだけ外して椅子にかけ、ふと思いついて言った。
「飲みなおしますか? ビールしかないけど……」
「ひとりで飲んだって面白くねえよ。いいからお前はさっさと寝ろ。子守唄は歌わないぞ」
「お話もしてくれないんですか」
 笑いながら言うと頭を小突かれた。早く寝ろと睨むような視線で促されて渋々ベッドに入る。「杉田さんは? 一緒に寝る?」 杉田はがっくりと肩と頭を落として、長い長いため息をついた。
「長谷川、お前さあ……」
 その後に続けて何か言ったようだったが、和には聞こえなかった。ベッドに入ったとたん急速に眠気が襲ってきたからだ。そういえば最近残業が続いてあまり寝てなかったな……そう思っているうちに意識がぼんやりと薄れていき、やがて彼は静かな寝息をたてはじめた。


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あとがき / 本当は「風のない空」とこの話の間に本編があったのですが、パソコンが壊れたときに消えてしまって今はもうどこにもありません(哀愁)。できはともかく180ページもあったので悲しいです。「月のない夜」というのは本当はそちらの本編のタイトルだったのですが、勝手にこっちに使いました。いや、最初こちらにつけていたタイトルだと他の二つと統一性がないもので。