10 金曜日の夜はこころなしかいつもより賑やかで、通りを行き過ぎる車の音も多く聞こえてくるような気がする。 道路に面したアパートで、普段なら気にもとめない車の音に敏感になるのは人を待っているからだった。急ぎの仕事が終わったらすぐに来てくれると言っていた杉田の言葉を思い出しながら、和はベッドに腰かけてただぼんやりと窓を眺めながら時間を潰していた。 六月に入り、夜になってもなかなか気温が下がらなくなった。梅雨入りを迎えればまだ幾分寒さも戻ってくるのだろうが、それまではもうしばらく夏の盛りのような暑さが続くだろうとテレビでニュースキャスターが話していたのを思い出す。 夏だ、と思うとそれだけで気が滅入ってくるのを感じた。夏のうだるような暑さが昔からずっと苦手だった。突き刺すような強い陽射しや日が落ちた後も冷えない空気、生温い風、けたたましい蝉の声、空いっぱいに夏の象徴のように広がる入道雲やプール帰りの日に焼けた子供たち、それらすべてが嫌いだ。今ではもうそのもの自体が嫌いなのか、それが夏の暑さを思い出させるから嫌いなのかもよくわからなくなってきた。ただ夏に関するすべてが嫌だと思った。別に理由なんてどうでもいい。 「暑いな……」 開け放した窓からも風はほとんど入ってこなかった。帰ってすぐに着替えたTシャツにももう汗が滲んでいる。髪をかきあげ、額の汗を手の甲で拭ったところで、車のエンジン音が聞こえた。アパートのすぐ隣は有料駐車場になっていて、杉田はいつもそこを使う。 目を上げてドアを見つめながら待っていると、案の定、短いノックをしてから杉田が姿を見せた。彼は和と目を合わせるといつもどおり少しだけ困ったような微笑を見せ、「よう」と言った。 「やっぱりバテた顔してるな。お前、本当に夏に弱いんだな」 「杉田さんだって弱いって言ってたじゃないですか」 「お前ほどじゃないよ」 靴を脱いで部屋に上がると、杉田は和のすぐそばまで歩いてきて、ベッドの前で少し身を屈めた。 目を閉じた和に触れるだけのキスをする。すぐに離れてしまった温もりを惜しいと思ったが、しつこくして杉田を困らせるのは嫌だったから何も言わなかった。こんなふうに、彼から触れてくれるようになるのにも時間がかかったのだ。 「この部屋本当に暑いな。扇風機くらい使えよ」 「風が目に入ると気持ち悪いんだ」 「何ていうかまあ、お前生きづらくないか? そんなんで」 和は笑った。杉田がいてくれるから大丈夫だと思った。けれど暑さにため息をついて上着を脱いでいる杉田の姿を見ると申し訳ないような気持ちになって、言った。 「暑い思いさせてごめんなさい。俺、今度扇風機買うよ。いや、エアコンつける」 「馬鹿」 杉田は呆れたような顔をした。 「そんな無理しなくていい。お前が苦手ならしなくていいよ」 「だって杉田さんに嫌な思いさせるの辛いからさ。ここに寄ってくれなくなったら嫌だし」 「何言ってんだ。営業に出てるときはもっと暑いよ。お前は変なことに気をつかうな」 杉田は子供にするように和の頭を撫でると、目を細めて小さく笑った。頭に置かれていた手が頬に下りてきて、包み込むようにそっと撫でる。暑いはずなのにその手の温かさが心地よくて和が思わず吐息を漏らすと、杉田はまた顔を近づけてきて、唇が触れた。そしてすぐ離れようとするのを、杉田の頭に手を回して止めた。今度は自分から口づける。触れるだけじゃないキスをした。 そのまま杉田の背を抱いてベッドの上に倒れこんだ。杉田は積極的に舌を絡めてきたが、和の手が下半身に触れようとすると、その手を掴んでベッドに押さえつけた。両手の動きを同じように封じておいて、キスだけ何度もくり返す。その度にどんどん自分の身体は熱さを増してくるのに、少しも満たされないのが辛かった。抗議するように軽く舌を噛んでも杉田は気づかないふりをした。そして唇を離すと、素早く起き上がって何もなかったような顔をした。 「……杉田さん」 「飯、まだ食ってないんだろ? 作るよ。簡単なやつでいいなら」 「杉田さん」 呼び止めても杉田は背を向け、さっさと台所に向かった。和はベッドから起き上がると、杉田の背中に後ろからしがみついた。 「杉田さん、俺、したい」 「……離れろよ。動けない」 「嫌だ。俺腹なんて減ってない。杉田さんとしたい。……頭おかしくなりそうだよ」 既にたち上がりかけている下半身を押し付けて言っても、杉田は首を振るばかりだった。 「駄目だ。落ち着けよ」 「落ち着けない。身体が熱い。杉田さんのせいなのに、何で責任とってくれないんだよ」 まるで親に甘える駄々っこのようだと自分で思ったが、止まらなかった。 夏の暑さなんて忘れるくらい興奮で身体が熱くなっているのに、平気でいられる杉田が信じられなかった。 「杉田さんが嫌だって言うなら無理やり襲う」 「物騒なこと言うな。お前には無理だよ」 「無理じゃないよ」 「俺のほうが身長も力もある。やってみるか?」 絶対無理だと確信している杉田が腹立たしかった。腹立ちのまま本当に彼の身体を床に押し倒そうとしたら、逆に腕をとられて壁に押し付けられた。背中が壁にあたった痛みに思わず顔をしかめると、とたんに杉田は心配げな表情になって「大丈夫か?」と尋ねてきた。彼の言葉どおり力では叶わないことが情けなかった。もっと鍛えておくんだったと無駄な後悔をせずにいられない。 「……大丈夫じゃない」 「長谷川。俺を誘惑するなよ」 杉田はため息をついた。そして自分でもどうしようもないというふうに困った顔のままで和に唇を寄せた。 「……なんで?」 短いキスの後、腕を掴まれた姿勢のままでまっすぐ杉田と向かい合い、和は問いかけた。 「キスはいいのに、セックスは駄目? セックスしなきゃ浮気じゃないって思ってんの? 杉田さんの中ではそんなに違いがあるんだ?」 「ないよ」 杉田の答えは早かった。 彼は目を細め、和の顔を辛そうに見てから、「違いなんてない」ともう一度くり返した。 「同じだよ」 「だったらいいじゃないですか。しようよ。俺とするの気持ち悪い? 男だから?」 「違う」 「したい。すごく。俺、杉田さんとセックスしたい」 こんなに誰かとセックスしたいと思ったのは生まれて初めてだった。叶えられないからよけい求めるのかもしれない。あの告白の日以来、キスは何度もくり返したのに、杉田は決してそれより先に進もうとはしなかった。始めは戸惑いがあるのだと思った。けれどあれから二ヶ月近くが経とうとしている今になっても杉田の態度は変わらない。戸惑いだけではない別の理由があると考えないわけにはいかなかった。 身体の熱に頭まで侵食されてわけがわからなくなりそうだった。自分の感情のコントロールも上手くできない。 和は浮かされたように何度も「しようよ」とくり返したが、杉田は抱きしめてくれるだけで、和の言葉に応えてはくれなかった。しまいに和は鼻を啜って杉田の肩に顔を埋めた。 「何で……。俺、全然わからないよ……」 「ごめん」 謝ってほしいわけじゃない。けれどどうやったって駄目なのだということははっきりわかった。和は杉田の身体にしがみついたまま片手で自分の下半身を弄った。杉田に抱かれているのを想像して擦った。杉田の手がそっと和の手に添えられて、すぐに彼の手が直に触れてきた。 今自分に触れているのが彼の手だと思うだけでおかしいくらい興奮した。それですぐに達した。 「手……汚しちゃった……ごめん」 「馬鹿」 杉田の声は優しかった。呆れているのかもしれないが、それでも少しもそんなことを感じさせないくらい優しかった。 「明日……」 和の声に、杉田は「うん?」と目を上げた。 「俺、東京に帰る。日曜に兄貴の結婚式があるから……」 「……そうか」 杉田は和の髪をそっと撫でた。彼はきっと自分が兄のことをどう思っているかなんて知らない。そう思うと、なぜか杉田に対して後ろめたいような気分に駆られて和は戸惑った。兄との間には何もなかった。けれどそれでも、どうして杉田を裏切っているような気分になるのだろう。わからなかった。 「わがまま言ってごめん」 申し訳なさのままに言った。杉田は一瞬何のことを言われたのかわからない様子だったが、すぐに「お前のはわがままじゃないよ」と笑った。 「わがままなのは俺のほうだ」 杉田の言葉をどういうことかと問い返すより早く、強く抱きしめられて、唇が重なった。 キスだけでも十分だった。家族に対する後ろめたさを抱えながら自分と会ってくれている杉田に、それ以上求めることは贅沢だと思った。だからいつものように何度もキスだけくり返して、さほど夜が深まらないうちに、杉田は帰っていった。その背を見送りながら、杉田といるときは忘れていた夏に対する嫌悪がまた戻ってくるのを和は感じた。 そして明後日には、また夏を嫌う理由が一つ増えるだろう。 |
| あとがき / 暑さがタイムリーです。この暑い中いちゃついているカップルはすごいな、と道を歩きながら独り者は思う…。 |